lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)

 

 809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。

 

 不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「自己意識」の誤りをヘーゲルは示している。

 

 主と奴の想像的な関係。

 

 奴の隷属はヘーゲルが知らなかった人間の早産性の神話的表現か?

 

 死を賭け金とした主と奴の闘争はパスカルの賭けよりも「誠実」である。奴が奴であるためには敗北者は死んではならない。それゆえ勝利者(殺害者)は絶対的主人とはいえない。想像的な暴力(攻撃性)は象徴的な契約に支えられているのだ。

 

 生がもたらす死ではなく、生をもたらす死である死。脚注ではサドの「第二の死」に言及される。

 

 理性の狡知という考えによれば、奴は死を恐れて労働に従事することで享楽を放棄する。これは最大の政治的・心理的ごまかしである。奴にとっては隷属的な労働に従事したまま享楽を得ることは容易であるから。

 

 理性の狡知が強迫神経症者の個人的神話になぞらえられる。その構造は[左翼]知識人に顕著。

 

 欲望は構造的であり、偶然(外傷)に依存しない。

 

 エディプス複合は父の神話に依拠している。

 

 それは現実的な父ではなく死んだ父、父の名である。 

 

 813頁4段落目から向井氏の注釈が再開され、それは819頁6段落目途中で終わっている。そこからおしまいまでのアウトラインが以下。

 

 コギトにおいて「存在」は永久に「思考」の手をすり抜ける。

 

 <私>は「宇宙は純粋な<非在>(Non-Etre)におけるひとつの欠如(défaut)である」との声が響いてくる場所に「いる」。この場所に身を置くことは<存在>そのものを衰弱させる。この場所は<享楽>と呼ばれる。享楽の「欠如」が宇宙を虚(vain)となす。

 

 享楽の不在(manque)によって<他者>は一貫性のないものである。享楽は私の享楽なのだろうか?日常的には享楽は私に禁じられている。それは<他者>なるものの欠損=過失(faute)ゆえである。<他者>は存在しないので、<私>がその「過失」を負う。原罪の信仰がここに生まれる。

 

 去勢複合はこれと別ものではない。去勢複合は主体の構造の「余白」ゆえに弁証法を作動させる。

 

 その余白をうめる要素が数学的アルゴリズムの「流用」によって√-1と表記される。それはゼロ記号の効果(マナ)ではなくゼロ記号の欠如のシニフィアンである。

 

 享楽は語る者にたいしては禁じられている。享楽は<法>の主体である誰にたいしても行間にしか告げられない。<法>はこの禁止そのものに基づいているから。

 

 法は「享楽せよ(Jouis)」と命ずる。それに主体は「しかと聞いた(J’ouïs)」とこたえるほかない。享楽は言外に聞かれる(sous-entendu)ことしかできない。

 

 しかし主体を享楽に至らせないのは<法>そのものではない。享楽に限界を設けるのは快原則である。

 

 無限の享楽を禁じる犠牲となるのがファルス。

 

 ファルスが犠牲に選ばれるのがなぜかといえば、男根のイマージュとしてのファルスはその鏡像においてそれがあるところにおいて否定化(négativer)されるから。それゆえファルスは欲望の弁証法において享楽を具体化する(donner corps)。

 

 ファルスの象徴的な原則と想像的な機能とを区別すべし。

 

 想像的機能は自己愛的な対象への備給を促す。鏡像はリビドーを身体から対象へと向け変える運河である。しかしファルスだけがその「突起」ゆえにこの運河を通れない。対象の世界から排除されたファルスは諸対象の鏡像あるいはプロトタイプとなる。

 

 それゆえファルスという勃起性の器官が享楽の場を象徴[化]する。そのものとしてではなく、イマージュとしてでもなく、望まれたイマージュに欠けている部分として(√-1)。

 

 かくしてファルスは享楽の禁止を打ち立てる(nouer)。享楽を自体愛の短さに縮減してしまうことによって。現実的な男根に享楽は欠けている……。 

 

