lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

戦争は戦争である:セミネール第9巻『同一化』(その4)

 第4講(06/12/1961)

 

 「a=a」という“信仰”。「a=a」はシニフィエをなすようにみえるが、「a=a」は「何も」いみしない(ça ne signifie rien)。つまり、“無(rien)”をいみしている。

 

 fort : da が参照される。現れたり消えたりするピンポン球はシニフィアンではなく対象である。この a は a である。ピンポン球の二つの現れを繋ぐ「である」とはなになのか。そしてその中間の消失はなになのか?

 

 想像的なレベルでは、「である」はその原因となる消失に関係づけられる。くだんのケルト神話における主人の二度の出現(二度目は鼠として)の同一視は想像的な同一化の典型である。そこでは二つの「存在」が結びつけられている。

 

 たいして存在についてのわれわれの経験(Dasein)においては別である。Dasein においては他者(l’autre)のみならず「われわれよりも内密なもの」という主体の根源が問題になっている。飼い犬が想像的に主人を同一人物と認めるばあい、犬がみずからをアイデンティファイすることは含意されていない。

 

 象徴的な同一化はシニフィアンによってなされ、そこで問題にされているのは主体である。出現と消滅のレベルにあるものとは異質の次元にあるものとの主体の同一化である。シニフィアンのステータスそのものを問うこと。

 

 シニフィアンは記号ではない。主体はシニフィアンの効果として生じる(換喩的効果であるか隠喩的であるかはわからないが)。この効果以前に、シニフィアンへの主体の依存関係が分節可能なかたちで存在する。

 

 足痕(「否」の痕跡 trace d’un pas)というかたちで。足跡はロビンソンにかれが島に一人ではないことを示す。この pas は歩みであると同時に否定の pas である。連鎖のこの二つの極端のあいだに主体が生じる。

 

 かくして「a=a」は相対化される。これは信仰であるかぎりで「スティグマ」であり「エポケー」である。

 

 「a=a」という偽りの一貫性は神学的な時代における超越者としての同一なるものへの到達をいみする。「a=a」というシニフィエはいかなる真理にも基づかない。これはデカルトのいうかぎりでの表現的実在性に基づく。シニフィエの効果は影にすぎない。

 

 シニフィアンはいかなるばあいにもみずからと同一でない。「戦争は戦争だ」(この年 La guerre c’est la guerre という小説が刊行されている。)は同語反復ではない。これは“釘が穴にはまらなくなった”(ペギー)ことを前提している。戦争は釘を穴にはめなおすためにはじめられる。

 

 「私の祖父は私の祖父だ」が同語反復でない理由。さいしょの「私の祖父」は固有名ないし「この人は」と同じ。

 

 固有名は this と同じでないが、ラッセルによれば this などの代名詞と同じ意味するクラスに属する。

 

 あらゆる同語反復においては現実界象徴界への関係が問題になっている。

 

 可能な同語反復はない。「a=a」の二つの a は別のものであるということではなく、a が a でありえないのは a のステータス(シニフィアンであること)そのものによっている。シニフィアンは他のシニフィアンがそれでないところのものである。

 

 シニフィアンの支え(支持体)として文字が必要とされるが、漢字の本質は表意文字ということにはない。

 

 サン=ジェルマン博物館所蔵の肋骨に刻まれた一連の棒線(獲物の勘定)においても、幽閉されたサドがベッドの柱に刻み込んだ棒線(性行為の勘定)においても問題になっているのはシニフィアン的な差異であって質的差異(類似性に基づく差異)ではない。

 

 シニフィアンは主体をいまひとつのシニフィアンにたいして表象する。たいして記号はなにものかを誰かにたいして表象する。犬が求めるのは飼い主signe(消息)である。飼い主は犬にとって signe を与えるものであり、シニフィアンをあたえることはできない。パロールは前言語的な水準にもあり得るが、ランガージュはもっぱらシニフィアンの機能に関わる。

 

 

言葉を話す犬:セミネール第9巻『同一化』(その3)

 

 第3講(29/11/1961)

 

 同一化において問題となる「一」は、パルメニデス的な一なるものでもプロティノス的な一者でもなく、いっこの全体性でもなく、教師が黒板に書くような一本の線である。

 

 同一化は「考えるもの」(res cogitans)なるなんらかの実体への同一化ではない。

 

 身投げしたスフィンクスを食べた怪猫シャパリュ(キャスパリーグ?)が「[ひとを]食べた者はもはやひとりではない」と言ったとかいうエピソード(『精神病』の最後の講義を参照)が引かれる。これが現実界における「同一化」の一例なのか、もしくはスフィンクスがそれゆえに死んだ「真理」なるものに関しての言及であるのかはよくわからないが、いずれにしても後続する一連の動物学的な考察への呼び水になる。

