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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「わたし」の政治学:「論理的時間と先取りされた確実性の断言」

*「論理的時間と先取りされた確実性の断言――新しいソフィスム」(Le temps logique et l'assertion de certitude anticipée, Un nouveau sophisme, 1945)

 

 

 「わたし」というアイデンティティを獲得するに際し、囚人たちは鏡(「おのれの姿を映し出す術」)をあたえられていない。見ることは、懐疑(もし私が黒だったら……)のきっかけにすぎない。鏡像段階は空間的・視覚的な過程ではなく、時間的・論理的な過程である。その時間は「転調」によって分節される非連続的なものであり、その論理は情動(「不安」)の介入によって機能する。「わたし」という確実性は、デカルトにおけるように、懐疑をつうじての推論による客観的な判断としてあたえられるものではなく、行動によって「先取り的に」到達すべきものにほかならない。

 

 ここで問題になる情動は「不安の存在論的な形式」にかかわっており(「……であることを怖れて」)、「家族複合」において言及されたアウグスティヌス的な「嫉妬」がいまいちど招喚される。

 

 「四方の壁という拘束が人間の自由という究極的目的のための一助にほなかならないとする最近の哲学者たち……」。「心理学的な『わたし』は(いわゆる実存的な形式であるよりもずっと)本質的に論理的な形式」である……。

 

 一晩の客によって余興として供されたという「新しいソフィスム」が、サルトルの『出口なし』をふまえ、実存主義を標的にしていることは、エリック・ローランらの指摘するごとくである。言い添えれば、この論文が書かれたのは占領の記憶も生々しい時期である。

 

 この論文が表向き哲学者の衣をまとい、ユーモア作家の口ぶりをまねているとしても、そこには政治的なコノテーションが見え隠れする。告発されているのは、「論理にしたがう人」という人種のおぞましさだ。

 

 「三人よれば集団になる(Tres faciunt collegium.)」。論文の最後の最後に添えられたフロイトの『群衆心理学と自我の分析』への言及は、「わたし」の形成が共同体を前提することを示したこの論文にとって、本質的なものである。「集団的なものは個別的なものの主体以外のなにものでもない(Le collectif n’est rien, que le sujet de l’individu.)」