lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

子供への欲望:セミネール『同一化』第15講 (了)

承前。煙突掃除夫としてのジョーンズ。ラカンのジョーンズ論へのいまひとりのウェールズ人(ウィニコット)の無理解。ジョーンズのフロイト伝の貢献は、フロイトとダーウィンの区別だけ。男根期および女性同性愛についてのジョーンズの無理解(méconnaissanc…

マゾッホとサド:『同一化』第15講(その3)

承前。 執筆中のサドの作品への序文(論文「カントとサド」)に基づくサドについてのコメントがしばしつづく。<他者>への道筋への構造化する親近性。この道筋が欲望の対象のいっさいの設立を規定する。サドにおいてこれは、<至高存在>への罵倒にみられる…

セミネール『同一化』第15講(その2)

承前。 主体とはわれわれに呼びかけるものである。同一化されるのは主体のみである。欲動やイマージュが同一化されることはない。フロイトはこれを主体と特定していないとしても。 第一のタイプの同一化は体内化するそれである。身体のレベルで何かが生み出…

『同一化』第15講(その1)

第XV講(28/03/1962) 主体の同一化の過程はトーラスによって示される。同一化の弁証法。 トーラスは球面ならざる表面で唯一われわれの関心を引く。どんなに変形しても恒常的な関係を保つ「ゴム製の論理学」。 本質的にわれわれの関心を引く表面は閉じられた…

「不能」と「不可能」:『同一化』第14講(了)

承前。 <他者>は何も答えない。何ものも確実でないから。それにはひとつの意味がある。すなわち、それについて<他者>がこの問いについて何も知りたくないということだ。 このレベルでは<他者>の「不能」がひとつの「不可能なもの」に根づいている。「…

「たぶん何も」と「もしかして何も?」:『同一化』第14講(その3)

承前。 欲望のグラフにおける裂け目は、<他者>への答えの求めが rien peut-être と peut-être rien のあいだで揺れることにある。 以下のグラフ下段がメッセージである。 メッセージは現実界への主体の参入によって構成される開けとしてわれわれに現れるも…

トーラスの動物:『同一化』第14講(その2)

承前。 objet a は、鏡像段階のレベルでの他人(l’autre)のイマージュ、i(a)自我理想を内包している。 とはいえ、この関心はひとつの形態でしかない。それはこのニュートラルな関心の対象であり、ピアジェはかれが相互性とよぶこの関係を前景化しているが、…

エディプスという結び目:セミネール『同一化』第14講(1)

第XIV講(21/03/1962) 前回は二つのトーラスのサンボリックな抱擁で終えた。そこにおいて想像的に転倒(interversion)の関係が具現している。この関係を神経症者は生きている。神経症者がみずからの欲望を基礎づけよう(fonder)、立ち上げようとするのは…

縫合としての主体:セミネール第9巻『同一化』(その11)

第XIII講(承前) ……前回は「剥奪」で話を終えたのだった。(-1)によって象徴化される主体についてはご理解願えたものと思う。計算に入れられない一周。マイナス1と計算される一周。つまり一周したときに巡っているトーラスの一周。 この(-1)の機能を普…

エロスの未来:セミネール第9巻『同一化』(その10)

第XIII講(14/03/1962) キリスト教(gentils 異教徒)におけるエロス的なものの困難。キリスト教は「ウェヌスとのトラブル」を抱えている。 キリスト教の根本はパウロ的顕現、つまり、父への諸関係におけるある重要な一歩にあり、父への愛の関係はこの重要…

愛への愛としての喪:講演「私の教えていることについて」(了)

承前。 ここでフロイトが「メランコリー」論文で語っている奇妙な喪に出会う。これを métamour と呼ぼう。メタ言語は存在しないが、メタ愛はあるのだ。愛が走り(se courir)また近道をとる(court-circuiter)のもこの同じ道である。その途上で愛の営み(éb…

表面としての人間:講演「私の教えていることについて」

原題は<<De ce que j'enseigne>>。1962年1月23日(セミネール「同一化」第9回の前日)、 l’Evolution Psychiatrique の集会にて行われた講演。ミシェル・ルッサン版「同一化」は、テープから起こされたとおぼしきスクリプト(一部の晦渋なくだりは省略されている)とクロード・コ</de>…

誤りとしての主体(承前):セミネール第9巻『同一化』(その9)

第XII講(07/03/1962) 前号の続き。 本日をもってわたしは「予知(pressentiment)の時代」の幕を開ける。しばらくのあいだ、誤りと正しさ(à tort ou à raison ならぬ à tort et à raison。もちろん tort は tores に掛けてある)の二重の側面からのアプロ…

誤りとしての主体:セミネール第9巻『同一化』(その8)