 

 ラカンは言語を重視するあまり身体を軽視しているという批判にたいし、ラカンはみずからの「前言語的なもの」についての持論を披瀝する(1954年のエリアーデとの討論を参照)。

 

 ラカンはサドへのオマージュによって飼い犬にジュスティーヌと名付けている。ラカンによれば、犬は話す。犬はパロールをもっているが、それはかならずしもランガージュではない。

 

 犬は人間と違い、話す必要があるときのみ話す。犬は話すが相手を<他者>とみなさない。

 

 純粋な「話す主体」を導入したのは精神分析である。相手を他人とみなすことで主体は相手を<他者>のレベルに置く。

 

 犬には転移の能力がない。転移は人間関係の情緒的な側面に帰されない。

 

 ラカンが言語の優位を説くとき、傲慢にも人間を全存在中の頂点と見なしているわけではない。

 

 犬のことばには閉塞(occulsion)がない(ルスロの音声学が参照される)。それゆえラングではない。犬のことばは「歌」である。閉塞は歌えないので歌手のおしゃべりは理解不能である。かくして犬は「歌う」……。

 

 ラカンが所蔵するブリティッシュコロンビアのKwakiutl 族の彫刻には鳥の背中に乗った人間らしき姿をしたものが蛙と話している(Michel Roussan 版に写真が出ている)。聖フランチェスコも動物に話してかけていた。何語で話していたのだろうか。

 

 赤ちゃん言葉(parler babyish)においては赤ん坊の言葉と大人の言葉の区別が前提されている。二つの言語の存在を前提しているかぎりでそれはピジン言語にひとしい。この問題についてはフェレンツィが先鞭をつけている(「ラングの混同)。

 

 人間のうちに動物を認めること(「この野牛はかれだ」)にかんしてレヴィ=ブリュールの「前論理的心性」「神秘的分有」の観念が召喚される。

 

 ここでケルト神話に登場する鼠が紹介される。主人の死に際して小作人は鼠が現れるのを見た。主人の幽霊がいう。「わたしはこの鼠の中にいる」。ついでにアポリネールの『ティレジアスの乳房』の台詞が引かれる。

 

 同一化は言語においてしか起こらず、言語のおかげによってしか起こらない。「A=A」を問いに付すことでしか同一化にアプローチできない。ソシュールへの参照が促される。「差異化の原理:単位の性質は単位そのものとまじりあう。ひとつの記号を区別するものがその記号を構成する。差異が記号の性質をなす」(『講義』2-4-4)。あるシフィニアンとは他のシニフィアンがそうでないところのものである。「一」そのものは<他者>である。

 

 というわけで、ほぼ余談の連続だけで講義が終わる。

 

行為としてのコギト:セミネール第9巻『同一化』(その2)

 

 第2講(22/11/1961)

 

 精神分析家にとって同一化とはシニフィアンの同一化である。

 

 ラカンヤコブソンの亜流であると言われているが、主体の実現におけるシニフィアンの機能の優位を指摘したのはラカンである[らしい]。

 

 ソシュールによれば、たとえ日によって別の車両を使用していても8時45分(ラカンは10時15分としている)パリ発ジュネーヴ行き急行は時刻表という差異の体系中ではつねに「同一」である。この例においてはシニフィアンの組成の連鎖が話す主体をとおして現実界に参入する。これはシニフィアンの同一化としての同一化の法則である。

 

 想像的同一化は鏡面上のイマージュへの同一化である。その変態にあたってサバクトビバッタは分身のイマージュの「いくつかの特徴(trait)」に同一化する。たいして象徴的同一化は唯一の特徴への同一化であるということらしい。

 

 通時性と共時性共時性とはコードのなんらかの想定された主体における潜在的な同時性であるというだけではじゅうぶんではない。それは「知を想定された主体」のひとつの形である。

 

 主体に絶対知を想定すること(ヘーゲル)はできない。分析家はこのような主体をいつも避けねばならない。

 

 コギトが「かれはじぶんが死んでいるのを知らなかった」の夢に送付される。ことは言表行為の主体にかかわっている。一人称によって言表行為の主体にアプローチすることはできるが、そのとき主体は消失する。「わたしはわたしが死すべき存在として生きていることを知らなかった」。これがくだんのフレーズの一人称ヴァージョンである[らしい]が、このことによって「われわれはわれわれの生にとって異質(étranger)」ということにもなる[らしい]。

 

 これはもっとも現代的な哲学的問いの基盤である。ハイデガーにおける死へと向かう存在が想起させられる。

 

 現代的哲学的省察が応えようとしているこうした空虚は精神分析的経験における知らないものとして構成される主体と響き合う。

 

 このような主体はデカルトに遡る。「われ思う、ゆえにわれあり」は隘路ひいては不可能へとたどりつく。この不可能なものによってこそコギトは「重きをなす」(penser と peser は語源を同じくする)。「わたしが何を考えているか」は「わたしがどこから考えているか」を覆い隠す。われわれがそこにみずからを基礎づけるべき純粋な「われおもう」という特権的な地点があるのだろうか。

 

 「われおもう、ゆえにわれあり」は、存在をみずからに保証するためにたえず考えていなければならないことを含意する。とはいえそもそも、「存在すると考える pense être」だけで「考える存在 être pensant」にたどりつくことができるのか?

