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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その4)

 

 症例「エメ」は、ラカンによって「自罰パラノイア」と診断されている。患者エメは、息子に対する迫害妄想にくるしみ、さる女優に切りつけ、逮捕される。患者はもともと作家志望であり、セレブに対する憧れがあった。患者が女優の名を聞いたのは患者の親友からであった。患者と対照的に社交的な親友は、患者がそれと知らずにみずからを重ねていた理想像でもあった。ところで、そもそものはじめに患者にとっての鑑だったのは、母親がわりでもあった姉である。この姉が患者の息子に対して母親のようにふるまおうとすることから、患者は姉に対する迫害意識をいだくようになっていた。

 

 フロイトによれば、パラノイアのおおもとにあるのは同性愛的な愛着であり、妄想はそれに対する防衛という機能をもつ。患者エメにとって、迫害の対象となるのがいずれも同性であることにラカンは注意を促している。そして、三人の女性はいずれもなんらかのいみで患者がみずからを重ね合わせる理想像であった。親友と女優は、姉という「原型」のコピーであり、三人の女性は患者のなかで同一視されている。

 

 患者の妄想がはっきり現れたのは、流産の直後である。母親になることは、かのじょにとって、同性愛的な愛着を断ち切り、性的および社会的に「女としての運命」を完成することをいみしていた。この望みが流産によって不可能になることで、同性愛的な愛着の抑圧が挫折し、これに対する防衛として迫害妄想が生まれる。流産のあとにたまたま電話してきた親友が流産の原因であると信じ込むにいたるのである。

 

 まず第一に、迫害者の継起に際し、最初の登場者が患者のもっとも親密な友人であったという事実に強く印象づけられる。そして、他方ではNのC嬢[=親友]に対するエメの憎しみの発現が正確に彼女の母親性の期待の挫折に一致していたということに強く印象づけられる。実際、それこそ最後の望みであり、そこには性的および社会的二重の視点からみて、女としての運命を完成されたかたちで実現するというすでに半ば危険にさらされていた彼女の試みが結びついていた。彼女の挫折のなかにはいくらでも抑圧がみられる。それは同性愛的精神的分力(composante)を再賦活化することによって妄想にその最初の体系化をあたえた。

 

 フロイトは、シュレーバー症例のなかで、パラノイア患者の妄想の4つのタイプを分類している。図示すると、

 

 1)迫害妄想:私は彼[同性]を愛する→私は彼を愛さない、憎む→彼は私を憎む。

 2)恋愛妄想:私は彼を愛する→私は彼女[異性]を愛する→彼女は私を愛する

 3)嫉妬妄想:私は彼を愛さない→彼女が彼を愛する

 4)誇大妄想:私は彼を愛さない→私は誰も愛さない。私は自分しか愛さない。

 

 患者エメにおいてもこの4しゅるいのあらわれが観察されるが、ラカンが着目するのは患者における(1)と(4)の結合である。

 

 実際エメにとって女迫害者たちの表象的な価値とはどのようなものだろうか? 女流文学者たち、女優たち、社交界の女たち、彼女たちは自由とか社会的力を弄ぶ女性に関してエメが抱いているイメージをある程度表している。しかしそこで誇大の主題と迫害の主題との想像的同一化が起こるのである。女性のこのタイプ、それは正確には彼女自身が将来に夢想していたものである。彼女の理想を表す同じイメージが彼女の憎悪の対象でもあった。

 それゆえエメは熱情者が自分の憎悪と愛情の唯一の対象を攻撃するごとく、彼女の外在化された理想を彼女の犠牲者において攻撃したのである。けれどもエメが攻撃した対象はもっぱら象徴としての価値しかもたず、それゆえ彼女は態度のいかなる静穏も体験しなかったのである。

 けれども法の前で彼女を有罪とする同じ打撃によって、エメはわれとわが身を打ち、そして彼女がそのことを理解した時、彼女は欲望が成就される満足を体験した。つまり妄想は不必要となり消退したのである。

 治癒の性状は疾病の性状を示しているようにわれわれには思われる。

 

  患者の妄想は迫害者のなかに投影されたみずからの理想像にむけられていた。それゆえ逆説的なことながら、みずからが法的に罰せられることで自罰への欲求が満足されたのだ。患者をくるしめていたのはかのじょの自我理想=超自我(この時点でラカンはこの二つの概念をそれほど厳密に区別していない)であり、それゆえラカンは患者のケースを「超自我の精神病」と呼んでもいる。 (つづく)