 続きは次号。

 

 

 

絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)

 

 つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り」ないし l’inter-dit と形容される。

 

 分析のセッションは虚偽の言説の中断として遂行される。言説はパロールが汲み尽くされるところに実現される。「沈黙のうちに」手から手へと渡ることで表面が摩滅するマラルメの硬貨さながらに。

 

 「シニフィアン連鎖のこの切断だけが、主体の構造を現実界における不連続点として確認する」。言語学においてはシニフィアンシニフィエの決定因であるが、分析においては、意味の諸々の穴を言説の決定因とする両者の関係から真理が生まれる。

 

 Wo Es war, soll Ich werden. が引き合いに出される。これを là où ce fut と単純過去で訳すべきではない。この時点でエスはなくなってはいないのだから。消え去りつつあるものと到来しつつあるものがぶつかる(achopper)一瞬に「私」の存在が「痕跡」として生じる。

 

 そこにおける半過去が「じぶんが死んでいることを知らなかった父の夢」の半過去(il ne savait pas)に送り返される。父がいつなんどき[息子によって向けられた殺意を]知ってしまったら、「私」(息子)は[この世から]消えさらねばならぬのだ。

 

 「私」(主体)は非-存在者の存在として到来する。この夢において実質的な存在は「知」によって廃棄され、言説を支えているのは「死」なのだ。

 

 知る途上にあるこの父親が、絶対知への途上にあるヘーゲル的主体に送付される。ヘーゲルは絶対知を終末論的な狂気の沙汰として描き出す。分析は絶対知の真理をその虚しさにみることで狂気を乗り越える。

 

 主体と真理の関係において、ヘーゲル主義とフロイト主義のあいだには断絶がある。

 

 両者において欲望の弁証法は別の様式をとる。

 

 ヘーゲルにあって主体は欲望によって過去の知識と繋がっているので、真理は知の実現にたいして内在的である。主体はじぶんの欲しているものを知っている(理性の狡知)。

 

 真理と知のこのつなぎ目をフロイトはずらす(楕円運動 révolution にゆだねる)。

 

 フロイトにおいて欲望は<他者>の欲望に繋がっており、ここに知への欲望が萌す。

 

 それは死の本能と関係がある。

 

 死の本能における無機物への回帰とは、「生を越えた余白」としての主体の存在あるいは身体を示す比喩である。フロイトの生物学主義とは(対象関係論が前提しているような)現実的な身体を指していない。

 

 本能はいっしゅの知識(connaissance)であるが、それは知(savoir)ではない。フロイトにおいてはひとつの知であるが、そこにはいかなる知識も含まれない。主体は伝令の奴隷さながら何が書かれているのかを知らないメッセージを運ぶ。そこには開封すれば死罪となるような封印が押されている。

 

 ことほどさように無意識にはいかなる生理学も関わっていない。ファルスしかり。対象関係論批判。

 

 欲望は要求とも欲求ともちがう。「欲望は[要求によって]分節されている。それゆえに欲望は[それじたいとしては]分節不可能である」。それゆえに欲望は心理学的ではなく倫理的である。

 シニフィアンにおいて分節された主体を位置づけるべく欲望のグラフが召喚される。

 

 ここではじめて(そしてこれをさいごに)グラフの完成図が提示されることになるわけであるが、このパートについては向井雅明氏の『ラカンラカン』(文庫版『ラカン入門』)に緻密にして明快な読解がある。

 

 

 

 

 

ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)

 

*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 

 いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落ごとに要約する。

 

 精神分析という実践はひとつの構造をもつ。哲学者はこれに無関心ではあり得ない。

 

 哲学者は万人がそれと知ることなくかかわっている(intéressé)ことに関心をもつ(s’intéresser)。この言葉のおもしろさ(intéressant)は、この言葉が当を得ているとしても、[万人がそれと知ることなくかかわっていることというのがなになのかを]決定できないことだ。万人が哲学者にならないかぎりは。