 

 être pensant とは êtrepenser なる動詞の現在分詞であろうとラカンは洒落をとばす。je pensetre は夢以上の一貫性をもたない。pensetrer  は s’empetrer に帰着させられる。

 

 「ゆえにわれあり」という結論には「われ」が密輸されている。誇張的懐疑はこの「われ」を根本的な揺らぎにゆだねる。

 

 この揺らぎはふたとおりに説明できる。1)トマス=ブレンターノ心理学。すなわち、存在は考えるものとしての自身を交代的に(忘却→想起)しか把握しない。いかなる瞬間にもこの思考に確実性はともなわない。2)デカルトはこの「わたし」に消失的な性質を帰す。「われおもう、ゆえにわれあらず」。ラカンはしばしこれをフランス語の形態論によって説明しようと試み、c’est moi(≠je)、j’sais pas.(無音化)、 je ne sais.(ne は savoir にではなく je にかかる)……そこにはシニフィアンへの主体の関係が関与しているとほのめかす。

 

 分析家はヘーゲル的な絶対知という幻影(知の観念という物質化された虚無。それはあるしゅのSFである)にたいする警戒心が人一倍強い。

 

 デカルト的主題系が論理学的に正当化不可能であるとしても、それは非合理的ということではない。欲望は分節化された事実であるという理由によって分節化不可能であるが、だからといって非合理的でないのとおなじである。

 

 デカルト的懐疑は懐疑主義における懐疑とは異なる。デカルトによれば、懐疑主義的な懐疑は現実界のレベルでなされている。現実界を問いに付すことなくすべてを現実界の枠組みのなかで考えている。そこで問いに付されているのは感覚にすぎない。ヘーゲルの『精神現象学』(知のじぶんさがし)もこの枠組みを出ていない。

 

 しかるにデカルトは主体そのものを問いに付す。デカルト自身はそれを知らないが、そこで問題になっているのは「知を想定された主体」である。精神に可能なもののうちにみずからを認めることが問題なのではない。創設的な行為としての主体そのものが問題なのだ。デカルトの常軌を逸した歩みは「行為への移行」である。

 

 つまりコギトは思考の外へと踏み出し、思考の外部にみずからの立脚点を仰ぐ。かくしてデカルトは神の存在証明へと赴く。そこで導入されるのはいっさいの真理を保証する神である。つまり、神がそう「望めば」(ことは欲望にかかわっている)真理が別様であり得たような神。いっさいの思考(シニフィアン連鎖)をその外部から支えるこの一点をラカンは唯一の痕跡(線 trait unaire)と呼ぶだろう。

 

 消失する主体についてのデカルト的経験の限界においてみいだされるのはこのような保証の必要性だ。それは「もっとも単純な構造の trait」である。それは絶対的に非人格化されたものであり、いっさいの主観的な内容をともなわないばかりか、一なるものであることいがいのいっさいの属性を欠いている。

 

 これこそ自我理想の内実である。伝統的な哲学における理想化された主体にこのような「理想」の機能をとって代えること。根源的なシニフィアンへの主体の原初的同一化。それはプロティノス的な一者とはちがう。唯一の痕跡そのものである。そこに知らないものとしての主体が基づく。

 

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962)

 

 ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。複数の受講者のノートを照合して作成された Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。

 

 第1講(15/11/1961)

 

 これまでの八つのセミネールにおいては主体というテーマとシニフィアンというテーマが「拍動のごとくに」隔年で交互に扱われていた。本セミネールにおいてはシニフィアンにたいする主体の関係がテーマとなる。

 

 同一化というテーマに着手するにあたり、同一である(A=A)とはなにかが問われる。AがAであるのなら、なぜわざわざ分離してA=Aという命題を立てるひつようがあるのか?

