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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

スピノザ=フロイト派精神医学宣言:『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その7)

 

 『人格との関係からみたパラノイア性精神病』はつぎのスピノザの一節をエピグラフに掲げている。

 

 いかなる個人の情動でも、他の個人の情動とはけっして一致しない。その不一致の度合いはちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだけ大きくなる。(スピノザ『エチカ』第Ⅲ部定理57)

  妄想は精神自動症のように画一的な法則に則った機械的で自律的な現象ではなく、個々の患者の環境の総体に相関的であることの主張がこの論文の骨子であることがここからもわかる。

 

 人格は中枢神経系の諸過程に《平行》ではないし、個体の身体的諸過程の総体だけにさえも平行ではない。つまり、それは個体やその固有の環境によって構成される全体性に平行なのである。

 このような《平行論》の考想は、この名にふさわしい唯一のものとして認められるべきである。そしてその際には、これが未開的形式であり、まずスピノザの学説をとおして表現されたということを忘れてはならない。[……]

 平行論に関するこうした正当な考え方のみが認識の志向性に対して現実のなかに根拠をあたえる。この根拠を科学の名において拒むのは馬鹿げていよう。こうした考え方のみが真の認識と妄想的認識とを説明してくれる。(宮本忠雄、関忠盛訳、356頁)

  妄想は認識と対立するものではなく、認識の一種である。未開人の思考が現代人の思考と対立するものではないように。ただし、「妄想的認識」は、「真の認識」とはちがって、「それぞれの集団に固有な社会的承認という基準」にしたがわず、「客観性」を重視しない。

 

 身体的症状とはちがい、精神的症状は、このような「平行」関係、つまり患者の環境の総体を貫く因果的連関に基づいてはじめて「実証的」なアプローチが可能になる。

 

 精神的症状が実証的な価値をもつのは、これこれの具体的動向との平行関係、つまり特定の対象に対する生きた統一をもった行動との平行関係に従う場合のみである。(357頁)」

  そして論文を締め括るのもやはりスピノザへの言及である。

 

 いまやわれわれは、この著作の題辞に使ったスピノザの命題をもって結論を下そう。 スピノザの場合、本質(essence)という言葉がもつ意味、すなわちある本質(entité)から概念的に規定された諸関係の総体がもつ意味、およびスピノザ情動(affection)という事倍あたえている情動的決定という意味を思い返すならば、この公式とわれわれの学位論文の基調との合致に驚かされるだろう。(362頁)」

  続けてエピグラフに掲げられた『エチカ』の一節がふたたび引かれ、ラカンなりのそのパラフレーズがつづく。

 

 ある精神病の決定因となる葛藤や志向的症状や衝動的反応は、正常な人格の発展や概念的構造や社会的緊張を規定している了解関連とは調和しないのだが、そのことは患者の情動の歴史が規定する程度に応じている。(ibid.)

  そして、最後にこのようなスピノザ的認識が精神分析に結びつけられる。

 

 これらの動向の有効な尺度は、その場合、患者についての実験的研究によってしかあたえられず、こんにちまで精神分析のみが、われわれにそれに近い技術を提供している。(367頁)

  というわけで、ラカンはこの処女作を、いわばスピノザフロイト的精神医学の立ち上げを宣言することでしめくくるのである。