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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「パラノイア性犯罪の動機:パパン姉妹の犯罪」(1933年)

*「パラノイア性犯罪の動機:パパン姉妹の犯罪」(Motifs du crime paranoïaque : le crime des sœurs Papin, 1933. )

 

 

 当時のフランス社会を騒がせたパパン姉妹のケースに対するラカンのコメント。

 

  学位論文におけると同様、妄想に対する「社会関係の影響」の重要性が強調される。

 

 われわれは精神病の諸事実を説明するものとして社会的緊張という力動的観念を想定したが、この社会的緊張の均衡または断裂の状態がふつうには個人のなかで人格を規定している。(宮本忠男・関忠盛訳『二人であることの病い』)

  「殺人において解消される攻撃衝動は、精神病の基礎となる感情として現れる」。妄想は「主体によって統合される社会的要請との妥協」であり、この攻撃衝動の「カムフラージュ」だ。「とはいえ、この衝動はそれ自体、社会的相関性を刻印されている」。衝動が「犯罪」という形をのもとに発現するのは、それが社会性(relativité sociale)を帯びている証拠である。衝動はまた、「報復」「処罰」というやはり社会的な意味あいを帯びることがある。それらは「社会的理想に由来する制裁」という意味を含む。あるいは「贖罪(自罰)」という形をとることで、「道徳性」に叶った現れ方をする。つまり、「基本的衝動」は「人間的意味」をもち(したがって了解可能であり)、その「意味」は個々のケースにおいて変奏される。

 

 殺人の客観的性格、犠牲者に関するその選択、殺人の有効性、その開始と実行の様式などは、基本的衝動のもつ人間的意味の程度に応じてたえまなく変化する。

 同時に、その衝動への社会のリアクション(意味づけ)も、それに相関的である。

 

 この同じ程度こそ、パラノイア性の犯罪に対する社会の反応を支配するのだが、もともとその反応は犯罪の情緒的感染と世論の処罰要求を形づくり、二重の形式をもつアンビバレントな反応なのである。

 姉妹の犯罪は恐怖を催す残虐なものであるが、実は厳密に「象徴的」である。

 

 すなわち《私はあいつの目玉をえぐりたい》というもっとも使い古された憎悪の隠喩は、その文字どおりの実行を受けとるのである。民衆の意識は、古代の法が奴隷の犯罪にあたえたのと同様の最高の刑罰をここで適用することによって、それがこの憎悪にあたえた意味を明かしている。おそらく、やがてわかるように、民衆の意識は行為の現実的意味について誤解している。

 フロイトのヒステリー患者が慣用表現を文字どおり症状化するように、主人の目を抉るという姉妹の行為は、「憎悪」という情動の「象徴」にほかならないということであろう。事件を伝え聞いた市民たちは、この象徴表現を理解せず、その表向きの残虐さに対して「目には目を」という古代的な刑罰を適用するよう願ったというアイロニー

 

 《理解することは許すことなり》という諺は、それぞれの人間共同体に応じて通用する限度があるわけで、その限度を超えると、理解すること(あるいは理解していると思うこと)は罰することだという点である。

 人間的意味の了解可能性は、理解一般につきももの誤解の可能性を孕むという皮肉だろうか?

 

 ラカン学位論文における症例エメに引きつけて姉妹の犯罪を考察している。パラノイアではないにしても(おそらくパラフレニーであろうとの診断結果)、姉妹の犯罪は自罰という契機を症例エメと共有している(ただしエメとは違い、犯罪後も姉妹の妄想は解消しなかった)。エメにおけるナルシシズムの病は、文字どおり鏡像的な関係にある姉妹の「二人妄想」(délires à deux)において、明確に表面化している。

 

  精神病の形態が二人の姉妹にあって同一とは言わぬまでも少なくとも密接に相関している。……これらの患者たちにふりかかっている《二人であることの病い[苦しみ]》は、彼女たちをナルシスの病いからはほとんど解放してくれない。この激しい情熱は自殺することで終わりを告げる。……この自罰の欲求、この法外な罪責感はパパンの行為にも読みとれる。……けれども姉妹は傷つけ合うのに必要な距離をたがいにとることさえできなかったように思われる。真性のシャム双生児的な心をもって、彼女たちは永久に閉じた一つの世界を形成している。犯行後の彼女たちの供述を読んでローグル博士は述べている。「同じものを二つ読んでいるようだ」と。彼女たちは、二人だけの手段でもって、自分たちの謎、つまり性についての人間的な謎を解かなければならない。

 この謎は「男根や女性の去勢という謎」とも言い換えられている。ヒステリー者は「女であるとはどういうことか?」という問いを探究しているというセミネール『精神病』(1955-1956年)の一節が想起される。

 

 エメにおいてもパパン姉妹においても、同性愛の契機は分身への愛着に帰されている。とはいえ、分身は生身の人間ではなく、心像にすぎない。それゆえ、この同性愛的情動は充足されることがない。「それのもっとも明白な発現と非常に近接しているのに、奇妙に透明な妨害物によっていつもそこから分離されている」欲動、あるいは「これらすべての女性迫害者たちを自分が愛しているということを、どんなに叫んでも、知ることができないようにさせているガラスの障壁」という表現でラカンはそれを言い表している。

 

 同性愛の考察に際しては、ラカン自身が訳したフロイト「嫉妬、パラノイア、同性愛における若干の神経症的メカニズムについて」(1922年)が援用される。フロイトは同性愛的対象選択の要因を、早期に兄弟間の敵意が縮小されることに見出している。「こうした愛の固着は、われわれのいう社会的緊張が本能的欲動へと初めて統合される原初的条件なのである」。

 

 ラカンシュルレアリストたちがこの事件に注ぐ眼差しを共有している。その筆からはときとして詩情が迸る。

 

 運命の晩、さしせまる処罰の不安のなかで、二人の姉妹は女主人たちの心像に自分たちの禍(mal)の幻影をまぜあわせる。彼女たちが残虐なカドリールに引込むカップルのなかで彼女たちがきらうのは、彼女たちの苦悩である。彼女たちは、まるでバッカス神の祭尼が去勢でもするように、目をえぐりとる。大昔から人間の不安を形づくっている冒瀆的な興味こそが彼女たちを駆り立てるのだが、それは彼女たちが犠牲者を欲する時であり、また彼女たちが、のちにクリスティーヌが裁判官の前で無邪気に《人生の神秘》と名づけることになるものを犠牲者のぽっかり開いた傷口のなかへ追いつめる時である。