 

 論理実証主義においてこれは意味をもたない命題として排除される。一方、ラカンパロールの経験からアプローチしようとする。

 

 自己(moi)の観念は語源的にも同一性(même)を示している(mihilisme)。ここでデカルトのコギトにおける「われ」が召喚される。コギトにおいては存在が主体に内在的であると考えられている。現代哲学はその乗り越えを図っている。デカルトのテクストにおいてコギトはじっさいにはわれわれがおもっているいじょうにfluent でありglissantでありvacillantであって、入り組んでいる。

 

 「伝統的な哲学における主体の観念を支えているのはシニフィアンの実在とその諸効果だけである」。「思考」もまたしかり。

 

 「私とはだれか?」という問題には無意識がかかわっている。

 

 問題は真理ということである。ラカンのある患者はラカンがなぜほんとうのことについてのほんとうのこと(le vrai sur le vrai)を言ってくれないのかという夢を見た。ほんとうの真理(vraie vérité)を期待するなど子供の態度だと言って済ますことはできない。ほんとうの真理はひとつの意味をもつから。精神分析の信憑性はもっぱらこの意味にかかっている。精神分析はほんとうの真理をもたらすものとして世に出た。

 

 分析家の言説のほんとうの真理はどこにあるのかと人は問う。哲学者にたいしてはこのことは問われない。たとえば哲学者(デカルト)は神に不確実な信仰しかもっていないとされるから。

 

 哲学者の信憑性を保証してきたのは二重の真理だ。真理という厄介な問題を持ち出したのは精神分析自身であり自業自得ではあるが……。

 

 コギトにおける主体の同一性の諸関係が検討される。デカルトを乗り越えることが問題ではなく、デカルトが突き当たった隘路から最大限のものを引き出すことが問題なのだ。

 

 コギトはマラルメの摩滅した硬貨のごときものだ。われわれの用に供すべくこれを復元しよう。「われおもうゆえにわれあり」の「われおもう」は思考ではない。

 

 思考は思考についての思考を前提しない。思考は無意識において始まる。

 

 思考は縮小された行為であるとする心理学的説明がある。フロイトもどこかで言っている。思考は自足的な自慰的満足であると(フロイトにはなんでも書いてある)。

 

 「われおもう」というパロールは「われあり」という現前を支えるにじゅうぶんであろうか。

 

 「われおもう」は「私は嘘をついている」と同じくらい論理学的に空虚である。「私は嘘をついている」と言う人は嘘をついていない。とはいえそのように言うことでぎゃくのことを述べているのであってみれば立派に嘘をついている(エピメニデスのアポリア)。

 

 この論理的アポリアはこの言述がそれじたいを対象としているという判断から生じる。そこでは[言表と言表行為の]二つのレベルの区別がなされていない。

 

 全称肯定命題(「すべてのクレタ人は嘘つきである」)の批判として存在否定命題(「嘘をつかないクレタ人は存在しない」)と同じであるというものがある。エピメニデスの言述のいみは、自慢ないしは警告である。

 

 全称肯定命題にはこのような斜に構えた意図がある。アリストテレスの「ソクラテスは死ぬべき運命にある」は解釈の機能について考えさせる。

 

 生身の人間ソクラテスの死はプラトンによる転移が蘇らせるその名声の不死を意味する。また、この言述は死への欲望(acting out)によって定義されるソクラテスの atopie を指しているともとれる。

 

 アリストテレスはこの言述によって知の発展にとっての障害となる転移を厄介払いしようとしていると解釈することもできる。しかしそのためにはプラトン以上の欲望の変形が必要である。近代科学は超プラトン主義から生まれたのであって、アリストテレス的な知の機能に回帰することによってではない。

 

 近代科学の誕生は神々の第二の死を必要とした。ルネサンスにおいて神々の亡霊が蘇り、<御言葉>がその真なる真理をわれわれに示したのだ。その真なる真理が追い払うのは幻影ではなく近代科学の揺籃である意味の闇である。

 

 「われおもう」は判断の意志的な次元を示す。コギトが「わたしは嘘をついている」のようなパラドクスに陥るのは言表と言表行為を混同しているかぎりにおいてだ。真理とはその本質からして彷徨っている

 

 「われおもうとわれおもう」とはドクサでありイマジネールな思考である。「かのじょがわたしを愛しているとわたしはおもう」があてにならないのは周知のとおり。デカルトにおいて「われおもう」はイマジネールであり、それはいかなるものの支えにもならない。

 

 「わたしは考える存在である」も私の実在を導かない。「わたしはいっこの存在である」は、おそらくわたしが存在するために本質的な存在であるということをいみしているだけだ。

 

 「私はわたしがかんがえている[嘘をついている]と知っている」。あるしゅの現象学における主体の観念を支えているのはこれである。精神分析はこの先入観を転覆させる。このような哲学のリミットの彼岸に無意識がある。

 

 コギトに発する哲学的問いにおいては唯一の主体があるだけだ。すなわち「知を想定された主体」である。

 

