「精神分析はわれわれの時代の倫理たり得るか?」:ブリュッセル講演
*「精神分析の倫理ー精神分析はわれわれの時代が必要とする倫理たり得るか?」(Ethique de la psychanalyse ― La psychanalyse est-elle constituante pour une éthique qui serait celle que notre temps nécessite?)
1960年3月9日、ブリュッセルのサン・ルイ大学哲学・宗教学部で行われた二部構成の講演の第一部。ウィニコット宛書簡において言及されていたブリュッセル講演がこれ。時期的には『倫理』のセミネールのちょうど折り返し地点あたりで、同セミネール前半のダイジェスト的な内容。タイトルはジョエル・ドール作成の書誌(E.P.E.L., 1994)に拠る。
分析の経験は、哲学が現実を捉え損ねていることを教える。これが倫理へのアプローチへの出発点になる。ヘーゲルによれば現実的なものはすべて理性的である。しかるにその逆は真ではない。理性を用いる者たちは、現実的なものと理性的なものの一致を知らない。教師が教えるものは現実的であり、それゆえに効果をもつ。自我心理学には妥協とか社会的適応といった効果はある。しかしいわゆる効果に反比例して[性的]不能は深刻化する。人間は欲望をますます満たせなくなる。フロイトはここにひとつの真理をみてとった。欲望は単純なものではないということである。現代の分析家たちは欲望の重要性を捉え損ねている。フロイトは欲望を倫理[学]の新たな対象と位置づける。そのこころは以下のとおり。フロイト的無意識に固有な性質は翻訳可能であることだ。翻訳不可能な地点、すなわち症状の根源的なある一点においてさえ翻訳可能だ。解読されないものは解読可能である。すなわち無意識において翻訳されるものの機能をおびることによって表象される。翻訳されるものとはシニフィアンである。シニフィアンの二つの特性は置き換え可能であること(共時性)と連鎖をなすこと(通時性)である。シニフィアンのもっとも純粋な例は文字である。文字は一つだけではなにもいみしない。文字(または単語)の定義は一連の使用(emploi)によってしか効果をもたない。文字は既成の使用を変更することによってしか意味をなさない。あらゆる意味作用は既成の意味作用を分有する(換喩)。一方、新たな意味作用はシニフィアンの置き換えによって生まれる(隠喩)。かくして無意識はディスクールである。ディスクールとは、ランガージュの諸構造のある一定の使用(usage)のことである。とはいえそこに欲望がダイレクトに読みとれるというわけではない。無意識的欲望とは無意識のディスクールを担う者(=主体)が望むものである。その者は真理をいうことを強いられない。話すという事実そのものが嘘をつかせる。無意識的欲望はものじたい(chose en soi)とおなじく知り得ないが、ディスクールの連鎖というすぐれて「対自」(pour soi)であるものの構造をなす。親密なものの最極端(extrême de l’intime)にして排除された内部性(internité exclue)は哲学よりも精神分析になじみの領域である。神秘主義と異端の伝統に揺さぶられてきたベルギーにおけるような分裂がそこにあるのだ。パウロの書簡は真理の領域におけるこのような分裂を照らし出す。信仰は知を排除しない。信仰で問題になっているのはひとつの知である。「法は罪であるか?否。しかし法によらずして私は罪を知ることはない……」(ローマ書簡)。
フロイトはマテリアリスト(実利主義者)であったが功利主義に訴えなった。功利性は貪欲な法が課す享楽の不満足という道徳とは無関係である。こうした法の起源をフロイトはゲーテに倣って過去の重大な出来事の痕跡に見出そうとした。しかし個体発生は系統発生をくりかえすというときの「個体(onto-)」が曲者である。問題は個人としての存在者ではなく、存在への主体の関係である。この関係はディスクールによって形成されている。人類史のある時点でこの関係が変容を遂げたのだ。フロイト自身に獲得形質の遺伝をほのめかすくだりがあるとはいえ、フロイトが参照しているのは発生学ではなく、ディスクールにおいて主体を基礎づける伝統、つまりユダヤ=キリスト教的な一神教の伝統である(父の名)。『モーセと一神教』においてフロイトはみずからをモーセになぞらえたと言われている。しかしフロイトは家庭生活においては父親的ではなく、もっぱら分析家の集団(horde)においてエディプス的ドラマを生きたにすぎない。フロイトはむしろ<知性=母>、言い換えれば、<フロイト的もの>(la Chose freudienne)であった。