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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ラカンの処女作『人格との関係からみたパラノイア性精神病』を読む

*『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(De la psychose paranoïaque dans ses rapport avec la personnalité, 1932)

 

 この博士論文において、ラカンは精神病を「体質」に帰す本質主義を退け、心因発生(psychogénétique)という立場に与する。それにあたって、ある意味で「体質」と似て非なる「人格」なる概念を導入し、伝統的な精神病論にぶつけてくる。タイトルをもう一度確認しよう。「人格との関係からみたパラノイア性精神病」。「人格」概念によってパラノイアの概念を再定義しようという若きラカンの野心やよし。処女作にすべてが宿るとはよく言われるところだが、後年の「主体」概念に繋がってくる「人格」というタームがタイトルに堂々と打ち出されていることは考えてみれば感慨深い。

 

 「人格」という概念は、まず「序論」に見出される。精神疾患の伝統的な分類は「痴呆」と「精神病」の系統に分かれる。このうち後者は、それが「情動」、「判断」、「行動」いずれのレベルで起こるものであれ、「心的綜合の特異な障害」であるという点で諸家の見解は一致してきた。この障害は、「狂気、ヴェザニー、パラノイア、部分妄想、不協和、精神分裂病」というようにいろいろな名称で呼ばれてきた。

 

 こうした綜合をいまわれわれは人格と名づけて、それに固有な諸現象を客観的に定義しようと試みるが、その際われわれは現象の人間的意味に基礎を置くことにする。(宮本忠雄、関忠盛訳。強調原文)

 

 「人間的意味」。これはキーワードのひとつでありそうだ。どういうことであろうか。いずれ解明されるであろう。

 

 これにつづくだりにおいて、心因発生論への依拠が、器質因の排除を意味するものではないとの断り書きがくる。

 

 実際、生命現象のもともと器質的な性格を指摘し、またそれによってこれら現象を定義することが、それらの物理-化学的成立を妨げるわけでないのと同じく、人格現象に固有で、しかも人間行動の共通の尺度が表明される了解関連によって定義されるような一貫性を考慮に入れることが、そういう人格現象の生物学的基礎を否定することにはならない。これらの現象の形成論は、そこで消え失せるどころか、むしろいっそう確固としたかたちで現れるのである。

 

 当然のことながら、問題は器質因か心因かという単純な二元論ではありえない。ちなみにフロイトもまた、ヒステリーの病因を考察する初期の諸論考のなかで、心的な決定因と器質的な条件との相互作用を強調していた。

 

 さて、「人格」概念についての要約的記述がとりあえず提示される。「人格」は、くだんの「綜合」をある「一貫性」として把握するものであり、「人間行動の共通の尺度」となるものである。そして、その「尺度」を測る手段が「了解関連」であるとされている。

 

 「人間」「行動」「共通の尺度」。いずれも意味深長な語彙である。「了解関連」(relations de compréhension)とはヤスパースの『精神病理学概説』に登場する概念。その定義はのちに確認されるだろう。とりあえず、「関連」が複数形で「諸関連」であることにとりあえず注意しておこうか。