 ヘーゲル的な現象学においてこのような知を想定された主体は共時的な価値をもつ。絶対知へと導くとされている通時態を構造のひとつの結び目がシャットアウトする。「想定(subjicere)された知」をいかなる主体にも帰してはならない。知は間主観(間主体)的である。<他者>の知であるといういみでそうなのだ。<他者>は主体ではなく場所である。アリストテレス以来、そこに主体のもろもろの権能が転移されるべき場所である。絶対知は主体の知ではなく全知の<他者>の知であるかぎりで存在する。とはいえ<他者>は主体以上に知らないのだ。<他者>は主体ではないという理由によって。

 

 <他者>は知のこのような想定の諸々の表象代表のゴミ捨て場(dépotoire)だ。それが無意識とよばれる。主体は知のこのような想定において喪失される。

 

 主体はそれと知ることなくそれ(ça)をひきずっている。çaとは主体の現実がこれによって苦しむものから主体へともどってくる屑(débris)である。「まさにこれだ(c’est bien ça)」。あるいは「ぜんぜんこれ(ça)じゃない」。実はそれがまさにこれ(ça)なのであるが。

 

 次回はデカルトにおける主体の機能とその精神分析における反響が考察されるだろう。

 

 

ラカン対エリアーデ:「象徴およびその宗教的機能について」(1954年)

*「象徴およびその宗教的機能について」(Du symbole, et de sa fonction religieuse, in Le mythe individuel du névrosé, Seuil, 2007)

 

 1954年、宗教心理学会議におけるミルチャ・エリアーデとの討論。ラカンは十字架のヨハネ(saint Jean de la Croix)の『暗い夜』に言及しつつ、ヨハネ的な象徴が言語であり、その神秘主義が象徴的な次元にあることを一貫して主張している。

 言語は関係論的かつ普遍的である。関係論的であるかぎりにおいて「数は典型的な象徴である」。普遍的(universel)とは、ひとつの宇宙(univers)をなすということである。象徴は単独では存在しない。「夜」はすでに「昼」を前提する。

 パロール以前には「世界」はない。人間と現実界との共-生性(co-naturalité)。「自然」はパロールという行為(action)によってもたらされ、パロール以前には存在しない。

 言語は意味(文法)と形式(語の使用)とによって重層決定されており、重層決定されているものはすべからく言語である。

 十字架のヨハネが「水」と言い、「父」と「子」というとき、これらの語は象徴的に使用されている。「いぬ座は地上の犬と同じように犬である」が、物質的な同一性をいみしない。ここがフロイトユングを分かつ最大の分岐点でもある。

 十字架のヨハネの時代(16世紀)に自我が神学に導入された。フェヌロンが神を口にするとき、その対極に自我が想定されている。一方、神秘主義はいっさいの利己主義(amour-propre)の情念の消滅を前提する。そこでは実存の統一性(unicité)、つまり「存在」が問題になっている。存在は「パロールの支持体」としての「人間」に還元されない。存在はパロールの次元をはみ出す。十字架のヨハネの「至高存在」は象徴を逃れる象徴である。

 エリアーデはイマージュを象徴とみなしている。たとえば螺旋は生成の象徴である。それゆえラカンが象徴を言語に帰すことを危険視する。ラカンによれば、重要なのはむしろ言語と存在のズレである。イマージュの世界は象徴的に使用されるときにおいてのみ意味をもつ。エリアーデが象徴を前言語的な(pré-langage)レベルにあるとしていることは、すくなくとも象徴を言語の一段階と捉えている点において評価される。

 

 

メルロ=ポンティ追悼:「モーリス・メルロ=ポンティ」

*「モーリス・メルロ=ポンティ」(Maurice Merleau-Ponty, in L’Autres écrits, Seuil, 2001)

 

 初出は『レ・タン・モデルヌ』(1961年、184/5号)。のちに『続・エクリ』に収録された。

 『エピステーメー』(朝日出版社ラカン特集に邦訳があるほか、向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイト上で閲覧できる。

 

 盟友メルロ=ポンティについてはその死去の翌週のセミネール冒頭においてオマージュが捧げられている。これについてはすでに触れた。

 

 ガリレオからフロイトへといたるシニフィアン的な「理性」に照らして知覚理論の限界が指摘される。初期のポンティは思弁的な実存の観念を退け、実存を身体というフィルターにかけることで反省以前の「現象の根源における現前の純粋さ」に至れるとかんがえていた。ポンティはこのフィルターが一元的なものであるとの信念(「共感覚」)を抱いていたが、ラカンはそれに疑義を投げかける。また、ポンティは現象がつねにすでに構造(ゲシュタルト)化されて生起するとしつつも、この作用そのもののうちに主体のあらわれをみてとらず、これを主体と対立させた。

 