<フロイト的もの>とはまずもってフロイトの<もの>、すなわち無意識的欲望の中心にあるものだ。『トーテムとタブー』における恐怖症的対象の考察がフロイトに父の機能を発見させた。この父の機能が欲望の全能(「思考の全能」というべきではない)を断念させる。父が禁止の機能を担えるのは、この父が死んだ父であり、かつじぶんが死んでいることを知らない父であるかぎりにおいてである。神が死んだ(それゆえすべてが許されている)と信じている現代人にたいしてフロイトは「神は死んだ。もはやなにひとつ許されていない」という事実をつきつける。エディプス複合の終焉は父の喪であり、これに際して愛されざる父への同一化(超自我)が起こる。神経症の構造は、法の場(lieu)であり座(siège)である父という象徴的な審級の逸脱、欠陥の名残(déchet)に由来している。これに現実的父(≠象徴的父)の影響が与っていることにフロイトは気づいていたが、現代の精神分析においては無視されている。フロイトは宗教性を倫理の核心に置いた。フロイトの弟子らは神々に欲望の隠喩を見出したが、フロイトは一神教における不可視なものの優位(ロゴス)、信と法とにしか基づかない(それゆえ霊的なものである)父性に欲望の起源をみた。人間を重層決定するロゴスは上部構造ではなく下部構造である。フロイトはヒューマニストでも進歩主義者でもなかった。それゆえにブルジョワ的な倫理を乗り越えた。道徳的秩序と国家への忠誠にほかならない共産圏の倫理をも含めて。古代的倫理の構成要素である至高善と誠実さと効用のいずれをもフロイトは退けた。快は善でも悪でもない。精神分析は現代における誠実さの希望(ユング)ではありえない。フロイトの教えは、罪悪感が無意識的なもので、それは根源的な犯罪に由来し、それをいかなる個人も贖えないということである。理性は人間の内奥に住まう。欲望そのものは分節不可能であるが、分節言語のなかに現れる(le désir est à l’échelle de langage articulé)。理性とは論理学的な整合性と考えられている。フロイトは無意識には否定がないと述べているが、一方で否定は無意識に由来するともしている。すなわち虚辞の ne に欲望が刻印されるのだ。欲望とその法則(règle)が結びつく「真理の結び目」がエスであるが、そこは存在者的な実体性ではなく存在欠如をその性質とする。
サントロペより永遠に:ウィニコット宛書簡
*ドナルド・ウッズ・ウィニコット宛書簡(1960年8月5日付)
2月に受け取っていた手紙への返事が遅れたこと、および主幹を務める「精神分析」に掲載の「移行対象」論文の著者名のスペルミス(tが一つ脱落)を詫びたあと、ロンドン・ソサイエティーでの講演の依頼にたいして多忙を理由に断りの返事をしている。3月にブリュッセルで行われた二度の講演(「精神分析はわれわれの時代が必要としている倫理のひとつであるか」)、「倫理」のセミネール(野心的な主題が自画自賛される)と旺盛な活動の一端が報告される。ジョーンズ追悼論文が理解できないとのウィニコットの言葉に遺憾の意が表明され(「理解し合える点が多いと感じていたあなたからそのような言葉を聞くとは……」)、論文のポイントが懇切丁寧に箇条書きされる。ジョーンズの失敗は教訓的である。ジョーンズはファルス的象徴の概念を先取りしていながら、じぶんではそれに気づいていなかった。シニフィアンと現実界の関係についてのラカンの考えを理解している者にはそれがわかるはずだとして論文の一節が引かれる。「思考と現実界の関係はシニフィアンとシニフィエの関係とは異なる。思考にたいする現実界の優位はシニフィアンのシニフィエにたいする関係においては逆転している」。アファニシスおよび剥奪(privation)の概念もラカンのセミネールに多くのものをもたらしたとされ、ジョーンズの洞察があらためて讃えられる。象徴理論を主題に選んだのにはセミネール出席者への啓蒙といういみもあった。セミネールの開講以来、ラカンのテクストはすべて教育の場を源泉としている。要求と欲望の区別を明らかにした「治療の方向づけ」しかり(The rules of the Cure and the lures of its power なるタイトル英訳が記されている)。「移行対象」概念にも必要性と欲望の区別を理解させる教育的効果があった。そろそろ業績を一冊の著作にまとめるべきときだとかんじている。アムステルダムで催す会合は女性のセクシュアリティがテーマになる。ジョーンズ以来ないがしろにされてきたいまひとつのテーマである。義理の娘ロランスが政治活動で逮捕、釈放される。同居中の甥もこのほどアルジェリア反戦活動で懲役判決を受けた。