 

 ヘーゲルが<歴史>についてそういっている。

 

 主体を知とのひとつの関係によって位置づけること。

 

 この関係は曖昧である。

 

 現代世界における科学の諸効果(≒影響力)とおなじくあいまいである。

 

 科学をなりわいとする学者もまたひとりの主体である。科学はひとりでこの世に生まれ落ちたわけではない(生まれ落ちるまでに中絶とか早産を経験していた)。

 

 じぶんのしていることを知っているはずのこの主体は、科学の諸効果において万人にかかわるものがなにかを知らない。すくなくとも現代世界においてはそうだ。現代世界においては、万人がこの点について無知である。

 

 かくして「科学の主体」が認識論のテーマになる。

 

 分析の終了においては主体が問題になる。この主体はヘーゲル的主体を覆す。

 

 精神分析の実践がそうした主体をもたらす。分析の終了についての科学的理論はまだない。

 

 英米における逸脱をみよ。

 

 くだんの覆しを定義しよう。

 

 科学の条件は経験主義ではない。

 

 科学的と称する既成の心理学がある。

 

 フロイト的な主体の機能は心理学を退ける。

 

 心理学は主体の統一性とか生体と心理の重なりを想定している。

 

 主体は認識主体ではない。

 

 認識は現実の鏡ではない。

 

 ヘーゲルも現代科学もそうした見解はとらない。

 

 深層心理学はフロイト的ではない。

 

 フロイトはヒステリーを催眠状態の観察よりも患者の言説から理解しようとした。

 

 フロイトは認識のパラノイア的構造も見抜いた。

 

 無意識は問い返す。

 

 主体に解釈を強いる。

 

 無意識の論理はつかまえにくい。

 

 それは類型化できない。

 

 フロイトの踏み出したコペルニクス的一歩を見極めること。

 

 それはたんに地球が中心という特権を剥奪されたということなのか。進化論が人間を特権的な位置から追い出したように。

 

 ここには利得あるいは進歩があるのか?[太陽中心説という]別の真理が顕現したのか?黄道は真なるもの(vrai)のモデルである。

 

 人間が最高の種でないと自覚しているのはダーウィンのせいではない。

 

 上位の諸真理とはなんのことはない、楕円軌道(省略 ellipse)がそれである。革命とは端的に天体の公転(révolution)のことである。

 

 ここに宗教が退けられると同時に知の体制と真理の体制がより密接に絡み合う。

 

 コペルニクスにおいてはいまだ二重の真理の原則が隠れ蓑になっていた。

 

 科学は真理と知の境目をふたたび閉ざしてしまったようにみえる。

 

 精神分析がこの境目をふたたび揺るがせる。

 

 ヘーゲル現象学を援用しよう。永久的修正主義という理想的解決である。そこにおいて真理は、それじたいが知の実現に欠けている要素として、不協和な要素を恒常的に吸収=解消する(résorption)。スコラ的伝統において原理的なものとされていた二律背反はここでは想像的なものとみなされる。真理とは、知がみずからの無知を作動させることによってしかそれを知っていることをまなびしることができないものである。この現実的な危機において、想像的なものは新たな象徴的形式を生じさせる。この弁証法が収斂し、両者が連結する地点が絶対知である。この弁証法は象徴的なものともはやなにも期待できない現実的なもの(un réel)との連結でしかありえない。つまりみずからと同一である主体である(自己意識存在 Selbstbewusstsein)。

 

  とはいえギリシャ数学に発する科学はこうした内在説を退けている。多くの理論は弁証法に吸収されない。

 

 物理学上の変革もそれを証している。

 

 精神分析はそれが孕む理論的希望ゆえに科学の世界において恐れられている。

 

 社会心理学に偏向した精神分析のことではない。

 

