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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「文体の問題」(1933年)

*「文体の問題」(Le problème du style

 

 シュルレアリストの雑誌『ミノトール』に掲載された。

 

 「講壇派の心理学」が誓う「機会論的思考」への「素朴な信頼」。「人間という現実のかくも組織立った無視」。これは精神科医の使命に背くものだ。

 

 ほんらい精神科医は、「欲望やリビドーが創造的転移に及ぼす倫理的秩序の作用と、一次性の体験形式に対する本来的秩序の構造的決定性」とを考慮しなければならない。言い換えれば、「出来事のあらゆる客観化に照らしてこうした体験の力動的原本性と独自性」を認めなければならない……。

 

 晦渋きわまりないいいまわしだが、ようするに、患者の「人間的現実」をこそ考慮しなければならないということだろう。

 

 しかるに精神科医は、精神病者にいつ「精神的失権(défaillance)」を宣告するかだけに急である。これには歴史的な背景がある。すなわち、

 

 精神病者に対する関心が歴史的には法律的起源の必要から生まれたことを見過ごしてはならない。これらの必要は、人間を絶対の倫理的自由を付与されたものとして見、責任を個人に固有なものとして見るブルジョワ哲学の考想が、人権を基礎にすえて、はじめて定式化された時にあらわれた。(宮本・関訳「様式の問題」)

 なるほど。「イデオロギー的上部構造」とか、この論文でのラカンマルクス主義的な術語をわりとストレートにつかっている。

 

 

 精神病者の妄想に読み取れる「人間的」現実についてのまとめ。

 

(1)精神病者の妄想における象徴的表現の「人間的」意味作用。それはフォークロアにおける神話的創造やもっとも偉大な芸術家の霊感に匹敵しうる。

 

(2)妄想の象徴的表現において際立つ「対象の反復的同一化」(同じ人物の二人組や三人組、患者自身の二重化etc.)。こうした「類型化」は、「詩的創造の不断の過程」と親近性をもつ。

 

(3)妄想の象徴的表現は、非理性的であることと両立可能である。「妄想は、何らの解釈をも必要とすることなく、その主題だけによって、しかも見事に、精神分析がかろうじて神経症者のうちに明るみに出したあの本能的および社会的コンプレックスを表現している」。これらの患者の「殺人反応」は「生活史的現実性のはらむ社会的緊張の圧痛点において発生する」。エメおよびパパン姉妹がすぐさま想起されるだろう。

 

 かくして妄想は社会的なものであり、したがって「人間的伝達可能性」をもつ。

 

 パラノイア性の体験に固有なこれらすべての特性はそこに人間的伝達可能性のある余地を残しており、そこにおいてこの体験は、ほかの文明のもとで、その力のすべてを発揮したこともある。

 ここにはレヴィ=ストロース的な相対主義が読み取れる。さらにつぎのように続けられる。

 

 とはいえ、それはわれわれの合理主義的文明そのもののもとでも力を失ってしまったわけではない。

 たとえば、ルソーには典型的なパラノイアの診断をまちがいなく下せるが、彼がその人格や文体によって時代を魅了したのはみずからのまさしく病的な体験に負っていると断言できる。パラノイア患者たちの犯罪行為は時として悲劇的共感をあまりに掻きたてるので、時代が、身を守るのに、その人間的価値をはぎとるべきか、それとも犯罪者をみずからの責任で鎮圧すべきか、もはやわからなくなるほどである。

  事実、前回とりあげた「パラノイア性犯罪の動機」においては、パパン姉妹に対する市民の反応についてのコメントがあった。市民はあるいみでそこに「人間的」なものを読み取ったということだろう。 

 

 パラノイア性の体験とそれが生み出す世界観は一つの独自な統辞論として考えることができるが、これは、それに固有な了解関連によって、人間共同体を確立するのに寄与する。こうした統辞論の認識は芸術の象徴的価値の了解に、そしてとりわけ文体の――すなわちそれに固有な確信や人間的共感といった美徳の――諸問題、おなじくその発生の諸矛盾に、欠かすことのできない前提であるようにわれわれには思われる。

 ここから、「野蛮人」の思考が西洋的合理主義とパラレルであることを証明したレヴィ=ストロース的な構造主義まではあと一歩である。