科学モドキの洪水:「主体の隠喩」
*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966)
法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。
隠喩と無意識との関係を見て取っていたとしてラカンはぺレルマンを高く評価していた。ペレルマンは隠喩をイマージュに還元しない。ラカンはペレルマンが隠喩を(三つではなく)四つの項の関係としてとらえていることを評価する。父性隠喩もまた四つの項を関係づけている。ペレルマンは「譬えるもの(phore)」(シニフィアン)と「譬えられるもの(thème)」(シニフィエ)からなる二組のペアの「類比」として隠喩を捉えているようであるが、ラカンは隠喩を構成する四項を一つのシニフィエと三つのシニフィアンに振り分けるべきだとする。ラカンはペレルマンがバークレーから引いている「科学もどきの海」(a ocean of false learning)というフレーズを「海」「科学」「もどき」「x」の四項に分解したうえで、父性隠喩の式に当てはめ、絵解きしてみせる。波の寄せ返しと大聖堂の鐘の音(lear-ning, lear-ning…)の音素的交代という共通点が強引に読み込まれ、隠喩において問題になるのがイマージュではなくシニフィアンであることの傍証とされる。この隠喩において生産される新たな意味作用(x)は「もどき」としての想像界というそれであるらしい。
このあと幼い「鼠男」の名高い呪詛(「おまえなんかランプだ、ハンカチだ……」)が召喚され、隠喩が呪詛に発していることがほのめかされたかとおもうと、同時期のセミネール『欲望とその解釈』で論じられた「犬はニャーと鳴き、猫はワンと鳴く」に立ちもどり、いっさいの言語活動を支えるノンサンスが確認され、ふたたびペレルマンがこんどはアリストテレスから借りたとおぼしき「人生の暮れ方」(=老年)という隠喩に寄り道したあと、さいごはお得意の「眠れるブーズ」(束=ファルス)で終わる。
幕切れの一句は『四基本概念』におけるアリストテレスの参照を予告している。
「唯一の絶対的な言表はその筋の人によって(par qui de droit)発された。すなわち、シニフィアンにおけるいかなる賽の一振りも偶然を廃棄することはない。その理由は、いかなる偶然も言語の(による)決定においてしか存在せず、それは自動運動(automatisme)とか偶然の出会い(rencontre)とも呼ばれている」。
壁に向かって語る:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(了)
823頁4段落目~
ファルスのイマージュ(ーφ)は象徴的ファルス(Φ)へと「肯定化され」(positiver)、ある欠如を満たす。(-1)の支えでありつつ、(ーφ)は否定化不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンとなる。女性も倒錯もここから説明可能。
倒錯においては抹消された<他者>(A barré)に対象aが置き換えられる。幻想において主体は<他者>の享楽の道具である(S barré ◇ a)。
神経症においてもこの公式は歪められてたかたちで適用される。
神経症者は<他者>の欠如(Φ)を<他者>の要求(D)と同一視する。
それゆえ<他者>の要求が神経症者の幻想において対象の機能を帯びる(S barré ◇ D)。
しかし神経症者による要求の優位(それは治療を欲求不満の操作に逸脱させた)は、恐怖症においては<他者>の欲望への不安を隠しており、その不安は恐怖症的対象によってしかカバーできない。恐怖症は<他者>の欲望を幻想に織り上げる。強迫症者は主体の消失によって不可能な幻想を織り上げ、<他者>の欲望を否定する。ヒステリーは欲望を満たされないものとして維持することで、<他者>の欲望の対象になることを逃れる。
この特徴は、強迫症者においては<他者>の保証人となる必要性によって確証され、ヒステリーにおいてはそのシナリオの<誠意のなさ>(Sans-Foi)という側面によって確証される。
理想的な<父>は神経症者の幻想である。<父>の機能は欲望と法を対立させるのではなく結びつける。
神経症者の望む父は死んだ父であり、同時にかれの欲望の主人であるような父である。
分析家はこの罠にはまってはならない。
ヒステリー者にたいしては解釈よりも分析家の「中立性」をコントロールすることが重要である。分析家の欲望の関与を悟らせるためである。
