lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

コギトと狂気:「心的因果性について」

*「心的因果性について」(Propos sur la causalité psychique, 1946)

 

 後に『エクリ』に収録されたこの論文において、ラカンはアンリ・エーがジャクソンの並行説に依拠しつつ、狂気を器質因に帰していることを批判している。「アンリ・エーは狂気の[心的]因果性を無視している」。

 

 エーは狂気を「基本的錯覚」とし、幻影[妄想]を「錯誤」と述べているが、ラカンによれば、「狂気は思考の現象」である。そもそも、「狂気は人間の存在そのものに由来する」。つまり、狂気は人間性の喪失ではなく、人間存在の本質そのものに内在している(「狂気は人間の生体のもろさの偶発的な事実であるどころか[器質因]、人間の本質のなかに開かれるある断層の潜勢性」)。「人間の存在というものは狂気なしには理解されえない」。これは学位論文以来のラカンの一貫したスタンスであるといえよう。

 

 狂気を「思考」の現象と位置づけるとき、ラカンの念頭にあるのはデカルトのコギトである。この論文では、デカルトヘーゲル、あるいはギリシャ哲学への「回帰」が大々的に謳われている。

 

 デカルトは、コギトを導出するに際し、「世界のすべてが幻であったら?」という「誇張的」懐疑に身を委ねる。いわばみずからを狂人になぞらえているわけで、この想定がのりこえられることによってデカルトはコギトにたどりつくとされている。とはいえ、コギトの導出にはこの懐疑が不可欠であり、それはコギトの推論過程の一部をなしている。それゆえ、コギトは狂気を内包する。狂気はことほどさように人間存在にとって本質的である。

 

 狂気という現象については、彼[デカルト]がその『省察』のなかでそれを深くきわめなかったとはいえ、ともかく、われわれは、彼がその出発の第一歩から、真理の征服をめざして、忘れがたいほど喜び勇んでこの現象にぶつかっているという事実を啓示的なものと考えましょう。(宮本忠雄訳)

 このように指摘するとき、ラカンフーコーとの論争におけるデリダの問いかけをはるかに先取りしている(「コギトと狂気の歴史」)。このような観点からラカンは高らかに「デカルトへの回帰」を唱えている。これが有名な「フロイトへの回帰」に何年も先立つ身振りであることを確認しておこう。

 

 そして狂気についてのデカルトの直観の正しさを証明するためにラカンが手がかりにするのは、かれがパラノイア患者の観察をとおして発見した「イマーゴ」という概念である。ラカンはこれをみずからの「心理学」の核心に据えようとする。

  

 慣性をそなえた質点というガリレオの概念が物理学の基になったのと同じく、イマーゴのなかに心理学の固有の対象を指示することができる。

 ラカンにとって狂気はイマーゴへの囚われ(「疎外」)として理解される。それをラカンは「人間が自分を人間と思うところの狂気」とも言い換えている。

 

 自分を王だと思う人間が狂人だとすれば、自分を王と思う王もやはりそうだ。

 アイデンティティの希求という人間の根源的な情熱はそれじたい狂気である。それは『ミザントロープ』のアルセストもしくは学位論文で言及されたルソーが証明するとおりである。さいわいなことに、「健全な」者はいずれこの袋小路から抜け出すであろう。

 

 主体は自分が現にあるままのもの……と思っているが、しかし健全なる判断力のほうは、彼がそう思うかぎりはそうではないことを彼に見せつけるような邪魔が入ることを心のなかで(in petto)望んでいる。

 たとえば、ナポレオンはその一人である。

 

 ナポレオンは、どういう手段によってボナパルトがナポレオンを生み出したか、そしてどのようにしてナポレオンが、マルブランシュの神のように、たえずその生存を主張していたかを知りつくしているために、自分がけっしてナポレオンであるとは思っていなかった。

 ナポレオンへの言及は、「狂気=疎外」(aliénation)からの「自由」(この論文の隠れたキーワードの一つ)が「英雄的」な行為であることをほのめかしているのだろうか。いずれにしてもこの参照項の背後には(コジェーヴ経由の)ヘーゲルが隠れている。「主体の弁証法」によって狂気が「止揚」されるという(できのわるい)シナリオ?

 

 ラカンはアルセストの立場をナルシシズムと呼んでいる。ナルシスと同様、それは死の欲動に身をまかせている状況である。

 

 アルセストはオロントやセリメーヌの不誠実な言葉を糾弾する。しかし、言葉はその本質からして不誠実である。

 

 人間の言語は人間が嘘をつく道具というべきものだが、一方でこれは人間の真実の問題によって貫かれている。

 言葉はものにはりついた「記号の体系」ではない。言葉は「象徴的使用」に供せられて「意味作用の結び目」をなす。「言語はあることを意味するより以前にある人に対して意味をもつ」(「《現実原則》を越えて」)のであり、それゆえにまた「言語のなかで証明され告知されるのは存在のもろもろの姿勢」である。ここに主体を代表(表象)するものとしてのシニフィアン概念を読み取りたい者は読み取るがよいだろう。

 

 言葉は真理を告げるものではない。真理とは狂人のこころのうちにしか存在しない。「真実なるものを狂気に変えるにはほんのひと突きで足りる」。狂人は「無視」(méconnaissance)に陥っている。「無視」とは、「病者が自分自身の産出物を自分のものとは認めない」が、「否定されるものがなんらかの仕方で承認される」状態である。「投射」にせよ、「転嫁現象(trasitivisme)」にせよ。

 

 いずれにしても、以上の問題には「哲学の歴史全体が刻まれている」。