第XII講(07/03/1962) 冒頭、前夜逝去したルネ・ラフォルグへのオマージュがささげられる。 哲学者にとっても分析家にとっても主体は誤るということが創設的な経験。分析家にとっては、主体が「言われうる」ということが関心の対象。 “知の手段の修正”は、…

宇宙飛行士の純粋理性:セミネール第9巻『同一化』(その7)

第XI講(28/02/1962) 欲望は大哲学者たちではなく精神分析のことがらである。欲望は真理の機能と結びついている。 「われわれの実践の素材である葛藤や隘路はその作用において主体の位置そのもの、経験の構造において主体として拘束されたものとしての主体…

コギトと固有名:セミネール第9巻『同一化』(その6)

第6講においては固有名について考察される。ラッセルによれば、固有名とは個別的なもの(particular)を描写なしでそのもの自体として指示する。ミルは、固有名は意味をもたないことにおいて一般名詞と区別されるいっこの印であるとし、ガーディナーは意味…

現実界の方へ:セミネール第9巻『同一化』(その5)

第5講(13/12/1961) 「単一性とは、存在するものの各々が、それによって一と呼ばれるものである。数とは、単一性からなる多である」(ユークリッド『原論』)。これこそ差異の支え(支持体)そのものとしての唯一の線の定義というべきである。 これはフロ…

戦争は戦争である:セミネール第9巻『同一化』(その4)

第4講(06/12/1961) 「a=a」という“信仰”。「a=a」はシニフィエをなすようにみえるが、「a=a」は「何も」いみしない(ça ne signifie rien)。つまり、“無(rien)”をいみしている。 fort : da が参照される。現れたり消えたりするピンポン球はシニフィア…

言葉を話す犬:セミネール第9巻『同一化』(その3)

第3講(29/11/1961) 同一化において問題となる「一」は、パルメニデス的な一なるものでもプロティノス的な一者でもなく、いっこの全体性でもなく、教師が黒板に書くような一本の線である。 同一化は「考えるもの」(res cogitans)なるなんらかの実体への…

行為としてのコギト:セミネール第9巻『同一化』(その2)

第2講(22/11/1961) 精神分析家にとって同一化とはシニフィアンの同一化である。 ラカンはヤコブソンの亜流であると言われているが、主体の実現におけるシニフィアンの機能の優位を指摘したのはラカンである[らしい]。 ソシュールによれば、たとえ日によ…

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962) ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。複数の受講者のノートを照合して作成された Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。 第1講(15/11/1961) これまでの…

ラカン対エリアーデ:「象徴およびその宗教的機能について」(1954年)

*「象徴およびその宗教的機能について」(Du symbole, et de sa fonction religieuse, in Le mythe individuel du névrosé, Seuil, 2007) 1954年、宗教心理学会議におけるミルチャ・エリアーデとの討論。ラカンは十字架のヨハネ(saint Jean de la Croix)…

メルロ=ポンティ追悼:「モーリス・メルロ=ポンティ」

*「モーリス・メルロ=ポンティ」(Maurice Merleau-Ponty, in L’Autres écrits, Seuil, 2001) 初出は『レ・タン・モデルヌ』(1961年、184/5号)。のちに『続・エクリ』に収録された。 『エピステーメー』(朝日出版社)ラカン特集に邦訳があるほか、向井…

精神分析的宴:セミネール『転移』

*『その主体の不均衡、そのいわゆる状況、およびその技法の展望からみた転移』(1960-1961)(Le Seminaire livre VIII : Le transfert, Seuil, 1991) ほんらいのタイトルは、Le transfert, dans sa disparité subjective, sa prétendue situation, ses ex…

「精神分析はわれわれの時代の倫理たり得るか?」:ブリュッセル講演

*「精神分析の倫理ー精神分析はわれわれの時代が必要とする倫理たり得るか?」(Ethique de la psychanalyse ― La psychanalyse est-elle constituante pour une éthique qui serait celle que notre temps nécessite?) 1960年3月9日、ブリュッセルのサ…

サントロペより永遠に:ウィニコット宛書簡

*ドナルド・ウッズ・ウィニコット宛書簡(1960年8月5日付) 2月に受け取っていた手紙への返事が遅れたこと、および主幹を務める「精神分析」に掲載の「移行対象」論文の著者名のスペルミス(tが一つ脱落)を詫びたあと、ロンドン・ソサイエティーでの講…

科学モドキの洪水:「主体の隠喩」

*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966) 法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。 隠喩と無意…

壁に向かって語る:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(了)

823頁4段落目~ ファルスのイマージュ(ーφ)は象徴的ファルス(Φ)へと「肯定化され」(positiver)、ある欠如を満たす。(-1)の支えでありつつ、(ーφ)は否定化不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンとなる。女性も倒錯もここから説明可能。 倒…

欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)

809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。 不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「…

絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)

つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り…