幻想において倒錯者はみずからの享楽を保証するためにじぶんが<他者>であると想像する。神経症者は<他者>を保証するためにじぶんを倒錯者であると想像する。
神経症におけるいわゆる倒錯のいみがこれによってわかる。倒錯は神経症者の無意識において<他者>の幻想としてある。とはいえこれは、倒錯者においては無意識が剥き出しになっているということではない。倒錯者もまた欲望においてじぶんなりにみずからを防衛している。というのも欲望はひとつの防衛であるから。すなわち享楽におけるある限界を超えることの禁止(défense)である。
幻想(S barré ◇ a)は去勢の想像的機能(ーφ)を内包する。それは隠されたかたちで、ひとつの項から別の項へと反転可能なかたちで内包されている。複素数のように、幻想は一方の項を他方に関して交互に想像化する。
対象aに含まれているのはアガルマである。アルキビアデスはそのなかに宝があるとおもっているが、その宝にはマイナスの記号が付されている。それが主体の分割をもたらす。
ヴェールの背後の女性しかり。女性をファルス(欲望の対象)にするのは男根の不在である。
アルキビアデスは欲望の対象を去勢されたものとして示しつつ、アガトンにたいして、じぶんが欲望する者であるとみせかける(parader)。「分析の先駆」たるソクラテスはアガトンを転移の対象として名指す。分析的状況における愛憎の効果は[双数的関係の]外部に見出される。
アルキビアデスはすぐれて欲望する者であるかぎりで神経症者ではない。かれは享楽を可能なかぎり追い求める。
しかしソクラテスを完璧な<主人>という理想のうちに投影した。想像化された(ーφ)によって。
神経症者において、(ーφ)は幻想の抹消されたSの下に滑り込み、神経症者にとくゆうの自我という想像を作り上げる。神経症者は最初に想像的去勢を被っており、それがこの強大な自我を支えている。この自我はあまりに強大なので、かれの固有名は消え去り、神経症者はひとりの<名前のない人>(Sans-Nom)である。
自我の下に神経症者はみずからの否定する去勢を覆い隠している。
とはいえ神経症者はその去勢にこだわる。
神経症者が望まず、分析の終了までかたくなにこばむのは、みずからの去勢を<他者>の享楽の犠牲に捧げることだ。
かれはまちがっていない。なぜなら、じぶんの存在がむなしい(存在<欠如>もしくは<よけいもの>)とかんじていながら、なぜ神経症者はじぶんのちがい(différence)を、存在してもいないひとりの<他者>の享楽に捧げようとするだろうか。かりに存在するとしたら、<他者>はそれを享楽するであろうが。神経症者が望まないのはそのことだ。神経症者は<他者>がかれの去勢を要求しているとおもっているのだ。
分析的経験が証すのは、去勢は欲望を規制する(抑える)ものであることだ。
S barré から a へと幻想のなかで揺れ動くことを条件に、去勢は幻想をしなやかであると同時に伸縮しない鎖にする。それによって対象備給の中止は<他者>の享楽を保証するという超越論的な機能をもつ。この機能が<法>においてこの鎖を投げてよこす。
この<他者>にほんとうに対峙しようとする者にたいして、要求ではなく意志を試す道(voie)が開かれる。もしくは対象として自己実現する道、仏教の通過儀礼によってミイラになる道、もしくは<他者>に刻み込まれた去勢の意志を満足させる道が。それは失われた<大義>の至高の自己愛に到達する(ギリシャ悲劇、クローデルはそれを絶望のキリスト教において再発見する)。
去勢とは、享楽が拒まれなければならないことをいみする。享楽が欲望の<法>に反転することによって達せられるべく……。
『エクリ』刊行時に付された跋によれば、聴衆から「人間味に欠ける」(ahumain。inhumain のユーフォリズム)との評が出たという。
聞き手を度外視するような口調は黙々と筆記するだけしか能のない聴衆への信頼ゆえかと仲間の一人に問われたラカンは、「あらゆる言説が無意識の効果をもつことを知っている者にとっては信頼は必要ない」とうそぶいたとか。
欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)
809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。
不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「自己意識」の誤りをヘーゲルは示している。
主と奴の想像的な関係。
奴の隷属はヘーゲルが知らなかった人間の早産性の神話的表現か?