 ヘーゲルの絶対的主体と科学の廃棄された主体をともども参照することによってフロイトのもたらした劇変の真意がわかる。すなわち、科学の領域への真理の復帰であり、実践の領域への真理の復帰である。抑圧されたものは回帰するのだ。

 

 ヘーゲルにおける不幸の意識(ひとつの知の宙吊り)とフロイトにおける文明におけるいごこちのわるさ(主体と性とのねじれた関係)とを隔てる距離は明白である。

 

 心理学の「司法的占星術」とも「質」と「強度」の現象学的観念論ともフロイトは無関係である。フロイトにおいて無意識は意識のネガ(トマス)ではないし、情動は原初的な感情ではない。

 

 フロイト以来、無意識はシニフィアンの連鎖である。この連鎖は「別の舞台」のうえで反復され、しつようにあらわれて(insister)、効果的な言説がもたらす切れ目と[無意識に]固有の思考(cogitation)に影響をおよぼす。

 

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であるという。セミネール第5巻に関連させて読まれるべきテクスト。われわれのバックナンバー「享楽の最初の一グラム」「女性性の本質化に抗して」を参照していただきたい。そこで問題になっているのは享楽という問題であり、それはまさに1960年代初頭のこの時期にラカン理論の中心的な道具立となりつつあった。

 

 同時代の対象関係論的潮流における理論的逸脱が指弾される。精神分析は父の抑制による去勢複合から、母の愛情の欠乏による欲求不満へと焦点を移動させてきた。女性における男根期の問題は現在ではなおざりにされている。クラインはエディプス的空想を母の身体におしこめ、父の名の射程を度外視した。

 フロイト的な共時性(同時的構造化)がジョーンズ=クライン的な発達の図式に対置される。「ファルスが象徴する剥奪(privation)の関係、あるいは存在欠如(manque à être)の関係は、要求(demande)に固有な欲求不満(frustration)が生み出す所有欠如(manque à avoir)へと逸脱することで形成される。そしてこの代理物(男根との比較によってやがて手放されるクリトリス)を出発点として、欲望の領野が新たな諸対象(その筆頭としては生まれてくる子供)をつぎつぎと繰り出し(précipiter)、いっさいの欲求(besoins)が関与する性的隠喩にとって代わる(récupération)」。

 「去勢は法の場としての<他者>の主体性を前提とするがゆえに発達から導出することはできない。性の他性はこの疎外によって変質をこうむる( se dénaturer 脱自然化する)。男性は女性が、男性にとって<他者>であるとどうよう、女性自身にとって<他者>となるための仲介(relais)となる。そのことにおいて転移に関与した<他者>の覆いの取り去り(dévoilement)は象徴的に命じられた防衛を変容させ得る。防衛はここでは、<他者>の現前が性的役割において解放する仮装(mascarade)という次元で理解される」。

 これは不感症の分析治療の効果に関連してのコメント。セミネール『無意識の形成物』において紹介されたリヴィエール論文「仮装としてのフェミニティ」においては、空想において父を去勢したことへの男性による復讐にたいする防衛としてフェミニティをひけらかす女性の事例がとりあげられていた。

 このような「覆い(voile)」の効果は、ファルス中心主義において女性が絶対的<他者>を体現する(représenter)対象となるというツケを支払うことの証左である。

 去勢において犠牲に供される(consacrer 聖別化される)男性性は、それが覆い隠すものゆえに女性の尊敬を勝ち得る。キリストの形象は<神秘>というもっとも奥深く隠されたシニフィアンの覆いゆえに女性を蠱惑する。

 それはようするにドラや「女性同性愛者」が[男性として]探求した女性性という神秘に収斂されるのであろう。

 「女性におけるイマージュと象徴は女性についてのイマージュと象徴と不可分である」。「分析可能なすべては性的であるということは、性的なものすべてが分析可能であることをいみしない」。いずれも女性性なるものを狙った一節であろうか。

