lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

エディプスという結び目:セミネール『同一化』第14講(1)

 

 第XIV講(21/03/1962)

 

 前回は二つのトーラスのサンボリックな抱擁で終えた。そこにおいて想像的に転倒(interversion)の関係が具現している。この関係を神経症者は生きている。神経症者がみずからの欲望を基礎づけよう(fonder)、立ち上げようとするのは<他者>の要求への依存関係においてである。

 

「話すものとしての主体の構造」において創設されたものがそこにはある。それを示すべくトーラスを援用する。トーラスはトポロジーでいう「基本群」の機能をもつ。

 

これが基本構造であるなら、なぜ哲学においてかくも無視されてきたのか。なぜ球といういまひとつのトポロジーがものへの関係をめぐる思想を支配してきたのか。

 

<他者>との結び目(nœud)のなかには罠の関係がある。

 

神経症の主体は<他者>たる分析家に答えを求め、分析家はその答えを保留する。

 

パロールにたいする欲求不満(frustration)の本質的関係は根本的な論点であり、それなしには欲求不満の概念は崩壊してしまう。必要性と差がなくなってしまう。

 

 欲望についてのフロイトの天才が明らかにしていること。欲望はオイディプスという結び目によって根本的に構造化されている。この内的な結び目をなくしてしまうことは不可能。この結び目は本質的に、要求(絶対的命令、法)と欲望(<他者>の欲望)との関係である。

 

 この要求は以下のように表現される。「おまえはわたしの欲望であった女性を欲望してはならない」。フロイト的真理の出発点をその構造において基礎づけているのはこのことである。

 

 そしてそこを出発点として、いっさいの可能な欲望が一種の迂回を否応なく強いられる。これはトーラスにおけるいくつかの周回におけるlacs の省略不可能性に似たものである。このものゆえに、欲望はおのれのうちに空虚を含まなければならない。原初的な法への関係において特殊化される内的穴を含まなければならない。

 

 この最初の関係をめぐってあらゆる愛の条件(Liebesbedingungen)、あらゆる愛の規定(déterminations)をフロイトにとって分節可能になる。

 

 愛の至高の形態は、原初的な殺人において殺害された父という他者への関係において宿る。

 

 これは明白なパラドクスであるが、オイディプスの神話的構造において、父へのこのような至高の愛という契機は本質的である。それがこの原初的な死、原初的な殺害をそれ以来絶対的なものとなる父の現前の条件とするのだ。

 

 死は、このような役割を担うことで、父をこのような現実に固定することのできるものとして現れる。おそらく、不在であることによって唯一の絶対的に永続的なものとして。原初的な掟の絶対性にこれ以外のいかなる源泉も存在しない。 

 

 ここにおいて制定される共通の領野においてこそ欲望の対象が構成される。想像的な次元においてのみ必要なポジション、すなわち第三者のポジションにおいて。

 

 鏡像段階の想像的な関係における移行的なものとしての他者への関係の唯一の弁証法は似姿に結びついた人間的関心の対象となる。すなわち対象aである。(つづく)

 

 

 

 

縫合としての主体:セミネール第9巻『同一化』(その11)

 

 

 第XIII講(承前) 

 

 ……前回は「剥奪」で話を終えたのだった。(-1)によって象徴化される主体についてはご理解願えたものと思う。計算に入れられない一周。マイナス1と計算される一周。つまり一周したときに巡っているトーラスの一周。

 

 この(-1)の機能を普遍肯定の可能性という論理的基礎に送付しよう。つまり例外を基礎づける可能性。そしてそのことが規則を要請する。例外は原則を立証しない。例外は原則を要請する。例外こそが普遍肯定の真の原則である。

 

 パースのカドランによって、普遍的肯定の唯一の真の保証は否定的な特徴の排除であることを示そう。「死ぬことのないような人間はいない(il n’y a pas d’homme qui ne soit mortel)」。混乱をただそう。これを象徴界を出発点とする過程の演繹とみなすべきではない。カドランのなかで何も[垂直線も斜線も]含まないマスは、切り離されたマスと見なさねばならない。主体という(-1)は、このレベルでは、それじたい、主体化されてはいない。まだ知も無知も問題ではない。何かがこの到来のレベルで生ずるためには、ひとつのサイクルぜんたいが埋まっていなければならない。それの剥奪は第一歩でしかない。

 

 問題になっている剥奪はレエルな剥奪である。

 

 長い迂回を経てはじめて主体にとって原初的排斥(rejet originel)の知が到来し得る。しかしそれが日の目を見るとき主体は知る。この知がかれを拒絶するということだけでなく、この知が、欲望の実現にとってつねに到達すべきものの向こう側か手前にあるかぎりにおいてそれじたい拒絶すべきものであることを。

 

 言い換えれば、仮に主体が(パルメニデスの時代以来の主体の目標だ)思考と存在との同一視に至るとすれば、そのとき主体みずからが欲望と理想とにとりかえしのつかないくらい分裂している。

 

 これにより、トーラスの対象的(objectif)構造と呼ぶべきものが示される。デカルトに至るまで用いられていた「対象的」という語をここで使っていけない理由はない。

 

 ここにいたってレエルに関することは完璧に触知可能となる。われわれをトーラスの構築に導いたものは、周回のそれぞれを決定的に異なる1として定義する必要である。それがレエルであるためには、つまりこの象徴的真理が、計算(comput)を想定しているという理由によって設立されるためには、なにかがレエルのなかに現れねばならない。それは trait unaire である。理想に現実性をあたえるこの1を前にすると、理想とは象徴的なものにおけるもっともレエルなものであることが理解される。そしてそれで十分。思考の起源においては、プラトンの時代そしてプラトンにあっては、それは賞賛、驚嘆を引き起こした。<一>は善であり美であり真である。至高存在である。

 とはいえ、この1は、小さな棒という現実以上のものではない。原初の狩人はレイヨウの肋骨に狩をした回数を刻んだ。計算ができなかったのでこの線を入れるひつようがあった。十回と十二回と十三回が混同されないように。

 それゆえ剥奪のレベルでは、主体がまず対象的に(objectivement)ものにおけるこの剥奪であるかぎりにおいて、その実態が計算されない一周であることを主体の知らないこの剥奪であるかぎりにおいて、主体が欲望として構成される条件が理解される。そして主体がこの構成のこの起源への関係を知る条件が理解される。この構成のおかげで、主体の欲望の構造の主体に対する象徴的関係についてこれまでよりもより適切に言い表すことができる。

 

 とはいえこのことは、主体が欲望の状況に置かれるときの主体の観念あるいは機能を推測させてはくれない。つまり、主体については経験についてのひとつの方法(ヘーゲル現象学の副題である「経験の科学」)に従わねばならない。同じ方法(chemin)によって[ヘーゲルとは]異なるデータを扱わねばならない。

 

 つぎの一歩は欲求不満(frustration)だ。欲求不満の水準においてこそ主体にとって新たな本質的な一歩が導入される。<他者>である。

 