死を賭け金とした主と奴の闘争はパスカルの賭けよりも「誠実」である。奴が奴であるためには敗北者は死んではならない。それゆえ勝利者(殺害者)は絶対的主人とはいえない。想像的な暴力(攻撃性)は象徴的な契約に支えられているのだ。
生がもたらす死ではなく、生をもたらす死である死。脚注ではサドの「第二の死」に言及される。
理性の狡知という考えによれば、奴は死を恐れて労働に従事することで享楽を放棄する。これは最大の政治的・心理的ごまかしである。奴にとっては隷属的な労働に従事したまま享楽を得ることは容易であるから。
理性の狡知が強迫神経症者の個人的神話になぞらえられる。その構造は[左翼]知識人に顕著。
欲望は構造的であり、偶然(外傷)に依存しない。
エディプス複合は父の神話に依拠している。
それは現実的な父ではなく死んだ父、父の名である。
813頁4段落目から向井氏の注釈が再開され、それは819頁6段落目途中で終わっている。そこからおしまいまでのアウトラインが以下。
コギトにおいて「存在」は永久に「思考」の手をすり抜ける。
<私>は「宇宙は純粋な<非在>(Non-Etre)におけるひとつの欠如(défaut)である」との声が響いてくる場所に「いる」。この場所に身を置くことは<存在>そのものを衰弱させる。この場所は<享楽>と呼ばれる。享楽の「欠如」が宇宙を虚(vain)となす。
享楽の不在(manque)によって<他者>は一貫性のないものである。享楽は私の享楽なのだろうか?日常的には享楽は私に禁じられている。それは<他者>なるものの欠損=過失(faute)ゆえである。<他者>は存在しないので、<私>がその「過失」を負う。原罪の信仰がここに生まれる。
去勢複合はこれと別ものではない。去勢複合は主体の構造の「余白」ゆえに弁証法を作動させる。
その余白をうめる要素が数学的アルゴリズムの「流用」によって√-1と表記される。それはゼロ記号の効果(マナ)ではなくゼロ記号の欠如のシニフィアンである。
享楽は語る者にたいしては禁じられている。享楽は<法>の主体である誰にたいしても行間にしか告げられない。<法>はこの禁止そのものに基づいているから。
法は「享楽せよ(Jouis)」と命ずる。それに主体は「しかと聞いた(J’ouïs)」とこたえるほかない。享楽は言外に聞かれる(sous-entendu)ことしかできない。
しかし主体を享楽に至らせないのは<法>そのものではない。享楽に限界を設けるのは快原則である。
無限の享楽を禁じる犠牲となるのがファルス。
ファルスが犠牲に選ばれるのがなぜかといえば、男根のイマージュとしてのファルスはその鏡像においてそれがあるところにおいて否定化(négativer)されるから。それゆえファルスは欲望の弁証法において享楽を具体化する(donner corps)。
ファルスの象徴的な原則と想像的な機能とを区別すべし。
想像的機能は自己愛的な対象への備給を促す。鏡像はリビドーを身体から対象へと向け変える運河である。しかしファルスだけがその「突起」ゆえにこの運河を通れない。対象の世界から排除されたファルスは諸対象の鏡像あるいはプロトタイプとなる。
それゆえファルスという勃起性の器官が享楽の場を象徴[化]する。そのものとしてではなく、イマージュとしてでもなく、望まれたイマージュに欠けている部分として(√-1)。
かくしてファルスは享楽の禁止を打ち立てる(nouer)。享楽を自体愛の短さに縮減してしまうことによって。現実的な男根に享楽は欠けている……。
続きは次号。
絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)
つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り」ないし l’inter-dit と形容される。
分析のセッションは虚偽の言説の中断として遂行される。言説はパロールが汲み尽くされるところに実現される。「沈黙のうちに」手から手へと渡ることで表面が摩滅するマラルメの硬貨さながらに。
