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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「《吹き込まれた》手記」(1931年)

 

*「《吹き込まれた》手記 スキゾグラフィー」(Ecrits <<inspirés>> : Schizographie, 1931)

 

 分裂言語症(schizophasie)という名称のもとで、何人かの著者たちは、ただ思考の深い障害をもつ症状としてだけでなく、それらの発達段階や内部機構をあらわすものとして、多少とも支離滅裂なある種の言語形式にあたえられる高い意義を強調してきた。ある種の症例では、これらの諸障害は書かれた言語にしか現れない。(宮本・関訳『二人であることの病い』)

 復権、憎悪、恋愛妄想、理想主義という主題からなる「多型妄想」を発症した女性パラノイア患者の手記の分析。ヘッド『失語症および言語の近縁疾患』(1926年)の分類にしたがい、「語詞的障害」「名辞的障害」「文法上の障害」「意味論的障害」という4つの観点からの分析が試みられる。

 

 「書き違いのほうが言い違いよりも起こりやすいということは容易に証明できる」と『日常生活の精神病理学』のフロイトも述べている。「書いているときのように、観念の流れにつづいて起こるべき表現運動が機械的な原因によって遅くなると、先取りによる間違いがとくに起こりやすい」というヴントの一節をフロイトは引いている。

 

 患者は手記が複数の人物に「吹き込まれた」言葉のコラージュであると主張している。その霊感源は、フォッシュ、クレマンソー、祖父、および恋愛妄想の対象となった視学官である。

 

 病態意識のなかで、精神-感覚的なものにせよ、純精神的なものにせよ、病理的な核であるような、また正常にとどまる人格がそれに反応するような、要素的現象を取り出すのは不可能である。精神障害はけっしてそれだけを切り離すことはできない。

と、学位論文におけるのと同じ観点が打ち出されている。

 

 要するに、吹き込まれたと感じられるこの手記は、霊的な意味で、まったく吹き込まれてはいない。思考が不十分で貧困である場合に、自動現象がそれを補うのである。それが外的なものと感じられるのは、思考の欠損を補うからである。それが価値があると判断されるのは、強力性(sténie)の情動によって喚起されるからである。

  シュルレアリストの自動筆記についての言及もあるが、ラカンはそれを要素的な自動現象とは区別している。患者は手記が自分の外部に霊感源をもつと感じているが、じっさいには患者自身の思考のたまものであり、自動現象は二次的な役割しか果たしていない。