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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ラカンのアンチ・オイディプス:『家族複合』

*「家族複合」(Les complexes familiaux dans la formation de l'individu : Essai d'analyse d'une fonction en psychologie, 1938)

 

 若きラカンによるエディプス複合批判の書。『フランス百科事典』(L'Encyclopédie française)の項目として執筆された。『続・エクリ』(Autres écrits, 2001, Seuil)に収録されている。この二年前に公にされた鏡像段階論についての明確な記述が読まれる。

 

 ラカンは「人間の家族は一つの制度である」という前提から出発する。「家族の正常な構成員、つまり、父親、母親および子供たちが生物学的家族の構成員と同じであるという事実」は偶然的なものにすぎず、人間の家族はそもそものはじめから自然的な秩序と合致しない。「原初的家族は親族のもつ生物学的関係を無視している」。「原初的家族」とは、あるべき理想としての「基本的家族」などではなく、人類学が教えてくれるような事実を指している。「基本的家族」というものは「どこにも存在しない」。それゆえ、精神分析が対象とする近代的な家族形態が、エディプス複合の「異型」であり、「頽落形態」であると述べるとき、ラカンは家父長制というモデルに依拠するエディプス的家族形態を規範として捉えているのではない。フロイトの抜きがたい生物学主義は、父性が「精神的公準」に負う「文化的審級」であるとの認識を妨げた。そのため、父性の権威は家庭内のじっさいの父親による子供への脅しの言葉に重ね合わせられてしまう。

 

 この危険のもつ明白な現実性は、そのおどしが教育的な伝統によって実際に口にされている事実と結びついていて、そのためフロイトは、この危険をまずそれの現実的な価値に対して感じ取られたものと考え、また、男から男へ、実際には父親によって、吹き込まれた恐れのなかにエディプス的抑圧の原型を認めざるをえないことになった。(以下、引用は宮本・関訳『家族複合』より)

 父権制が近代的家族の雛形であるという見解は、古代社会において主流であった母権制についての記録が少ないという理由による。フロイトも、「自分の患者について観察した一夫一婦の家族から、遊牧民とみなされる仮説的な原始的家族へ」という「理論的飛躍」を犯している。

 

 こうした理論構築がそこに含まれる不当前提(pétition de principe)だけによっては破壊されないとしても――不当前提とはつまり、まさに根拠づけることが問題であるような、一つの法則の承認の可能性をある生物学的集団に特有なものと見なしてしまうことだが――その生物学的と言われる諸前提それ自体、たとえば遊牧民の首長によって行使される永続的な専制という前提は、類人猿についてのわれわれの知識が進むにつれて次第にあやふやな幻へと変わっていくだろう。けれども、家族の母権的構造のひろく現存する痕跡や広汎な存続……は、人間の家族の秩序が男性の力から守られたもろもろの基盤をもつことを明かしている。

 マリノフスキーがいみじくもその精神分析的洞察において示しているように、「母方の叔父が家族のタブーの番人とか部族の儀礼の伝授者という社会的代父役をつとめるのに対して、父親は、どんな抑圧的機能をも免除されて、もっとも身近な後見人とか、技術の持ち主とか、いろいろな企ての後援者といった役割しか演じない」。

  

 構造の問題に関係づけなければならないのはつぎの事実である。すなわち、歴史的伝統の光は父権制の記録をすっかり照らし出しているのに、他方、いたるところ古代文明の基によこたわる母権制についてはほんの周辺部いしか解明していないという事実である。われわれはこの事実をベルクソンが道徳の諸基盤のなかで定義した批判的契機とくらべてみよう……。

 ちなみに、この論文には「生命力」「創造的跳躍」といった言葉遣いが何度かなされており、ベルクソンからの影響を端々に感じさせる。なお、母権制をめぐるラカンベルクソンの見解の比較は、すでにベルクソニアンの側からの研究がある(フィリップ・スーレーズの論文「母親は政治の本質の蚊帳の外にいるのか?」)。