「シニフィアン連鎖のこの切断だけが、主体の構造を現実界における不連続点として確認する」。言語学においてはシニフィアンはシニフィエの決定因であるが、分析においては、意味の諸々の穴を言説の決定因とする両者の関係から真理が生まれる。
Wo Es war, soll Ich werden. が引き合いに出される。これを là où ce fut と単純過去で訳すべきではない。この時点でエスはなくなってはいないのだから。消え去りつつあるものと到来しつつあるものがぶつかる(achopper)一瞬に「私」の存在が「痕跡」として生じる。
そこにおける半過去が「じぶんが死んでいることを知らなかった父の夢」の半過去(il ne savait pas)に送り返される。父がいつなんどき[息子によって向けられた殺意を]知ってしまったら、「私」(息子)は[この世から]消えさらねばならぬのだ。
「私」(主体)は非-存在者の存在として到来する。この夢において実質的な存在は「知」によって廃棄され、言説を支えているのは「死」なのだ。
知る途上にあるこの父親が、絶対知への途上にあるヘーゲル的主体に送付される。ヘーゲルは絶対知を終末論的な狂気の沙汰として描き出す。分析は絶対知の真理をその虚しさにみることで狂気を乗り越える。
主体と真理の関係において、ヘーゲル主義とフロイト主義のあいだには断絶がある。
両者において欲望の弁証法は別の様式をとる。
ヘーゲルにあって主体は欲望によって過去の知識と繋がっているので、真理は知の実現にたいして内在的である。主体はじぶんの欲しているものを知っている(理性の狡知)。
真理と知のこのつなぎ目をフロイトはずらす(楕円運動 révolution にゆだねる)。
フロイトにおいて欲望は<他者>の欲望に繋がっており、ここに知への欲望が萌す。
それは死の本能と関係がある。
死の本能における無機物への回帰とは、「生を越えた余白」としての主体の存在あるいは身体を示す比喩である。フロイトの生物学主義とは(対象関係論が前提しているような)現実的な身体を指していない。
本能はいっしゅの知識(connaissance)であるが、それは知(savoir)ではない。フロイトにおいてはひとつの知であるが、そこにはいかなる知識も含まれない。主体は伝令の奴隷さながら何が書かれているのかを知らないメッセージを運ぶ。そこには開封すれば死罪となるような封印が押されている。
ことほどさように無意識にはいかなる生理学も関わっていない。ファルスしかり。対象関係論批判。
欲望は要求とも欲求ともちがう。「欲望は[要求によって]分節されている。それゆえに欲望は[それじたいとしては]分節不可能である」。それゆえに欲望は心理学的ではなく倫理的である。
シニフィアンにおいて分節された主体を位置づけるべく欲望のグラフが召喚される。
ここではじめて(そしてこれをさいごに)グラフの完成図が提示されることになるわけであるが、このパートについては向井雅明氏の『ラカン対ラカン』(文庫版『ラカン入門』)に緻密にして明快な読解がある。
ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)
*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966)
いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落ごとに要約する。
精神分析という実践はひとつの構造をもつ。哲学者はこれに無関心ではあり得ない。
哲学者は万人がそれと知ることなくかかわっている(intéressé)ことに関心をもつ(s’intéresser)。この言葉のおもしろさ(intéressant)は、この言葉が当を得ているとしても、[万人がそれと知ることなくかかわっていることというのがなになのかを]決定できないことだ。万人が哲学者にならないかぎりは。
ヘーゲルが<歴史>についてそういっている。
主体を知とのひとつの関係によって位置づけること。
この関係は曖昧である。
現代世界における科学の諸効果(≒影響力)とおなじくあいまいである。