 セミネール第1巻において、ラカンサルトルの対自存在が想像的な類似存在との関係にすぎないと批判していた(その一方で、サディズムマゾヒズムが契約関係、つまり象徴的な契機に支えられているとの見解が評価されてもいた)。『知覚の現象学』の「性的存在としての身体」のパートにおいて、ポンティは眼差しを介したサルトル的な対他関係を「身体と身体との直接的開示」によって乗り越えようとしているが、サルトルどうよう「性的存在のシニフィアン」たるファルスを無視しており、それゆえフェティシズムも去勢複合も視野に入ってこない。ファルスはそれが作用しないところにしかあらわれないという点において「現象」のレベルでとらえることができないものだ。

 

 つづく「言語(パロール)における表現としての身体」のパートにおいては、言語に「思考」(あるいは意味)が内在していないとされるが、「主体」が言語に従属するという観点には至っていない。ポンティはサルトル的な自我の超越を批判しつつも、主体の消失という認識にはついに至らない。同セクションの「命名」と「身振り」についてもポンティとラカンは立場を異にする。ポンティはいわば主体の鏡としてのサルトル的な他者の眼差しを他者の身振り(身体)にとって代えているのだといえるだろうが、ラカンによれば命名も身振りもシニフィアンの機能そのものを一回的に作動させる契機であり、個々の事物のそれではない(身振りが「了解される」とのことばづかいもラカンの気に染まなかったことであろう)。

 

 『知覚の現象学』においてはある心理学的実験が事例として挙げられている。暗室に差すスポットライトの光の輪とぴったり重ねて置かれた白い円盤が、白い紙と並べることでじっさいには黒かったことがわかるというものだ。この実験においては知覚する主体と知覚される対象の二者関係に焦点があてられているが、ラカンによればポンティはそこで光という<他者>の存在を見逃している。白と黒を対照させるのはシニフィアンの作用であり、それゆえ知覚の主体はそこでは消失している。

 

 さいわいなことに、『眼と精神』(および『見えるものと見えないもの』)の絵画論において、ポンティは知覚という枠組みを踏み出て「見えないもの」への探求に乗り出した。絵画における幻影がシニフィアンの機能に帰されることを精神分析家らに先んじて指摘し、そこに欲望の関与をみてとっている。そしてここにおいてポンティはくだんの「光」を再発見する(しかも神学的なコノテーションなしに)。「目は見ないためにできている」。『未来のイヴ』の欲望は、盲目であることによってではなしに、すべてを見ずにはいないことによって消滅する。かくして、いわばプシシェ~パンセ・ドゥ・クーフォンテーヌ~イヴというひとつの系譜が打ち立てられる。

 

 ポンティの影響はこのあとさらに『精神分析の対象』および『精神分析の四基本概念』において確認されるだろう。

 

 

精神分析的宴:セミネール『転移』

*『その主体の不均衡、そのいわゆる状況、およびその技法の展望からみた転移』(1960-1961)(Le Seminaire livre VIII :  Le transfert, Seuil, 1991)

 

 ほんらいのタイトルは、Le transfert, dans sa disparité subjective, sa prétendue situation, ses excursions techniques だが、Seuil 版には『転移』という恣意的に簡略なタイトルが付されている。

 

 これはミレール版の刊行から間を措かずに出版された膨大な正誤表 Le transfert dans tous ses erratas (E.P.E.L.)でも批判の対象とされていた。

 

 ミレールが『転移』のヴァージョンアップ版を公にしたのはそれに十年おくれてのことである。

 

 タイトルにいう「不均衡」とは、転移における分析家と患者の関係が非対称的であることをいみしており、それまでの転移をめぐる言説の前提への疑義がこめられている。

 

 前半のかなりのぶぶんがプラトンの『饗宴』への衒学的な注釈についやされる。

 

 「分析の先駆」(「フロイト的無意識における主体のくつがえしと欲望の弁証法」)たるソクラテスが導入した「エピステーメ」とは、いっさいをシニフィアンの秩序にゆだねることである。それによってソクラテスは知を無意識へと追放した。

 

 言説が真理の次元をうみだすのであり、そのぎゃくではない。ことばへの全権委任においてソクラテスキリスト教はつうじあう。

 

 『第七書簡』においてくしくもソクラテス的問答法が「もの(τὸ  πρᾶγμα)」をめぐっているとのべたプラトンフロイトの認識をさきどりしている。

 

 ソクラテスにおける死の欲望(コタール症候群の患者になぞらえられるのがゆかいだ)はシニフィアンの不滅性にこそ帰される。

 

 つまり、ソクラテス的主体の非在(a-topia)は欲望の純粋化(いっしゅのケノーシス)をいみする。

 

 それはたんなる職業倫理としての中立性とかストア派的な禁欲ではない。

 