 唯一の周回の1、絶対的な差異においていちいちの反復を区別する1は、主体に到来しない。たとえその支えがレエルな棒という支えにすぎないとしても。主体にとってそれは、この主体が生まれる以前に言説の宇宙の存在によって、この経験が<他者>の場から大他者とともに想定する必然によって、構成された経験に由来する。

 

 ここで主体は本質的なものを獲得する。私はそれを第二の次元と名づけた。これはその構造におけるみずからの位置づけ(repérage)の根源的機能である。それゆえに、隠喩的に、しかしこの隠喩においてものの構造そのものに到達するなどと主張することなく、われわれはこの第二の次元をトーラスの構造と呼ぶ。この次元はあらゆる lacs のなかでも一点に還元不可能な lacs、消失しない lacs の存在を構成している。

 

 <他者>においてこそこの二つの次元の還元不可能なものが必然的に具現する。この還元不可能なものがどこかで可感的であるとすれば、それは象徴的なものの領域においてであるほかない(われわれにとっての主体はこれまでのところ話す主体であるから)。象徴的なものの経験においてこそ、主体はかれのさまざまな移動の限界に出会わねばならない。この限界は主体にたいしてまず経験においてこの二つの次元の二重性の還元不可能な先端あるいは角(かど)を導入する。

 

 これにこそトーラスの図式が最大限に役立つ。そして精神分析とそれが目覚めさせる観察によって豊かになった経験が出発点となる。

 

 みずからの欲望の対象を主体は口にしようと企てることができる。主体はそればかりしている。それはひとつの言表行為以上のものだ。想像力の行為だ。それは主体のうちに想像的な機能のはたらきを引き起こし、必然的にこの機能は、欲求不満が現れるや否やその現前が明らかにされる。

 

 わたしはアウグスティヌスにならって、このしゅの対象の構成における嫉妬的情熱の目覚めを強調してきた。これはわれわれの満足のいちいちに潜在している。幼児は弟を前にして嫉妬の情熱に囚われる。弟はかれにとって、イマージュとして、この対象(とりわけ乳房)の所有を生じさせる。この対象は幼児にとってそのときまで潜在的な対象にすぎず、満足のいちいちに結びついた現前の回帰の背後に、省略され、隠された対象にすぎなかった。それはかれの最初の依存の必要が刻まれ、感じられるリズムのなかで、その回帰のいちいちの換喩的対象でしかなかった。ここでとつぜんその対象が、幼児にとって光の中に浮かび上がる。それは死の青白さを帯びている。欲望という新しいものの光。対象そのものへの欲望。その対象は根底から主体を捉え、主体を揺さぶる。主体のなりたち(constitution)を超えて。主体を満足させようとさせまいと、主体をその存在のもっとも親密な部分において脅かすように、主体の根本的な欠如をあらわにするように。小他者という形態において。この形態が条件づける換喩と喪失とをともども陽のもとにさらすように。

 

 こうした喪失の次元は換喩に本質的である。それは対象におけるものの喪失である。喪失され二度と同じものとして再発見されないことが対象という主題の真の意味だ。これはフロイトの言説の根底にあり、たえずくりかえされている。

 

 さらに一歩。換喩をさらに進めたところにあるのは、イマージュつまり自我と呼ばれる換喩における本質的ななにものかの喪失である。欲望が生まれるこの地点において、アウグスティヌスが幼児のまえで立ち止まった(その18世紀後にフロイトが孫を前にそうしたように)青白さにおいて、私が嫉妬している存在すなわち弟が私の似た者であると言えるのは誤った仕方によってだ。弟は私のイマージュである。このイマージュが私の欲望を創設するイマージュであるといういみにおいて。これは想像的顕現であり、これが欲求不満の機能の意味だ。

 

 こうしたことはすでに知られている。わたしはそれを経験の第二の源泉として想起させているだけだ。レエルな剥奪のあとで、イマジネールな欲求不満がくる。しかし、レエルな剥奪にとってとおなじく、イマジネールな欲求不満がサンボリックの創設に役立つことを本日私は示そうと試みた。同じくいかにこの創設的イマージュ、欲望を顕現させるこのイマージュがサンボリックのなかへ移行するかを。

 

 この投資は困難だ。もしサンボリックがすでに現前してないのであればそんなことはまったく不可能だ。もし<他者>と、主体が身を置くべき言説が、出生以前に主体を待ち受けていないのであれば。そしてもし母親や乳母の仲介によってだれか(on)が主体に語りかけていなければ。

 

 問題になっている管轄(ressort)はわれわれの経験のイロハ(b.a.-ba)であるが、イロハとしてそれを形式化することができないためにしばらくまえからその向こう側へは行くことができない。この管轄は、<他者>の次元によって、欲望と要求のあいだにつくりだされる素朴な交錯あるいは交換だ。

 

 もし、はじめに神経症者が囚われになる何かがあるなら、それはこの罠にである。そして神経症者は、みずからの欲望の対象であるものを要求のなかに移行させようとするだろう。小他者から、要求がさしむけられる必要性の満足をではなく、欲望の満足すなわち欲望の対象を得ようとするだろう。つまり要求され得ないものを得ようとするだろう。そしてそれは小他者への主体の関係におけるいわゆる依存の起源においてのことだ。

 

 どうように主体は、さらに逆説的なことではあるが、みずからの欲望の形成(conformation)によって、小他者の要求のままにこれを満足させようとするだろう。これこそ精神分析フロイトの発見の意味だ。超自我そのものの存在の意味だ。

 

 神経症者の隘路はまず欲望の隘路という問題以前に、各瞬間において可感的な隘路であり、それは粗野なほどに可感的であって、それに神経症者はつねにつまづく。神経症者の欲望にとっては、要求の承認(sanction)が必要だとでも言うことができるだろうか。分析家は神経症者に何を拒むか。神経症者が分析家に期待していることだ。つまり分析家が神経症者に適切に欲望することを要求することだ。神経症者が配偶者や親や親類や周囲のあらゆる日和見論者にたいして期待していることについては言うまでもない。

 

 それによってわれわれは何を構成し察知することができるのか?