 

 人間の家族が自然的な条件からのずれに基づいていることをはっきりさせるために、ラカンは人間が「早く生まれすぎる」というランク的な仮説を軽視すべきではないと述べている。人間がいわば本能の壊れた動物であるという認識(ラカンはこういう言葉遣いはしていない)は、フロイト死の欲動の概念にも反映されている。フロイト死の欲動の概念にフロイトの生物学主義的な限界を認めつつも、その射程をするどく見てとっている。

 

 彼[フロイト]が死の本能によって与えたその説明は、どんなにそれがまばゆいばかりのものであれ、言葉において矛盾していることに変わりない。それほど、フロイトにあっては、天才そのものが、いかなる衝動をも本能に関係づけようとする生物学者の偏見に屈している。

 とはいえ、

 

 死への衝動は……心の機能的単位である複合が生命機能にではなく、この機能の生まれつきの不全さに対応しているという考想によって申し分なく説明される。

 

 本論文において、ラカンは人間の家族を条件づける「複合」を、「離乳複合」「侵入複合」「エディプス複合」の三段階にわけ、そのひとつひとつを考察していく。

 

 「心的発達のもっとも原始的な複合」である「離乳複合」は、フロイトの口唇期の概念とあるていど重ね合わせ得るとおもわれるが、この段階ではいまだ自我(自我像)そのものが形成されていないので、自体愛にもナルシシズムにも帰しえない。

 

 つづく「侵入複合」は、鏡像段階に相当する。ラカンは嫉妬が「社会感情の原型」であるというアウグスティヌス的認識を重視する。「人間の嫉妬は直接の生命的敵対関係から区別される。というのも死とは、対象がそれを決定する以上に、対象を形成するからである」。ルネ・ジラールの言うような欲望の模倣性が問題になっているわけだが、このような意味で「主体は他者と社会化された対象を同時に見出す」。

 

 これにつづく「エディプス複合」は、「昇華」によって超自我あるいは自我理想が形成される段階であるが、これはフロイト的なモデルからの「異型」あるいは「頽落」として描出される。父親の「威信の失墜」は、現代文明における社会学的な現象ではなく、あくまでも「構造的」なものである(この用語は本論文のラカンが一貫して強調するところのものである)。「一方で権威をあらわし、他方で性的暴露の中心」である父親のイマーゴは、そもそものさいしょから「両義性」を刻印されている。それゆえ、家族複合は構造的な不安定性を抱え込んでおり、それが病理としてあらわれることは必然である(そして、そこにこそ精神分析の存在意義もあるということなのだろう)。ラカンはこうした家族複合の病理のありかたを「自罰神経症」「人格の内向とスキゾノイア」「心的的性化における倒錯」という分類の下に考察していく。ラカンはこれらの「アノミー」における「両親間の性的不調和」ないし「親の神経症」という要因を重視しているようで、「心理的遺伝」という概念に何度か言及している。フロイト理論のアキレス腱である獲得形質(記憶痕跡)の遺伝という問題圏へのラカンのリアクションを知るうえで興味深い事実ではあるが、この概念が生物学的な発想に絡めとられる危険と隣り合わせであることに警告を発することも怠ってはいない。

 

 そのエディプス概念が批判の対象になるとはいえ、フロイトはこころの病を「個人のドラマ」あるいは「実存のドラマ」として捉えたことにおいてその功績が讃えられる。

 

 フロイトが、各種の複合の発見により、革命的な仕事をなしとげたのは、病気よりも病者を配慮する治療者として、彼が病者をなおすために理解しようとしたからであり、また彼が、症状の《内容》という理由で閑却されてきながら、症状の現実性のもっとも具体的なものである事柄に、たとえば恐怖症をひきおこす対象、ヒステリーでおかされる装置や身体機能、強迫状態で病者につきまとう観念や感情などに、ひたすら専念したからである。

  「実存」というのも本論文のひとつのキーワードと言ってよいかとおもわれる。