 女性が去勢されていることは、夫への従属による“去勢”によって隠され、<他者>への忠実性は女性固有の忠実性によってみたされ、やはり隠されている。

 クライマックスとなるのは女性の倒錯へのコメントである。女性の倒錯は女性のフェミニティのみならず欲望そのものへのアプローチを可能にする。男性の倒錯は母親のファルスを保持するという想像的動機がある。それを端的に示すフェティシズムが女性にみられないことは、女性の倒錯においては別のことが問題になっていることを暗示する。

 ジョーンズは女性同性愛の考察において、女性の欲望を父というインセスト的な対象と女性自身のファルス(sexe)という選択に分裂させているが、問題は対象の分裂ではなく、むしろ対象の交代(relève)である。あるいは高尚な(relevé)「挑戦」(フロイトの「女性同性愛者」症例において用いられている語)というべきか。フロイトの「女性同性愛者」は、もっていないもの(ファルス)を捧げようとすることで「騎士道的恋愛」を体現する。彼女はファルス(sexe)を代償にインセスト的対象を選ぶのではない。彼女が受け入れないのは、この対象が去勢を代償にしてしかみずからのファルス(sexe)を保証してくれないことである。かのじょがみずからのファルス(sexe)を放棄するということではない。女性同性愛者の究極的な関心は女性性である。ジョーンズは男性の空想と、パートナーの享楽(他者の享楽)への気遣いの結びつきを見抜いている。 

 女性のセクシュアリティは受動性において捉えられるべきではなく、みずからの間接部(contiguïté。割礼はこれとの象徴的な別離である)が包み隠す(envelopper)享楽への努力として現れる。女性は、男性において去勢のシニフィアンがファルスとしてあたえられることで解放される欲望と「対抗的に」みずからを実現する(réaliser à l’envie du désir… 「ペニス羨望」のもじり)。フロイトが男性的なリビドーしか存在しないとしているのはこうしたいみにおいてである。

 

 

「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」

*「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」(A la mémoire d’Ernest Jones : Sur sa théorie du symbolisme

 

 ジョーンズ追悼論文。1959年1月から3月にかけて執筆され、1961年に「精神分析」誌に掲載された。『エクリ』所収。

 フロイトのモニュメントの建造者たるジョーンズを意識して建築学的な比喩を散りばめ、詩的ひらめきに富む。

 ジョーンズは国際精神分析協会からラカンを〝破門〟した張本人であり、業界内では敵どうしであったが、ラカンはセミネール第5巻~第6巻でその男根期およびアファニシスの観念を評価している。

 ユングにとって象徴は、それじたいは無意識的にとどまる諸「元型」のイマージュ(隠喩)であり、リビドーという抽象的なエネルギーを素材としてつくられる。ジョーンズはこうした観念論を退ける。「象徴において現れる原初的な諸複合は心的生活の源泉であるはずだ」(ジルベラーとの論争)。隠喩における例え(figuré)は象徴の具体物(concret)に道を譲らねばならない。ジョーンズは象徴がファルスという「具体的な観念」に由来し、あらゆる象徴はファルス的な象徴であるとしている。これはかれの男根期についての見解に照らして評価し得る。しかしジョーンズは現実的なファルスとシニフィアンとしてのファルスをはっきり区別できていない。アンナ・Oにとって蛇は男根そのものの象徴ではなく男根が欠如している場の象徴である。ジョーンズは抑圧されるのが表象代表(シニフィアン)であり情動ではないというメタサイコロジー諸論文におけるフロイトの主張を理解していない。ジョーンズは言語学的な探求によって象徴にアプローチしようとしたが、如何せんそこにシニフィアンの理論を発見することはなかった。『エクリ』刊行時に加筆された補遺において、ラカンはむしろジョーンズの論争相手でありユングと親近性のあるジルベラーが象徴を「マテリアルな現象」とみなしていることのうちにシニフィアン理論への洞察を見出している。

 

マシーンとしての構造:「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」

*「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」(1961年)