 

 要求は充満した円を周回する度に更新され、その成功がさらなる周回を促すが、要求には要求の lacs [である]必要性が挿入されている。

 

 それゆえにその回帰のいちいちをつうじて、排除された円(空虚な円)が、あらゆる要求の下に換喩的対象を具現し(matérialiser)にやってくる。

 

 トーラスによってひとつのトポロジカルな構成が想像可能だ。その特徴は欲望の対象の貼り付け(application)を想像させてくれること。さいしょのトーラスの内部の空虚な円を第二のトーラスの充満した円に貼り付けると、還元不可能なlacs のひとつとしての留め金ができる。

 

 ぎゃくに最初のトーラスの円は、要求によって他方のトーラスに重なる。

 

 ここでトーラスは他方(小他者)の支えである。欲求不満の想像的他者の。

 ……ここにこのトーラスの空虚な円が重なり、つまりこの逆転を示す機能を満たしにくる。一方における欲望、他方における要求、一方における要求、他方の欲望が結び目をなし、そこに欲求不満の弁証法がすっぽり嵌り込む。

 

 二つのトポロジーのこうしたありうる依存、ひとつのトーラスのもうひとつのトーラスへの依存を示すことがわれわれのシェマの目的である。つまりカント的直感の空間がわれわれの導入した新たなシェマのおかげで括弧に入れられ無益なものとして廃棄され(aufgehoben)ねばならないとしても、というのは、トーラスのトポロジー的な延長が表面という特性だけを考慮することを可能にしてくれるからであるが、われわれは、深層についての直観に訴える必要なしに、システムの嵩(volume)の堅固さを維持することができると確信する。

 

 ふたつの表面のあいだで問題なのはもっぱら1対1の(biunivoque)貼り付けによる置き換えなので、ひとたび切断されて逆転しても、それがはっきりと示すのは、要求されている(exigé)空間の観点からは、内部と外部というこの二つの空間は、われわれがトポロジー的な実質以外の実質をそれらに付与することを拒否する瞬間から、同一だということである。

 

 これはローマ講演の要となる文において述べられていることだ。輪の特性は、一方から他方への関係において主体の機能を象徴するかぎりにおいて、内部の空間と外部の空間が同一であることに存する。主体はそこを出発点として、みずからの外部の空間を、内部の空間の還元不可能性というモデルに基づいて構築する。

 

 しかしこの図式が示すのは、明らかに、対象から要求へと、要求から対象へと要請されるかもしれない理想的な調和の欠損だ。その幻影は経験によって十分に示されているので、両者の必然的な不一致という必然的なモデルを構築する必要性(besoin)をわれわれは感じている。わたしのあゆみがゆるやかにみえるとしても、確実にあゆみをつづけるためには停滞は必要である。

 われわれがすでに知り、直観的に表現されていることは、それじたい欲望の対象であるかぎりにおいて、対象は<他者>が要求に応えることの不可能性の効果であるということだ。欲望の如何にかかわらず要求を満たすために小他者は十分ではない。小他者は構造の大半を必然的にむき出しのままに残す。言い換えれば、主体は<すべて>のうちに包まれているのではなく、すくなくとも話す主体のレベルでは、環界 Umwelt がその内界 Innenwelt を包括しない。つまり、理想的な球面(sphère)に照らして主体を想像するためにしなければならないことがあるとすれば、すでにコスモスの構造という直観的で心的なモデルは、むしろ主体をくだんの球面の穴の存在によって、そして二つの縫合による補填によって表象することであろうということだ。

 

 主体をコスモス的球面のうえに構築すべきものと仮定しよう。ひとつの無限の球面の表面はひとつの平面である。無際限に拡張された黒板の平面だ。

 

 ここに主体がいる。四角い穴だ[円の中に黒い長方形が描かれた図]。さきほどの私の皮(?)の一般的布置であるが、こんどはネガ状である。

 

 わたしはひとつの縁を他方の縁と縫い合わせる[円の中に破線で繋がれた黒い円が上下に二つ並んでいる図]。ただし条件がある。これらは相対する縁で、二つのもう一方の縁はそのままにしておく。その結果としてつぎの図形を得る。つまり、ここで埋められた空虚をそなえた、無限の表面の領域において残っている二つの穴。あとはこの二つの穴の縁のそれぞれを引っ張れば、無限の平面上に主体が構成される。この平面には取っ手がついているが依然としてトーラスである。

 

 以上が<全体>との主体の関係について最大限言えることだ。

 

 ここで理解が重要なのは、要求にたいする対象の一致(recouvrement)のためには、欲望の円と要求の円の機能の逆転において想像的な他者がかくして構成されるならば、小他者は主体の欲望の満足のために力(pouvoir)なき者として定義されねばならないことだ。「なき」を強調したい。というのは、これによって、新たな形態の否定が現れるから。そこにおいては厳密ないみでの欲求不満の諸効果が示される。「なき」は否定であるが、とくべつな否定である。それは否定=関係(liaison)であり、英語において whitin とwhithout という二つのシニフィアンの二つの関係の因襲的な相応がこれを巧妙に具体化している。これは拘束された(lié)排除であり、すでにそれじたいにおいてその逆転を示している。

 

 さらに一歩を進める。「なしにではなく(pas sans)」という一歩だ。小他者はおそらく、力なきものとしての欲望の素朴な観点において導入されるが、本質的に、他人を欲望の構造に拘束するものは「なしにではなく」だ。それ?もまた力をもたないのではない。それゆえに唯一の特徴の隠喩としての<他者>は、このレベルにおいては、無限の退行において、というのも<他者>は、主体がその換喩であるところのこれらすべて異なる「1」どもが継起する場であるからだが、この「1」としての(comme un = commun という機知)<他者>は、想像的な欲求不満の諸効果の必要が、この固有の(unique)価値をもつものとして、ひとたび満たされる(bouclé)と、というのも、それのみが「なき」ではないからだが(「力なしにではなく」pas sans pouvoir)、これは条件として設定された欲望の可能な起源にある。たとえこの条件が保留されているとしても。そのために、それは「1ではないように(comme pas un)」だ。それは主体の(-1)にもうひとつの機能を付与するが、その機能はまず、この「ように(comme)」があなたを隠喩の次元に位置づけるこの次元において具現化される。

 

 このレベルにおいて、comme pas un のレベルにおいて、そして、そのつづきにおいて「欲望の絶対的な条件性」とわたしが呼んだものとして保留されたままであるものすべてのレベルにおいて、次回、すなわち第三の項において、欲望という行為そのものの導入に手をつける。その主体への関係、力の根源(racine)への関係、この力のもろもろの時間(局面)の再分節化への関係において。というのも「力」と「力なき」という語の導入によって成し遂げられた道をしるしづけるためにありうる一歩(あり得ない pas possible)にたちもどるひつようがあるからだ。両者の弁証法が次回扱われる。

 

 

エロスの未来:セミネール第9巻『同一化』(その10)

 

 第XIII講(14/03/1962)

 

 キリスト教(gentils 異教徒)におけるエロス的なものの困難。キリスト教は「ウェヌスとのトラブル」を抱えている。

 

 キリスト教の根本はパウロ的顕現、つまり、父への諸関係におけるある重要な一歩にあり、父への愛の関係はこの重要な一歩である。この関係はセム的伝統が創始した偉大な伝統の乗り越えである。フロイトの思想は父へのこの根本的な関係、原初的な幸運(baraka)に(矛盾した、呪われたかたちでではあれ)結びついている。

 

 エディプスへの参照はともかく、フロイトモーセについての論文によって生涯を締めくくったという事実は、キリスト教的な顕現の根底が、パウロが<法>によって継承させた<恩寵>への関係であることを示している。

 