科学をなりわいとする学者もまたひとりの主体である。科学はひとりでこの世に生まれ落ちたわけではない(生まれ落ちるまでに中絶とか早産を経験していた)。
じぶんのしていることを知っているはずのこの主体は、科学の諸効果において万人にかかわるものがなにかを知らない。すくなくとも現代世界においてはそうだ。現代世界においては、万人がこの点について無知である。
かくして「科学の主体」が認識論のテーマになる。
分析の終了においては主体が問題になる。この主体はヘーゲル的主体を覆す。
精神分析の実践がそうした主体をもたらす。分析の終了についての科学的理論はまだない。
英米における逸脱をみよ。
くだんの覆しを定義しよう。
科学の条件は経験主義ではない。
科学的と称する既成の心理学がある。
フロイト的な主体の機能は心理学を退ける。
心理学は主体の統一性とか生体と心理の重なりを想定している。
主体は認識主体ではない。
認識は現実の鏡ではない。
ヘーゲルも現代科学もそうした見解はとらない。
深層心理学はフロイト的ではない。
フロイトはヒステリーを催眠状態の観察よりも患者の言説から理解しようとした。
無意識は問い返す。
主体に解釈を強いる。
無意識の論理はつかまえにくい。
それは類型化できない。
それはたんに地球が中心という特権を剥奪されたということなのか。進化論が人間を特権的な位置から追い出したように。
ここには利得あるいは進歩があるのか?[太陽中心説という]別の真理が顕現したのか?黄道は真なるもの(vrai)のモデルである。
人間が最高の種でないと自覚しているのはダーウィンのせいではない。
上位の諸真理とはなんのことはない、楕円軌道(省略 ellipse)がそれである。革命とは端的に天体の公転(révolution)のことである。
ここに宗教が退けられると同時に知の体制と真理の体制がより密接に絡み合う。
コペルニクスにおいてはいまだ二重の真理の原則が隠れ蓑になっていた。
科学は真理と知の境目をふたたび閉ざしてしまったようにみえる。
精神分析がこの境目をふたたび揺るがせる。
ヘーゲルの現象学を援用しよう。永久的修正主義という理想的解決である。そこにおいて真理は、それじたいが知の実現に欠けている要素として、不協和な要素を恒常的に吸収=解消する(résorption)。スコラ的伝統において原理的なものとされていた二律背反はここでは想像的なものとみなされる。真理とは、知がみずからの無知を作動させることによってしかそれを知っていることをまなびしることができないものである。この現実的な危機において、想像的なものは新たな象徴的形式を生じさせる。この弁証法が収斂し、両者が連結する地点が絶対知である。この弁証法は象徴的なものともはやなにも期待できない現実的なもの(un réel)との連結でしかありえない。つまりみずからと同一である主体である(自己意識存在 Selbstbewusstsein)。
とはいえギリシャ数学に発する科学はこうした内在説を退けている。多くの理論は弁証法に吸収されない。
物理学上の変革もそれを証している。
精神分析はそれが孕む理論的希望ゆえに科学の世界において恐れられている。
ヘーゲルの絶対的主体と科学の廃棄された主体をともども参照することによってフロイトのもたらした劇変の真意がわかる。すなわち、科学の領域への真理の復帰であり、実践の領域への真理の復帰である。抑圧されたものは回帰するのだ。
ヘーゲルにおける不幸の意識(ひとつの知の宙吊り)とフロイトにおける文明におけるいごこちのわるさ(主体と性とのねじれた関係)とを隔てる距離は明白である。
心理学の「司法的占星術」とも「質」と「強度」の現象学的観念論ともフロイトは無関係である。フロイトにおいて無意識は意識のネガ(トマス)ではないし、情動は原初的な感情ではない。
フロイト以来、無意識はシニフィアンの連鎖である。この連鎖は「別の舞台」のうえで反復され、しつようにあらわれて(insister)、効果的な言説がもたらす切れ目と[無意識に]固有の思考(cogitation)に影響をおよぼす。