 

 1958年のロワイヨーモン・コロックにおける発言に加筆のうえ、ラガーシュのテクストとともに1961年に雑誌「精神分析」第6号に掲載された(同号にはロワイヨーモンで発表された「治療の方向づけ」も収録されている)。のち『エクリ』所収。

 

 セミネール6巻および7巻の成果が盛り込まれた最初の書かれたテクストとして意義がある。

 

 ラガーシュは1953年にフランス精神分析協会をともにたちあげた盟友。ラカンはラガーシュの主張を大筋で肯いつつ、その不徹底さを批判している。

 

 ラガーシュ報告はフロイトの第二局所論に基づくいっしゅの構造主義宣言の如きテクスト。ラガーシュにとって「人格」という構造は、静態的な観察可能な諸特徴の束ではなく、動態的な諸関係のシステムである。ラカンは「理論的モデル」たる構造を「自然的」な事象と対置させるラガーシュの二元論を退け、「純然たるシニフィアンの作用」が現実に及ぼす効果によって構造を定義する。構造は「主体を演出するひとつの独創的なマシーン」である。

 

 ハルトマンらによるフロイト自我概念の歪曲にたいするラガーシュの批判には賛意が表される。

 

 ラガーシュは個人意識の発達論(ピアジェ)を批判しつつも、その「属性」attributs という用語は出生以前の主体を実体化しかねず、主体の誕生にたいするシニフィアンの先行性と抵触する。

 

 ラガーシュは相互主観性を想像的な分身とのそれと理解しているが、ラカンによればそれは<他者>という超越的な場所との関係である。

 

 ラガーシュがエスを構造としてとらえようとしている点は評価される。組織化されていないというエスの特性をラガーシュは無意識には否定がないというフロイトの説に帰す。しかし「無意識にはいかなる否定も疑惑も確実性の度合いもない」というフロイトの一節を引くとき、ラガーシュは確実性と肯定とを混同している。フロイトの意図は、確実性がもっぱら行為から生まれるということである(「論理的時間」)。ラガーシュによればエスに否定はなく、否定という判断は自我に由来する。しかし、「心理学草稿」によれば判断は自我以前に遡る。ゆえに判断は自我の特権ではない。

 

 いまだに適切な区別がなされていなかった理想自我と自我理想の区別についても評価される。persona とは存在の統一性を指す以前に仮面のことである。報告時のラガーシュがまだ知らなかった倒立した花束の図が提示される。

 

 最後のパートは「ある倫理のために」と題され、『倫理』のセミネールを踏まえて超自我がコメントされる。モーセの石板には「パロールの諸法いがいにはなにも書かれていない」。personne は仮面とともに(per-sona 声によって)はじまる。

 

 『倫理』で言及された[辛子]壺の話はもともとロワイヨーモンでの発言でお披露目されていたらしいが、本論では削除された。

 

 

純粋欲望批判:セミネール第7巻『精神分析の倫理』

 

 *Le Séminaire Livre VII :  L'Ethique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986. 

 

 

 フロイトアリストテレスどうよう、人間的行為の原動力を快にみいだすが、快原則と現実原則のパラドクシカルな「倫理的葛藤」は、「君主(maître)の道徳」としてのアリストテレス倫理学が前提していた<至高善>のシステムを破綻させる。

 

 精神分析的経験は「悲劇的次元」をもつ。精神分析と悲劇とを結びつけるのは「カタルシス」である。カタルシスとは欲望の平穏化ではなくその「純粋化」を意味する。「純粋な欲望」、死の欲望の具現であるアンティゴネのうちに「欲望については譲らない」という精神分析の倫理が見てとられる。パトローギシュ(カント)という相対的な要素はけつぜんと退けられ、カタリ派の「純粋さ」が讃えられる。

 