 わからないのはつぎのことだ。つまり、キリスト教徒はこの顕現に達しえないこと(それにはもっともな理由がある)。そしてそれにもかかわらず、キリスト教徒は、高度に世俗化された形態に還元されてさえ、その権利上の原則がこのパウロ的顕現と無関係ではない公教要理から直接由来しているような社会に生きている。

 

 とはいえ、神秘体 Corps mystique の省察は各自の手のとどくところにないので、亀裂が口を開いており、それゆえにほとんど、キリスト教徒は、セックスをするよりほかに現実的に享楽そのものに近づく術をもはやもたないことによって、正常ならざる、根本的ならざる状態に置かれている。わたしが「ウェヌスとの諍い」と呼ぶ状態だ。というのも、キリスト教徒をこのような状態に置くものとそれ(ça)はかなり折り合いが悪いから。

 

 キリスト教に同化した地域、つまりキリスト教に改宗させられた地域ではなく、キリスト教的な社会の影響を被った地域に入るとそれはとても顕著だ。1947年にエジプトのガイドとした会話を思い出す。その言説にはエロス的問題が前景化していたが、女性におけるエロス的なものは口にされず、女性という対象は満足をあたえないものとされていた。伝統の諸規範ゆえに。

 

 

 

 エロティックなものにとってのこうした規範をいかに考えるべきか。たとえば、現代社会における結婚制度の持続を正当化する必要があるか。その正当化のためにはヴェステールマルク[『人類における結婚の起源』の著者]がしているような議論は不要だ。結婚制度は現にあるその持続によって正当化されている。[生産]諸関係を問い直した気になっている共産主義社会において結婚制度はプチブル的特徴を刻印されている。革命は結婚の必要性を微塵も変えなかった。

 

 結婚の必要はわれわれの生存の本質的に社会的な特徴である。結婚の帰結である不満足の問題はまったく解決されていない。人間主体は、人間であるというただそれだけのことによって、結婚の法則によって恒常的な葛藤を強いられる。神経症の存在がそれを証言している。

 

 神経症とは何か。神経症の威厳とは何か。人間的な弱さをそこに帰す見解は安易である。社会組織そのものの弱さが神経症者に帰され、神経症者は「不適応者」とされるのだ。われわれが神経症者から学ぶべきことに由来する権利、威厳は、神経症の構造である。神経症者の欲望はわれわれの欲望と同じである。神経症者の威厳は知ることを欲していることだ。神経症精神分析を導入したのだ。精神分析の発明者はフロイトではなくアンナOであり、その背後にはわれわれ全員がいる。神経症者は何を知ることを欲しているのか。神経症者が知ることを欲しているのは神経症者が被っているもの(passion)におけるレエルなものだ。すなわちシニフィアンの効果におけるレエルなものだ。人間における欲望はシニフィアンとそこに書き込まれる諸効果との関係において以外に思考不可能である。

 

 神経症者はそのポジションによってこのシニフィアンである。生ける神経症として。神経症という暗号が神経症者を一つのシニフィアン以上のなにものでもないものにする。というのも神経症者が奉仕している主体は他所にあるから。つまり無意識である。それゆえに神経症者は、神経症として、一つのシニフィアンなのだ。つまり神経症者は隠された主体を代理表象している。しかし何に向けてか?いまひとつのシニフィアンに向けてだ。神経症者をそのものとして正当化するもの、分析において神経症者を「価値づける」(ラガーシュ)ものは、かれの神経症がエロス的なものについての言説の到来をを促すかぎりにおいてである。神経症者はそれについて何も知らず、知ろうともしない。われわれはエロス的なものをめぐって精神分析の意味作用について解明しよう……。未来のエロス的なものについては詩人たちの探求に待つべし。その先駆はアルノー・ダニエルらの宮廷風恋愛にあるかもしれない。これは昇華に関係がある。

 

 フロイトの言説における昇華はひとつの矛盾と不可分。つまり、享楽の目標は、あるいみで昇華のはたらきのうちに実現している。享楽には抑圧がなく、消去(effacement)がなく、妥協さえもない。逆説があり、迂回がある。享楽が獲得されるのはいっけん享楽に矛盾する諸方途によってである。

 

 享楽のメディウムシニフィアンであり、それゆえに享楽の根底である<もの>への到達が可能となる。宮廷風恋愛における貴婦人の奇妙な側面がここに由来する。われわれはもはやそれほどまでにひとつの生身の主体をひとつのシニフィアンに同一視できないので、この側面を信じることがもはやできない。ダンテにとってベアトリーチェという人物は叡智そのものであった。ダンテがベアトリーチェとじっさいに寝ていたとしても事態はなんら変わらない。

 

 ここでふたたび問う。何が神経症者を定義するのか。

 

 神経症者はかれがその効果を被っている奇妙な再変容に身を委ねている。つまるところ神経症者は無知(innocent)である。神経症者は知ることを欲している。

 

 知ろうとすることで神経症者は罠にかかる。神経症者はシニフィアンを、かれじしんがその記号であるものへと再変容させることを欲する。神経症者がそれなりの理由で知らないことがある。じぶんが主体としてある事態を生ぜしめることを。つまり、シニフィアンとしてのシニフィアンの到来は、ものの主要な消去 effaçon であるという事態をだ。主体こそがもののあらゆる特徴 trait を消去することでシニフィアンをつくるのだ。

 

 神経症者はこの消去を消去することを欲する。神経症者が欲するのは、それが起こらなかったという事態だ。これこそたとえば強迫神経症者の典型的なふるまいのもっとも深い意味である。神経症者がつねにたちもどる(その効果を廃棄することができないまま。というのは、それを廃棄しようとするかれの努力のいちいちはそれを強めることにしかならないから)ことは、シニフィアンの機能へのこの到来が起こらなかったことだ。起源にレエルなものを再発見することだ。つまり、こうしたことすべてがその記号であるところのレエルなものを。

 

 分析はエロス的なもののもっとも終末論的な目標においてしか構想されない。もっとも正常な(normal)人たちにあってさえ諸規範(norme)が正常に機能していないという事実と折り合いをつけねばならない。ラ・ロシュフーコーは言った。「よき結婚あれども味わいふかき結婚なし」。その後、事態は悪化し、よい結婚さえ存在しない。つまり、欲望という観点から言えば。

 前回終えたところから再開しよう。「剥奪」についてだったね……。(続く)

 

 

 

愛への愛としての喪:講演「私の教えていることについて」(了)

 承前。 

 

 ここでフロイトが「メランコリー」論文で語っている奇妙な喪に出会う。これを métamour と呼ぼう。メタ言語は存在しないが、メタ愛はあるのだ。愛が走り(se courir)また近道をとる(court-circuiter)のもこの同じ道である。その途上で愛の営み(ébats)からひとつの対象を生じさせるが、それはひとつの奇跡といえるほどに予想外である。この対象は欲望の苦しみ(affres)へとすでに約束されている。享楽すべきものを手にするまえに人間主体は愛されている。主体は隷属している。人間の人間性は愛に与えられているから。その代償は承知のうえだ。

