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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

続「論理的時間」:「13という数と疑念の論理的形式」

*「13という数と疑念の論理的形式」(Le nombre treize et la forme logique de la suspicion, 1946)

 

  初出はLes Cahiers d’Art (1945-1946)。後、Autres Ecrits に収録。さいわいにも向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイトにアップされている。

 

 「論理的時間」の続編的論考。レイモン・クノーご推奨の算術的クイズ。エピグラフとして、「心的因果性についてのディスクール」からつぎの一節が引かれている。「変換するものの諸記号のためにできたわれわれの目にはさらに近づき難い……」。

 

 同じ外観をした12枚の硬貨のうち、悪貨と言われるものが一枚ある。重さの違いでそれは区別できるが、秤がなければその違いを明らかにすることができず、違いがより大きいものか小さいものかは不明である。

 求められるのは、この硬貨を三回だけ計量し、他の硬貨の中から見つけだすことである。計量のためには二つの皿のついた天秤がひとつあるだけで、硬貨そのもの以外には分銅やその他のいかなる目方も使えない。(向井訳)

 「論理的時間」に代わるあらたなキーワードは「両義的疑念の形式」。「論理的時間」に次いで、これが「集団論理の初期形式の分析」に寄与するものであるとされる。ただし、ここでは時間的に継起するものの比較が問題になっている。「論理的時間」同様、「個体が規定される前に、個体の集合への関係が定義されなければならないような論理形式」、つまり「主体」に内在的な共同的次元が探究される。「それは実存の主体がわれわれにとって根源的に文化的なものである本質と一体化する部分であり、それにたいして人間性という言葉が適用される」。

 

 秤に六枚ずつ硬貨を乗せても、結果はわかっている。そこで、硬貨を三分割することになる(「三分割は集団論理において少なからず現れる形態である」)。

 

 4枚ずつの二組を計量する。両皿が平衡すれば、残りの4枚のなかに悪貨があることになる。そこで、残りの4枚から一枚ずつを両方に乗せる。両皿が平衡すれば、その二枚は良貨であるから、そのうちの一枚を疑惑の硬貨のうちの一枚と比べればよい。

 

 二回目でどちらかが重い場合、悪貨はあらたに乗せられた二枚のうちのいずれかである。

 

 では、一回目でどちらかが重かった場合はどうか? 天秤に乗せられた8枚のいずれかが悪貨である。「だが、8枚の中から悪貨を見つけださなかければならないとしても、それぞれの硬貨にかかる疑念はすでにここで分裂している」。悪貨が重すぎるのか軽すぎるのかが不明なのだ。「したがって、二回目の計量の結果は次のように表される。より重い皿の硬貨は重すぎるというだけで疑わしく、より軽い方のものは軽すぎるということで疑わしい」。

 

 二回目では、良貨三枚を、たとえば重い方の皿の任意の三枚に置き換え、ついで皿から取り出した三枚を軽い方の皿から取った三枚に置き換える。

 

 あり得る結果は、

 

(1)両皿が平衡すれば、悪貨は軽い方の皿から取り出された三枚のうちにある。同時に、悪貨は良貨よりも軽いことがわかる。

 

(2)傾きが逆転すれば、悪貨は良貨より重く、重い皿から移した三枚のなかにある。

 

(3)傾きが変わらなければ、悪貨は移動させなかった二つのうちのいずれかである。悪貨が重い皿にあれば、悪貨は良貨よりも重く、軽い皿にあれば、良貨より軽いということになる。

 

 結果が(1)、(2)の場合、三回目の計量で疑惑の三枚のうちから一枚ずつを秤にかければよい。(3)の場合、一つの皿に疑惑の二枚を置き、もう一つの皿に良貨と判明した任意の二枚をおけばよい。

 

 かくして問題は解決した。ついでラカンはこう問う。

 

 それでは、n回の計量で一枚の悪貨をつきとめられる最大数の硬貨を算出する規則は導き出せるだろうか?

 

 しらべてみると、3回の計量においては最大13個までを許容することがわかる。では、その場合の解法は如何?

 

(つづく)