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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その2)

 前回のつづき。 

 

 われわれはそれゆえ精神病と人格との諸関係について問題を提起する。

 

 と、論文のねらいが提示される。ここでも、「諸関係」という複数性に注意しておこう。その数行あとにつぎのような一節がくる。

 

 われわれの問題以上に実証的なものはない。すなわち、それはすぐれて諸事実の問題であって、なぜならそれは諸事実の次元の問題であり、もっと的確に言うなら、因果的局所論の問題だからである。

 

 ラカンは「因果的連鎖の未知の部分に関する空しい研究」である「病因論」や形而上学的「思弁」に対し、みずからの研究を「実証的」と宣言する。「事実」とは、注意を要する語であろう。それはかならずしも客観的、唯物的な「事実」のことではないだろう。なぜなら、すぐあとで、その「事実」は実体ではなく「次元」であると言い添えられているからだ。そう考えれば、「因果的局所論」とは、構造的な因果性とでも言い換えられることを述べていると解釈できる。ラカンはこれを従来の精神医学における「病因論」のあり方に対置しようとしているわけだ。

 

 スピノザの引用でしめくくられるこの論文は、一貫して因果性の問題をめぐっている。「心的因果性」の問題は、その後のラカンの思考を貫く問題意識でありつづけるだろう。

 

 さて、本論に入る。まず、パラノイア論の歴史が手短かに繙かれたあと、くだんの「人格」の定義が開陳される。

 

 人格はまず素朴な心理的経験の事実である。われわれ一人ひとりに人格はわれわれの内的経験の総合因子として現れる。それはわれわれの統一性を確立するだけではなく、それを現実化する。そして、そうするために、人格はわれわれの諸動向(tendences)を調和させる、すなわちそれらを階層化し、それらの活動にリズムをつける。けれどもまた人格はそれらのなかから、あるものを取り入れ、あるものを捨て去りながら、選択を行ってもいる。

 

 「人格」と「体質」とのちがいがこのくだりに読み取れるだろう。

1)「人格」は「諸動向」の「調和」であるとされる。「調和」よりも「諸動向」という複数性のほうにウェイトを置いて読んでおくことにしよう。「人格」を規定するのは、単一性ではなく多様性である。それは相反する諸傾向が共存する場である。

2)つぎに、「人格」は「統一性」を「確立する」だけではなく、「現実化する」というくだりであるが、「統一性」は観念的な一貫性ではなく、あくまで個々の具体的な「事実」の総和である、といった意味あいでとっておこう。とはいっても、たんなる無秩序な集積ではなくて、それらの「階層化」であり、それらに「リズム」をあたえるものである。力動的、構造的なシステム性への志向を読み取ることができるだろう。

3)「人格」はそれらの「諸傾向」の「あるものを取り入れ、あるものを捨て去りながら、選択を行ってもいる」。つまり「人格」は可変的、開放的で、外部との交通をつねにくりかえしながら、ダイナミックに更新されつづけている。(つづく)