 

 それ(ça)を携えて主体は他人の許へ赴く。この他人は主体にみずからの人格(personne)を贈与する。そこで主体は立ち止まる。なぜならこの人格こそ主体の愛するものだから。神への愛しかり。ある間違い(maldonne)から居心地のわるさが生じる。この間違いは経験を果てまで辿ったすえにいっしゅの悲しみを投げかける。歓喜の方へ、最初に約束された忘我の方へと。おそらく喜劇的でもある忘我。わたしは愛が喜劇的な感情であると教えている。とはいえ愛は喜劇という迂回によってすがたをあらわすのではなく、欲望という迂回によってあらわれる。喜劇と欲望は機知において溶け合う。喜劇的なのは愛が呼び出す器官(=ファルス)である。喜劇的なものが弾けるにはこの対象がどこかになければならない。アリストファネスにおいては舞台上にある。今日ではもっと慎ましくではあっても、それは現前している。『守銭奴』が喜劇であるのは気取った男が守銭奴に娘のことを話しているのに守銭奴は金庫のことだと思っている場面である。金庫は他人のファルスである。

 

 愛とは愛の要求(demande)にたいして応えるものである。愛への渇きを満たすことなく赤ん坊のすべての欲求(besoin)を満足させることはできる。しかし呼びかけにおける愛の要求にかんしては、欲求を満たす手への要求ではなく[母親の]現前への要求である。ママとパパという言葉を覚えることで赤ん坊ははやくも二つの音域を区別する。パパにたいしては母親[へ]の呼びかけにたいしてたんにすがたを見せること(pur retour)が割り当てられ、ママは父親が運んでくるおやつを補う。(コンテのメモには「最初に獲得される音素たちの交換可能な使用」とある。)

 

 慰めの分配者は物質的な満足の配給者とは別の他人だ。両方の役割が母親に期待されているが、母親は巧妙に登場をじらすことがあるだけに、前者の役割の方が評価される。じらしたぶんだけ愛のありがたさを感じさせるわけである。現実的な欲求不満に基づく象徴的贈与。(同一化への chute。)

 

 フロイトは現実の獲得の起源に、到達不可能な失われた対象を位置づける。たとえ現前していても、その記憶が対象を「別の場面」へと位置づけるからだ。亀裂はこの喪失の身代金である。対象とその喪失はその外延を同じくする。それらはあらゆる要求の共通分子にして共通分母である。分子はシニフィアンであり、その多数性によって主体を一なるものとして指し示す。分母すなわちシニフィエは、隠喩としての主体のシニフィアンであり、抑圧されたシニフィアンである。不用心にこの機能を対象に付与しないこと。前性器的な対象として性格づけられる換喩的な対象aが口の端に上るとしても。乳房であれば母乳をもたらすが、ウン… であればそのとばっちりを食うだけ。ひとは口に入れるものによって汚れるだけではなく口から出るものによっても汚れるもの。

 

 自己愛的なファルス的変種(アンドレ・グリーン)についてペローのシンデレラを想起せよ。口から飛び出した薔薇と蝦蟇が小箱のテーマへと導く。これらは要求の小箱である。表向きの要求はつねに欺きの元。要求とは偽りという根源的な機能においてあらわれた真理である。

 

 ことはこの無秩序を引き起こした謎の彼方、じぶんが愛を要求する他人のなかにつねに主体がそれと知らずに探してきたものにかかわっているのではないか。主体の欲望は何か。問いを発するこの欲望は無意識の真の真理であり、それは言うことができない。欲望が<他者>の欲望なのであれば、転移において主体は言説が住まいにやってくる場所である。三つの小箱のドラマがドラマであるのは、まっすぐな欲望だけが正しい小箱を選ぶことができるからだ。

 

 分析における主体の欲望は真の対象があたえられることを期待する。よい対象へのよい要求を見出すことこそ分析家の仕事である。

 

 わたしは枠組みを提示することしかできない。分析家の欲望とはどのようなものであるべきか。フロイトはこの問いに答えを出すことがなく、われわれをその問いから遠ざけた。分析家の欲望は分析における主体の善への欲望であろうか。

 

 性器的成熟は考慮に値しない。子供以外に欲望の対象はない。女性は子供を欲するが、それによって不感症を免れることはない……。スクリプトには「このあと意味不明の呟きがいくたりか」とある。

 

 男性にとっても女性にとってもファルス的欲望の機能はかくのごとし。さいわいにもファルスをそなえていないので女性はファルスを欲望することができる。なんとなれば男性にとって欲望が生へと向けられるためには去勢がひつようであるゆえ。要求の小箱における対象は死せるファルスである。強迫神経症者の愛は葬儀に似る。防腐処理を施されたファルスへのオマージュである。対象が死せる対象であることがわかっていれば、精神分析における成熟についてこれほど愚かしいことが語られることはないだろう。乳房は切りとられた乳房である。欲望は言語のしるしづけ(marque)へと向かう。

 

 セミネールの意義。われわれは精神分析によってしるしづけられている。そのことを知ることで、それは分析家の誤りそして先入観のしるしであることを免れる。したがう者には天国が約束される。運命のしるしづけのみならずしるしづけの運命が待つ。

 

 コンテのノートは最後のくだりをスルーしている。

 

表面としての人間:講演「私の教えていることについて」

 

 原題は<<De ce que j'enseigne>>。1962年1月23日(セミネール「同一化」第9回の前日)、 l’Evolution Psychiatrique の集会にて行われた講演。ミシェル・ルッサン版「同一化」は、テープから起こされたとおぼしきスクリプト(一部の晦渋なくだりは省略されている)とクロード・コンテによるノートを左右に対照させたかたちで付録として収録している。

 

 セミネールに出席していない聴衆を想定し、精神分析の始まり(敷居 seuil)から説き起こされる。ドイツ語でLust(快) とその複数形 Lüste(欲望)とは別物である。古代哲学からフロイトにいたるまで、快は原則にしたがう。快は緊張の解消をいみする。したがって緊張とは不快である(ファロスの緊張が不快ではないとしても)。

 

 伝統的心理学における全体性という観念は疑わしい。「現実的な個人」でじゅうぶんである。快原則は部分的なシステムとして作用する。

 

 「心理学草稿」におけるΨシステムがそれであるが、深層心理学の比喩によれば、無意識は湖(lac)の底にある。(『同一化』第12講で登場する同語源のlacune を含意する lacs なる語はこのくだりを踏まえている。ラカンはじっさいにはラテン語で lacus と言っていたのであろう)。

 

 しかるにフロイトにとって、無意識は二つの面(face)をそなえたひとつの表面(surface)である。

 

 ふたつの面のうちひとつ(善いそれ)は外部に対し、より無防備である他方は内部を向いている。無意識において起こるいっさいはこの表面のうちでネット状に展開する。これをいいあらわすにさいしてフロイトはブロックノートという比喩を思いついた。それは二つの次元をそなえている。たとえば胚「葉」(feuillet)のように。この「葉」に位置づけられるかそれをはみだすかが精神分析の製図法においては問題になる。