 ソクラテスは発言にさいしてディオティマという“内なる女性”を召喚して主体の「分裂」を受け入れる。

 

 アリストファネスがかたる神話的なアンドロギュノスは完全な球体であり、これは想像界の充足性をあらわしている。

 

 アリストファネスはアンドロギュノスの腹部に男根をとりつけている。くしくもハンス少年がかれの「神話」においてしたのとおなじように。

 

 クローデルの<三部作>をもラカンはもじどおりの「神話」として分析している。

 

 ときあたかも『今日のトーテミズム』『野生の思考』が刊行されようとしていた時期である。

 

 ボロロ族のトーテムへの言及があり、サドの「野生の思索(réflexion)」が口にされる。

 

 フロイトが父のあらたな定義を提示しつつあったその同時代の作品であるという指摘をさしひくとしても、<三部作>がエディプスコンプレクスの戯画であるという観点じたいは凡庸である。

 

 これはいつぞやラカンじしんが揶揄していたデカダンス的なモダニティの定義に依拠している。

 

 「悲劇の死」なるおなじみの図式である。

 

 <三部作>注解の眼目はその「神話分析」的手法である。

 

 ラカンは<三部作>に『親族の基本構造』とおなじく“女性の交換”にもとづくひとつの構造をよみとっている。

 

 三つの世代のそれぞれにおいて、だれかがべつのだれかからその欲望をとりあげ、第三者へと贈与する。

 

 これは「去勢」そのものの定義でもある。

 

 もじどおり女性は市場でうりにだされ、せりにかけられる(金銭の流れと情動の流れのバルザック的なオーヴァーラップ)。

 

 第一世代においてはバディオンがシーニュをチュルリュールへと贈与する。

 

 第二世代においてはルミールがルイ(男性)をシシェルへと贈与する。

 

 第三世代においてはオリアンがパンセをオルソへと贈与する。

 

 これによって、[「否」という]シニフィアンの刻印によってじぶんじしんよりもたいせつなものを剥奪されたシーニュの犠牲(という価値もないそれ)が、弁証法的に第三世代において報われるといったキリスト教悲劇(ヘーゲル)のシナリオが完成する。

 

 法の樹立は法の創設者の記憶を消し去ることを条件とする。

 

 第二世代の「望まれない(non désiré)子」ルイの娘パンセにおいて「欲望」が復活する。

 

 そこにはルミールと、とりわけシシェルの女性の欲望が貢献している。

 

 「聖人」オリアンは享楽(jouissance もしくは joie)の所有にしがみついているだけである。

 

 しかり、聖人は享楽する。

 

 げんみつにいえば、享楽の使用ではなくその所有であろう。享楽は他者の享楽としてしかありえないから。

 

 享楽を「最大多数」なる他者(それはベンサム流の「フィクション」である)に帰した功利主義はまちがっていなかった。

 

 あるいは「カマキリの享楽」を想定することは許容される。倒錯が自然的であるという前提は措くとしても。カマキリはまた部分対象の普遍性にも示唆をあたえてくれる(ただしオスの頭部はメスカマキリにとってひとつの「全体」であることが示唆される)。

 

 聖人は「持てる者」であるからこそ、なにもあたえようとしない。

 

 しかるに愛とは、じぶんのもっていないものをあたえることである(ポトラッチとはちがう)。

 

 「アガトンよ、知というものが、満たされた盃から糸を伝って空の盃へと注がれる水のようなものであればどんなにかよかったろうね!」

 

 ソクラテスの真理はその無知にゆらいする。

 

 かれは恋についてなにもしらないからこそ恋のエキスパートたりうる。

 

 分析家の知しかり。分析家はくだんの盃の水のように患者に真実を授けるのではない。

 

 分析家は知を「想定」されたかぎりでの主体である(SsSという術語はまだつかわれていないが)。

 

 それはアガルマを内蔵すると想定されるシレノスの像にひとしい。

 

 しかり。クラインの考えとはことなり、分析家は対象(客体)ではなく、主体として転移に関与する。

 

 分析家とはなにか?