 いうまでもなく欲望とはその定義からしていわば妥協の産物であり、すぐれて〝不純〟なものとしてある。したがって「純粋な欲望」とはひとつのパラドクスでしかあり得ない。そしてこのパラドクスこそ欲望なるものの本質である。

 

 主体の形成と引き換えに内部へと排斥された「もの」(こうした「主体のトポロジー」が「疎内」extimité と名づけられる)。それとの一体化は死をいみする。神経症はそれを症状に置き換えることで回避し、昇華は対象を接近不可能な領域へと敬して遠ざけ、対象を「もの」(das DIng)の尊厳(dignité)に昇格させる。

 

 たとえば騎士道的恋愛はありったけの言葉で貴婦人を讃え、かくして編み上げられたシニフィアンの鎖を対象へのいわば防壁とする。前年のセミネールで確認されていた如く、昇華は社会的価値を実現するものではない。

 

 芸術とは「もの」という無の周囲をなぞることである。建築しかり、絵画しかり。壺の本質とはそれが孕む空であり、それゆえに壺はシニフィアン中のシニフィアンである。壺は無を生み出す。無を素材(「質料」)とする創造、すなわち「無からの創造」。この無の創出によって、空虚と充実という対立的観念が一挙にもたらされる。

 

 シニフィアンの形成とは連続的な現実界に裂け目を導入することだ。サドは人間の「罪」が自然の連続性を破壊し、自然を生まれ変わらせるとする。死の欲動とはたんなる無生物への回帰を意味しない。それは機械的な傾向性ではなく、破壊への完膚なき「意志」である。そこに主体性が宿る。逆説的なことながら、ひとり創造説のみが神の観念を根底から否定する。たいして進化論は宗教的理想に支えられている。

 

  父の名への同一化もまた昇華である。それは父性という不確実なものの機能を受け入れることであり、そこには精神性における進歩がある(『モーセ一神教』)。

 

 『心理学草稿』は「もの」を「隣人」とも呼んでいる。それゆえ『文化におけるいごこちのわるさ』のフロイトは「汝の隣人を汝の如くに愛せよ」に残酷な死への至上命令を見てとるのだ。

 

 倒錯者サドはその幻想においてこの至上命令を文字どおりに実行する。サドの幻想において「主体は自己から分身を切り離し、この分身を無化の手から救い、苦痛の作用に耐えさせる」。苦痛とは生死の境界で「石化」されるいっしゅの限界状況である(バロック建築からにじみだす「苦痛」)。

 

 サディズムは苦痛を美となし、マゾヒズムは善となす。カントは昇華も倒錯も知らず、定言命令という生身の人間には実現不可能なことを「記載」する場として魂の不滅性という「幻想」に訴える。じっさいには定言命令とはサド的な享楽の至上命令と同一物である。

 

 享楽が可能なのはもっぱら他者の享楽としてだけである。Lebensneid というドイツ語は人間存在のそうした「裂け目」を絶妙に言い表す。「わたしを満足させるあなたの身体の一部を貸してください。そしてあなたの気に入るわたしの一部を享受してください……」。サドは部分欲動を発見した。

 

 サドの犠牲者はその永遠の責め苦において第二の死を具現する。

 

 第二の死とはいわば偶然の死ではなく真に死ぬことである。それはオイディプスの最期の言葉に読みとれるような「人間的残存(subsistance)、世界の秩序からみずからを抹消した残存という呪われた運命の受諾」である。

 

 キリストの磔刑図はサディズムの先駆にしてその神格化(=絶頂 apothéose)である。昇華はその代償として享楽という一片の肉を支払い、宗教はその肉を回収する。

 

 先行するセミネール群においてあれほどしつこく参照された欲望のグラフへの言及はほぼまったくなし。たぶんにハイデガーを意識してのことであろう、時事ネタを織り混ぜつつ(「もの」としての核兵器etc.)黙示録的な荘重さを演出し、諸文脈を自在に出会わせるラカン的レトリックが冴えわたる。ヴァカンスのお供にオススメしたい好読み物。