 

 解明すべきはこうした表面の構造である。

 

 この構造はシニフィアンの両義性を生み出す。

 

 Niederschrift(記載、「下に書かれた」)という表現が明かしているとおりだ。この表現は『夢解釈』に先立つ。『夢解釈』を読めば、「夢は自我の生産物」などという精神分析のイロハもわきまえぬものいいはできない(スクリプトは「分析的現実」論文への暗示とし、コンテのノートには「ブーヴェのことか?」とある)。

 

 シニフィエは無意識が記載される言語の効果にすぎない。無意識を情動に帰すこともできない。それは無意識の「メカニズム」を「マシーン」(フィードバック)に帰すことだ。

 

 フロイトは無意識の表象をマシーンとして図解した。快原則がそのようなものであるから。

 

 フェヒナーにも心的なものを恒常系とみなす発想はあった。フェヒナーはフーリエにおける周期性の機能を参照した。

 

 フェアバーンは快志向的(pleasure-seeking)リビドーおよび対照志向的リビドーを区別した。対象関係論はフロイト理論とはなんのかんけいもない。

 

 快原則は現実原則と弁証法的なかんけいをもつ。

 

 存在のもっとも美しい象徴は牡蠣である。牡蠣にも木にも快原則はかんけいない(フェヒナーへの暗示?)。

 

 リビドーの機能について問われるべきは現実界の末端、すなわち享楽とのかんけいであり、人間にとって享楽が現実原則への依存ではなく快原則への依存ゆえにとらえがたいものであることだ。フロイトはそれ(コンテは「享楽」ととる)を存在のコアに位置づける。セクシュアリティには無意識的備給のいっさいが積み込まれる。

 

 享楽の何たるかはわれわれの表面によって理解できる。われわれはみずからの身体を享楽する。身体とは何か。われわれはわれわれのものではない身体、他の身体をも享楽する。つかのま他人の身体がじぶんの身体として感じられることがあり得る。聖書にも『饗宴』にもそうある。アリストファネスふたなりの人間の神話である。神話は享楽の根本的な満足不可能性について教えている。

 

 分析家は(とくに女性の)オルガスムの機能不全を治療できなくなっている。抵抗は治療者の側にある。これは現在の「野生の」時代文化における性習慣にかんけいしているらしい。

 

 分析家は欲求の解消(écrasement du besoin)を享楽と区別せねばならない。性的欲求の(かつてなく大きな)叫びを鎮める(étouffer)ことが問題ではない。ぞんざいな性的関係こそ問題だ。これを考慮することは欲望の機能を理解することになる。[安易に]「卵」を「献ずる」(oblater)習俗への揶揄。

 

 oblater というわけで objet が問題になる。対象の観念を「他人への関係」に帰すことは大雑把すぎる。「固有の身体のイマージュ」との関係である。他人とイマージュは鏡のなかで入れ子状になっている。鏡はナルシシズムすなわち自我の原初的核のメディウムである。想像界は人間の現実を構造化し、そこにシステムΨの二次元の空間を具体化する。似た者に遭遇すると、人間はその周囲をめぐり、その視像(vision)を正面像(face)と横顔とのあいだにかけわたされた(tendu。コンテのノートでは tordu)ものとみなす。人間は正面像に反応する……しかしそれは禁じられた対象である……かくして「仮面」がひつようになる……。正面像が何であるかを知るにはニューギニアの仮面を見るにしくはない。

 

 ついで横顔。人間はイマージュを輪郭づけ(cerner)、その瞬間の調和のとれた形態をとりだす……。筋肉に命令を出す者がアニミズム的な悪夢の雌馬を乗りこなす騎士となる(?)。

 

 ケンタウロスのようなハイブリッドな存在は、 ganz と alles を区別するとき、その同一性(mêmeté)を回復する。(コンテのメモによれば、ケンタウロスは古代の論理学において本質と存在との違いを説明するためにもちだされた形象。)ちぐはぐな存在は一瞬パニック状態をつぎはぎする。人間にとって理想我と自我理想の結合において何かが残る。

 

 表面の主体はみずからを自足した単一性(unité)として見ることのうちにはじめてみずからをみとめる(s’identifier)。この単一性は主体の ex-sistence の残部である。他人の身体が主体にとってみずからの身体以上にちかしいものであることを忘れる手立て(parti)である。主体はこの他人が他人になってしまうまえにみずからを愛するようにこの他人を愛することがあり得たのだ。主体にとってみずからよりちかしい存在であり得たのだ。

 

 ピンダロスの言うごとく人間は「影の見る夢」である。

 

 主体はこの他人を鏡のように利用してそこにじぶんという表面を投影し、そこに名をもたないもの、享楽の終焉というべきものが描き出されるのをみる。

 このものは、生の自己愛的固着の内部にはない。いかにたどりつけないものではあれ、享楽は死の危険として感知される。他人の身体を享楽できないのは、享楽することで他人の身体を餌食とするからであり、影にすぎないとはいえ、みずからの身体を餌食にすることであるからだ。

 

 現実界への接近は、身体が形態の移動(transition)にすぎないことを悟らせ、他の身体を再創造することにしかならないことを悟らせる。他の身体とは欲望の支えとして供される対象である。

 

 身体の生はみずからの無化という反復的な循環に供される。無意識とはある場所である。その場所から主体はじぶんの何たるかについての無知を見る(vit 生きる?)。主体とはみずからの先取りされた死である。人間にとっての唯一の選択肢は、みずからの反映を愛するか、もしくは愛する者を殺してみずからの死へ至るかだ。(次号につづく)

 

 

誤りとしての主体(承前):セミネール第9巻『同一化』(その9)

 

 第XII講(07/03/1962)

 

 前号の続き。 

 

 本日をもってわたしは「予知(pressentiment)の時代」の幕を開ける。しばらくのあいだ、誤りと正しさ(à tort ou à raison ならぬ à tort et à raison。もちろん tort は tores に掛けてある)の二重の側面からのアプローチをこころみたい。 

 

 トーラスをご存知だろう(ドーナツ状の図が板書される)。幾何学者にとってトーラスは回転(révolution)の図であり、軸の周囲の円周を回転することによって形成される。一周するとあなたはフラフープのようにトーラスの中にいる。幾何学的にはトーラスは回転の表面である。軸の周囲の円の回転の表面だ。閉じた表面である。

 

 これは主体の機能における表面にかかわるだけに重要である。そのことは講演「私の教えについて(De ce que j’enseigne)」で述べた。

 

 こんにちではさまざまな空間や無数のディメンションの理論が流行している。数学的観点からは無条件にそうしたものを信じるべきではない。

 

 哲学者の考えでは、現実界という観点からは、三次元にしてからが信憑性に欠ける(本講冒頭の議論参照)。主体にとっては二次元で十分である。

 

