lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

スピノザ的概念としてのリビドー:『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(8)

承前) 

 

 かくして、少年時代からスピノザに親しんでいたラカンは、フロイトにおけるスピノザ的な思考を鋭く感知し、スピノザをとおしてフロイトを発見する。

 

 フロイトの革新は、非常に雑多な現象に共通の尺度として役立つエネルギー論的観念を心理学のなかにもたらしたという点において重要であるように思われる。(274頁)

 つまり、リビドーである。

 

 ここにおいてこそわれわれはフロイト学説の科学的射程を例証していくことになるが、それは、この学説が精神障害の重要な一部をリビドーと呼ばれる心的エネルギーの代謝と結びつけたかぎりにおいてである。フロイト学説におけるリビドーの発達は、われわれの公式においては、体験にとって重要な、また器質的な基盤が性的欲望によってあたえられている人格の諸現象のこの部分に非常に正確に対応しているようにみえる。(273頁)

 「人格の現象」という言い方に注意したい。すでに確認したように、「人格」とは「体質」とは違う。人格とは諸経験の総体であり、実体的な表象をもたない。それは量的にのみ理解され、「体質」という本質主義的な概念とは相容れない。

 

 そしてラカンはこのようなリビドーという一元的・相対的な概念に「人格の科学」を基礎づけようとする。

 

 リビドーという概念の相対的な不明瞭さ、それこそがわれわれにはリビドーの意義を形成しているようにみえる。実際この概念は物理学におけるエネルギーあるいは物質という概念と同じ普遍的な射程を有しており、その理由で、あらゆる科学の基礎であるエネルギー恒常の法則の心理学への導入を予測可能にしている最初の観念を表している。(275頁)

  リビドーとは物質と想定されるが、それがどのような物質であるかは問われない。なお、この時期のラカンは「発達」段階論および「固着」概念を、その歴史的・相対論的な側面ゆえに評価している。

 

 示された固着の病因的価値は、それが(フロイトがたえず主張するように)体質と同様、先天的、器質的な決定性に帰せられる余地があるという点で、体質の価値に近づけられうるとしても、それでもつぎの点で体質とは異なる。つまり固着は歴史的に明らかにされ、また適切な技術によって主観的に想起可能な外傷性の決定性という仮説に対してつねに等しく余地を残しているのである。(277-278頁)