 

 分析家はこれまでつねに分析家ほんにんの実在に帰されてきたが、分析家とはひとつの「座」にすぎない。

 

 祈る者の立場がプリアモスを祈る者の典型たらしめるように、分析家はひとつのポジションにすぎない。

 

 たんなる「座」であるかぎりでそのじったいは空虚である。

 

 それはソクラテス的な非在(atopie)であり、いっしゅの“ケノーシス”である。

 

 転移の原動力はそのような純粋な空虚、すなわち分析家が体現する欲望である。

 

 そのかぎりで「分析家の欲望」が問題になる。

 

 転移の定義は、“分析家の欲望の対象たろうする者”を“みずから欲望する者”に「置き換える」ことである(それゆえひとつの「隠喩」である)。

 

 ディオティマによれば、神々はすでに知をもっているので知をもとめることはない。いっぽう無知な者はじぶんが知をもたないことを知らないので知をもとめない。

 

 エロスはその中間的存在(ダイモン)であるがゆえに知をもとめる。

 

 エロスが知をもとめるのは、知がもっともうつくしいものであるからだ。

 

 エロスの愛の神たるゆえんは、美をそなえているからではなく、美をもとめるがゆえである。

 

 かくして欲望は対象としてではなく、主体としてとらえかえされる、ということらしい。 

 

 

 分析家の欲望は、分析家の不安にかんけいしている(不安は待機 Erwartung を内包する)。

 

 分析において、分析家はじぶんの不安ではなく(それは Versagung の対象となる。この語は frustration と訳されるべきではない)、不安の「信号」をもたらす他者をあらわれさせなければならない。

 

 不安とはそもそも主体の内部にとどまる情動ではない。不安は「信号」であり、そのかぎりで他者にゆらいする。

 

 周知のとおり、不安は翌々年のセミネールのテーマとなるであろう。

 

 

 「8つの交点からなる最小限の構造」としての「欲望のグラフ」上に理想自我と自我理想の区別が確認される。

 

 さらに、おなじ区別を装置化した「倒立した花束」の図式(「ダニエル・ラガーシュ論」の刊行によってふたたび関心を喚起しつつあったようだ)が、エロスとプシュケーを描いたツッキのタブローにおいて“先取り”されていた(!)ことが指摘される。

 

 エロスの局部がマニエリスティックに描き込まれた花束によってこれみよがしに隠されているが、花束の背後にプシュケーがみようとするファルスはない(ファリックなのはむしろ刃物をふりかざしたプシュケーのほうである)。

 

 このタブローは精神(プシュケー)と欲望(エロス)のすれちがいを描いている。

 

 性的器官はシニフィアンに変換されて精神へともたらされる。シニフィアンに変換されるためには、現実的な器官は切り取られねばならない。

 

 かくしてひとがファルスを象徴的に見るところにファルスは現実的にはない。

 

  フェニシェルのいう Girl = phallus、あるいはハンスにおけるファルスの「取り外し可能性」はいずれもこのことをあらわしている。

 

 部分対象が全体性に還元されないことが再度確認され(哲学は部分対象を無視してきたと指弾される)、自我理想が「einziger Zug(唯一の線、特徴)」であるとの『群集心理学と自我の分析』の指摘に注意が促される。

 

 einzeiger Zug への「同一化」は翌年度のセミネールのテーマになるだろう。

 

 その「リビドー発達史試論」において喪が部分的な対象のとりこみであると指摘したとき、カール・アブラハムはすでにこのテーマを先取りしていた。

 

 エラ・シャープの症例においては「あれは犬だ」が einzeiger Zug にあたるらしい。

 

 パンセが盲目であるのはぐうぜんではない。かのじょは「みずからを見る(se voir)」という鏡像の無媒介性をのがれている。そのぶん、<他者>を媒介した「みずからのことばをきく(s’entendre)」。

 

 「人間はじぶんがみられていることをみてとるが、じぶんのことばがきかれていることをききとることはない」。じぶんのことばがきかれているのをききとるのは幻覚者だけである。

 

 パンセの「精神的盲目」が、プシュケー(精神)の“盲目”におくりかえされる。精神が視野をさえぎられているがゆえにパンセは欲望の具現となる。

 

 エロスのエロスたるゆえんは持てる者たる父ポロスではなく(ポロスはボアズとどうよう[父たることを]「知らなかった」男である)、持たざる母ペニアにゆらいする。

 

 自我をそれいじょう分析不可能な実体に帰して自我の同盟関係を治療の手段としたアンナ・フロイトとハルトマン一派が指弾され、ジョーンズ(「暗示の機能」)、ブーヴェ(「女性強迫神経症におけるペニス羨望の意識化の治療的波及効果」)、マニー=カイル(「正常な逆転移といくつかの逸脱」)、パウラ・ハイマン(「逆転移について」)、ナンバーグ(「転移の現実」)といった先行する仕事が俎上に載せられる。

 

 <三部作>注解のある回の冒頭で、死去したメルロ=ポンティへのオマージュが捧げられる。

 

 前年のセミネールにおいて「甘い生活」への言及が予想外に受けたせいか、ところどころで映画への小さな言及がある。フイヤード、フランジュ、ヒッチコックへの潜在的な参照に及ぶそれは、プラトンの洞窟への言及においてきわまる。

 

 岩波書店から刊行されている邦訳書はみたところいつもの誤植こそないが、訳語の不統一が気になる。