 深層心理学にたいするわたしの留保はここに由来する。トポロジー的な観点からは主体は無限に平らな存在である。

 

 フロイトが提示するかぎりでの同一化という事象に真の価値を与えたいなら、ここから出発すべきである。

 

 とはいえ、内部がなければ表面はあり得ない。

 

 球や平面にたいするトポロジーの独自性は前述の講演でのべた lacs (欠如 lacune)ということばにある。

 

 トーラスは球や平面とちがって lacs にかんして同質的でないという利点をもつ。

 

 表面に小さい輪をつくり、それを無、一点に帰すことができる。

 

 それゆえ超越論的感性論が存在する。ただしカントの超越論的感性論はよくない。それは空間ならざる空間の超越論的感性論であるから。また、表面記されたものが一点に還元され、円の規定する内包の総体が任意の一点の消失する単位に還元される可能性に基づいているから。すべてがすべてに重ね合わされる世界なのだ。すべてを手のひらにのせることができるような。言い換えれば、なにをそこに描こうとそこに落ち込み(collapse)ができる。シニフィアンの観点からはそれは同語反復である。すべてがすべてに帰され、その結果、ひとつの問いが提起される。純粋に分析的な構築(constructions)によって、数学どうよう現実界と競合する構築物(édifice)を生み出すことができるかという問いである。

 

 トポロジーの構造は主体の構造であり、そこには削除不可能な固有のlacs が含まれる。

 

 トーラスを輪切りにすると「充満した円」をいくつもつくることができる。その内部は直観に委ねられる。超越論的感性論は直観を根底とする。直観については数学者たちの論争がある。ポアンカレらは直観的要素を除去できないとする。公理主義者はトポロジー的直観は不要だとする。直観なしにトポロジーの科学はない。

 

 トーラスの構築についての基本的な真実がある。球や平面には地図が描ける。地図を塗り分けるには4色で済む。トーラスのばあい7色ひつようである。トーラスにはそれぞれの領域が別のすべての領域と接点をもつような六角形を7つ描くことができる(?)。

 

 (これは現実界の一貫性にかかわるらしい。)

 

 ドーナツ内部の空っぽの円がまんなかの穴をめぐっている。重要なのはこのような穴を穿たれた構造だ。それはハンス少年の小さなキリンのようにいくらでも歪めることができる。

 

 ドーナツのなかのコイル状の一連の周回は1なるものの反復である。回帰するものは反復強迫のシフニフィアン的関係において原初的主体を性格づける。

 

 かくして主体はいちれんの要求をへめぐるが、そのとき計算を1だけあやまつ。ここに無意識的な(-1)がふたたびすがたをあらわすのであるが、これは主体の構成要素である。主体が数え損ねる周回はトーラスの一周である。充満した円(=ドーナツの内部)と空虚な円(=まんなかの穴)というふたつの lacs のうち、後者は欲望の機能にかんけいしている。この穴が充満した要求の円のすべてを結びつけ、輪を形成させている。そのかぎりで換喩の対象a とかんけいがある。空虚な穴はこうした対象である。欲望がこれらの円によって象徴されているのではなく(ジョーンズの名がほのめかされる)、対象そのものが欲望に供されるのである。

 

 さいごに種明かしがなされる。トーラスの充満した円のひとつに沿って鋏を入れると両側に穴の空いた腸詰が得られる。ふたたび鋏を縦方向に入れて展開するとトーラスにひとしい平面を得る(『エクリ』553ページの「シェマR」)。向かい合う辺の各点が反対側の辺の点のひとつと繋がっている。

 

 というわけで、ただひとつの lacs にほかならないものが二度鋏を入れることでしかるべく切断されたトーラスのうえにあらわれる。斜めの線が円のみっつめの空間を定義するが、これが主体の構造である。一周しかしていないのにたしかに二周しているのである。充満した円を一周することで同時に空虚な円を一周しているのだ。算入されないこの一周こそ、主体が、無限に平面的であるという主体固有の表面の必然によって内包する一周であり、主体性が、ある迂回を経ることによってでなければ把握することのできない一周である。この迂回は<他者>という迂回である。

 

 以上をもって√-1についての受講者の質問にたいする回答があたえられた。

 

誤りとしての主体:セミネール第9巻『同一化』(その8)

 

第XII講(07/03/1962)   

 

 冒頭、前夜逝去したルネ・ラフォルグへのオマージュがささげられる。

 

 哲学者にとっても分析家にとっても主体は誤るということが創設的な経験。分析家にとっては、主体が「言われうる」ということが関心の対象。

 

 “知の手段の修正”は、われわれを絶対的なものからとおざける。ここで問題になっているのは現実界である。現実界とは絶対的なものである。

 

 科学批判の哲学的パースペクティブにおける「外見」という語に注意せよ。現実界にかんして「外見」は退けられるべきものではない。『論理哲学論考』の立方体の図には、立方体の「現実」があらわれている。

 

 このイマージュを視覚的幻影の機能に帰すことは、立方体の「現実」から遠ざかることになる。

 

 女性への関係もしかり。女性への関係を科学的につきつめるとモーロワのブランブル大佐のごとく女性をアルブミノイドの塊に還元することになる。これは欲望の対象がもたらす「めまい」を説明しない。

 

 女性のリアリティはそこにはない。性的魅惑を科学的に解明しようとすることはその幻影(leurre)を問いに付すことになるが、この幻影こそが性的魅惑の現実そのものなのだ。とはいえ、欲望に関心を向ける分析家にとってさえ、間違い(erreur)という語は依然として意味をもつ。

 

 すなわち計算における間違いである。言い換えると、数えない主体にとっては間違いはありえない。

 

 ここでピアジェ『子供における数の発生』『クラス、関係、数』が参照される。クラス、関係、数のあいだの構造的関係は子供にアプリオリにそなわっている。

 

 子供は何かを集める以前から数を数えている。子供はその sensorium と運動機能によって数える(comput)関係に主体として関与させられている。

 

 

 フロイトはそれに気づいている。フロイトにとって sensorium はいかなる機能をもつのか。主体の計算においてすでに存しているものは現実的であり、たしかに存在しているということを示してくれるのだ。はじめて「存在判断」ということを述べたのはフロイトである。「存在判断」は計算の正しさを確認する。

 

 主体にとっての計算の基盤となるのは trait unaire である。 trait unaire とは差異である。この差異は1+1+1……を支える(supporter)だけでなく、推測する(supposer)。ここで「+」とは差異を示すものにほかならない。加法によって「2」や「3」が意味をもつという問題が生じる。ジョン・スチュアート・ミルのように「3」を出発点にすると、永久に「1」にたどりつけない。

 

 言語という事象をシニフィアンの効果として考えよう。これは換喩のレベルにある。数のあらゆる意味作用において換喩の効果を認めることは分析家にとっては容易である。この換喩の効果は同数のシニフィアンの継起によって生じる。

 

 いくつかの trait unaire の継起によってのみ意味をなすなにごとかが起こるかぎりで、たとえば3という数字が意味をもち得る。

 

 フロイトの推論において、trait unaire はこの原初的経験にとって根源的なことがらを示している。すなわち反復における周回の単一性である。

 

 無意識における反復の機能は、あらゆる自然的な循環とは絶対的に区別される。強調されているのがその回帰ではないといういみにおいて。つまり、主体によって探求されているものは、そのシニフィアン的単一性である。反復の周回のひとつが主体に印を穿つ(marquer)。主体は反復することしかできないものを反復する。それは永久にいっこの反復でしかない。反復は、周回によって原初的単一性(unaire)を現出させることを目指している。

 

 主体が数を数えることができるようになる以前から、それは作用している。主体はそれと知らずに反復している。反復という事実はこの原初的な一なるもの(unaire)に根を下ろしている。この一なるもの(unaire)はフロイト的ないみにおいて反復するものと考えられている主体の構造そのものにむすびついている。

 

 主体の機能に不可分の必然性において主体が計算間違いを犯すかをあるモデルによって示そう。主体は数えるできるひつようはないし、数えようとするひつようさえない。それにもかかわらずこのような計算間違いが主体の構成要素である。「間違い」というのはそのようないみにおいてである。

 

 この誤りは永続的であり、それなりの根拠をもつ。この誤りは個人にたいしてのみならず思考にたいしても影響を及ぼす。

 

 思考というテーマにたちどまろう。話を人間の思考にかぎる。われわれはクラスの機能およびそれと普遍的なものとの関係を問いに付し、その逆と反対物を導こうとしてきた。

 

 ここでパースのカドランを想起しよう。そこには普遍と特殊、肯定命題と否定命題の関係が示されていたのであった。

 

 単一性(unité)と全体性(totalité)は伝統的には結びついているとされる。この前提にたちもどろう。単一性と全体性は内包(inclusion)の関係によって互いに結びついていると同時に、全体性はさまざまな単一性に照らして全体性である一方、単一性は単一性をある全体の単一性とは別の方向へ向けることによって全体性を基礎づける。

 

 クラスの論理の誤解がここから生じる。外延(extension)と内包(comprehension)をめぐる誤解はアリストテレス以来解決されていない。

 

 とはいえ、クラスの構造そのものにおいて、新たな考え方が準備されている。根源的な関係としての排除の関係を内包の関係にとって換えることだ。論理学的に主体にとって根源的なことがある。すなわち、クラスの真の基礎はその外延でも内包でもないということ。クラスはつねに分類(classement)を前提していること。すなわち、たとえば哺乳類は mamme という唯一の特徴によって脊椎動物から排除されるものである。

 

 つまり、唯一の特徴が欠けることがあり得るということが出発点になる。まず mamme の不在があり、ついで mamme が欠けていることはあり得ないということが帰結する。それによって哺乳類というクラスが構成される。

 

 それがクラスの唯一の定義である。それにつぎのふたつのいみで真に普遍的なステータスを保証しようとするのであれば。

 

 一方で、その非存在の可能性。該当する要素のないクラスを定義することは可能。それにもかかわらずそれは普遍的に構成されたひとつのクラスである。

 

 この極端な可能性を、経験に由来するいっさいの帰納的な推論を超越するものとしての普遍的判断の規範化する価値と和解させることによって。

 

 それこそくだんのカドランにおける垂直線のクラスのいみだ。

 

 主体はまずこのような線の不在を構成する。そのものとしては、主体は右上の(垂直線も斜線もない)マスである。動物学者は、あらゆる母親の mamme を確認することで哺乳類のクラスを切り出すのではない。 mamme を切り離すことによって mamme の不在を同定し得るのだ。このばあいの主体そのものは(-1)である。

 

 排除されているかぎりでの唯一の特徴を出発点として、動物学者は、普遍的にmamme の不在があり得ないひとつのクラスがあるとする(-(-1))。左上[2]のマス。

 

 そこを出発点とするとすべてつじつまが合う。特に、特殊命題のケースにおいて。任意のケースにおいて、それがある[左下3]もしくはない[右下4]。

 

 矛盾する対立が斜めに構成される。そしてそれが trait unaire による普遍-個別、否定-肯定の弁証法の設立の水準にある唯一の真の矛盾だ。

 

 それゆえ、すべては下の部分の任意の要素(tout venant)において整合する。そのような要素があったりなかったりするが、それは trait の排除によってtout valant あるいは valant comme tout が上の部分の階に形成されるかぎりにおいて。

 それゆえ剥奪(privation)を導入するのは主体である。それはつぎのような言表行為によってなされる。「se pourrait-il qu’il n’y ait mamme?(ひょっとしてmamme があるなどということがありうるだろうか)」。

 

 この ne は否定ではない。いわゆる虚辞の ne にひとしいものだ。「ありえない。おそらく何も」。ここに現実界についての主体のいっさいの言表行為がはじまる。

 

  マス[1]では「無」の諸権利を保持することが問題になっている。というのは、無こそが、下のマス(3,4)に、「あり得る(peut–être おそらく)」を、つまり可能性を創出するから。超越論的なものについての抽象的な推論が誤って言うごとくに「あらゆる現実界は可能である」とは言えない。「あり得ない(pas possible)」を出発点としてはじめて現実界は場をもつのだ。

 

 主体が探し求めるものはまさにありえない(pas possible)ものとしての現実界である。この例外があってこの現実界は存在する。いっさいの言表行為の起源にはなにほどかの「ありえない」(du pas possible)しかない。それが理解されるのは、この言表行為が発する「無」という言表によってである。

 

 それはけっきょく「剥奪-欲求不満-去勢」の三項図式においてすでに明らかにされている。

 

 では Verwerfung はどこにあるのか。その前にあるのだ。とはいえそこを推論の出発点とすることはできない。主体はまず(-1)として形成される。それゆえ、主体は「排除」されたものとして再発見されるのだ。それを証明するために本日は離れ業に訴える。

 

 ローマ講演ですでに暗示しておいた。輪としての主体の構造のことだ。昨年、『饗宴』の球の神話にそくしてふたたび話題にした。

 

 球は鈍い対象だ。すぐれた形だが間が抜けている。球は宇宙論的だ。月は唯一の対象の例としてやくだつ。閑話休題

 

 生物学的な生体とは球への郷愁である。内界、外界というユクスキュルのメタファーが示すとおりだ。

 

 生物学者は innen と um の照合、接合(coaptation)によって生体を定義する。これは主体の定義とは一致しない。

 

 Welt にとって球のイメージが根本的であるとしても、ではなぜ細胞(blastula)はたえず原腸胚(gastrula)を形成し、次々に胃の穴を二重化させる(肛門)のか。そしてまたなぜ神経組織のある段階で、トランペットのように二極において外部へと開くのか。ここで自然科学から離れよう。私が間違っている(tort)と見えるとしても。これから話題にするのはトーラス(tore)である。(この項つづく)