lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であるという。セミネール第5巻に関連させて読まれるべきテクスト。われわれのバックナンバー「享楽の最初の一グラム」「女性性の本質化に抗して」を参照していただきたい。そこで問題になっているのは享楽という問題であり、それはまさに1960年代初頭のこの時期にラカン理論の中心的な道具立となりつつあった。

 

 同時代の対象関係論的潮流における理論的逸脱が指弾される。精神分析は父の抑制による去勢複合から、母の愛情の欠乏による欲求不満へと焦点を移動させてきた。女性における男根期の問題は現在ではなおざりにされている。クラインはエディプス的空想を母の身体におしこめ、父の名の射程を度外視した。

 フロイト的な共時性(同時的構造化)がジョーンズ=クライン的な発達の図式に対置される。「ファルスが象徴する剥奪(privation)の関係、あるいは存在欠如(manque à être)の関係は、要求(demande)に固有な欲求不満(frustration)が生み出す所有欠如(manque à avoir)へと逸脱することで形成される。そしてこの代理物(男根との比較によってやがて手放されるクリトリス)を出発点として、欲望の領野が新たな諸対象(その筆頭としては生まれてくる子供)をつぎつぎと繰り出し(précipiter)、いっさいの欲求(besoins)が関与する性的隠喩にとって代わる(récupération)」。

 「去勢は法の場としての<他者>の主体性を前提とするがゆえに発達から導出することはできない。性の他性はこの疎外によって変質をこうむる( se dénaturer 脱自然化する)。男性は女性が、男性にとって<他者>であるとどうよう、女性自身にとって<他者>となるための仲介(relais)となる。そのことにおいて転移に関与した<他者>の覆いの取り去り(dévoilement)は象徴的に命じられた防衛を変容させ得る。防衛はここでは、<他者>の現前が性的役割において解放する仮装(mascarade)という次元で理解される」。

 これは不感症の分析治療の効果に関連してのコメント。セミネール『無意識の形成物』において紹介されたリヴィエール論文「仮装としてのフェミニティ」においては、空想において父を去勢したことへの男性による復讐にたいする防衛としてフェミニティをひけらかす女性の事例がとりあげられていた。

 このような「覆い(voile)」の効果は、ファルス中心主義において女性が絶対的<他者>を体現する(représenter)対象となるというツケを支払うことの証左である。

 去勢において犠牲に供される(consacrer 聖別化される)男性性は、それが覆い隠すものゆえに女性の尊敬を勝ち得る。キリストの形象は<神秘>というもっとも奥深く隠されたシニフィアンの覆いゆえに女性を蠱惑する。

 それはようするにドラや「女性同性愛者」が[男性として]探求した女性性という神秘に収斂されるのであろう。

 「女性におけるイマージュと象徴は女性についてのイマージュと象徴と不可分である」。「分析可能なすべては性的であるということは、性的なものすべてが分析可能であることをいみしない」。いずれも女性性なるものを狙った一節であろうか。

 女性が去勢されていることは、夫への従属による“去勢”によって隠され、<他者>への忠実性は女性固有の忠実性によってみたされ、やはり隠されている。

 クライマックスとなるのは女性の倒錯へのコメントである。女性の倒錯は女性のフェミニティのみならず欲望そのものへのアプローチを可能にする。男性の倒錯は母親のファルスを保持するという想像的動機がある。それを端的に示すフェティシズムが女性にみられないことは、女性の倒錯においては別のことが問題になっていることを暗示する。

 ジョーンズは女性同性愛の考察において、女性の欲望を父というインセスト的な対象と女性自身のファルス(sexe)という選択に分裂させているが、問題は対象の分裂ではなく、むしろ対象の交代(relève)である。あるいは高尚な(relevé)「挑戦」(フロイトの「女性同性愛者」症例において用いられている語)というべきか。フロイトの「女性同性愛者」は、もっていないもの(ファルス)を捧げようとすることで「騎士道的恋愛」を体現する。彼女はファルス(sexe)を代償にインセスト的対象を選ぶのではない。彼女が受け入れないのは、この対象が去勢を代償にしてしかみずからのファルス(sexe)を保証してくれないことである。かのじょがみずからのファルス(sexe)を放棄するということではない。女性同性愛者の究極的な関心は女性性である。ジョーンズは男性の空想と、パートナーの享楽(他者の享楽)への気遣いの結びつきを見抜いている。 

 女性のセクシュアリティは受動性において捉えられるべきではなく、みずからの間接部(contiguïté。割礼はこれとの象徴的な別離である)が包み隠す(envelopper)享楽への努力として現れる。女性は、男性において去勢のシニフィアンがファルスとしてあたえられることで解放される欲望と「対抗的に」みずからを実現する(réaliser à l’envie du désir… 「ペニス羨望」のもじり)。フロイトが男性的なリビドーしか存在しないとしているのはこうしたいみにおいてである。

 

 

「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」

*「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」(A la mémoire d’Ernest Jones : Sur sa théorie du symbolisme

 

 ジョーンズ追悼論文。1959年1月から3月にかけて執筆され、1961年に「精神分析」誌に掲載された。『エクリ』所収。

 フロイトのモニュメントの建造者たるジョーンズを意識して建築学的な比喩を散りばめ、詩的ひらめきに富む。

 ジョーンズは国際精神分析協会からラカンを〝破門〟した張本人であり、業界内では敵どうしであったが、ラカンはセミネール第5巻~第6巻でその男根期およびアファニシスの観念を評価している。

 ユングにとって象徴は、それじたいは無意識的にとどまる諸「元型」のイマージュ(隠喩)であり、リビドーという抽象的なエネルギーを素材としてつくられる。ジョーンズはこうした観念論を退ける。「象徴において現れる原初的な諸複合は心的生活の源泉であるはずだ」(ジルベラーとの論争)。隠喩における例え(figuré)は象徴の具体物(concret)に道を譲らねばならない。ジョーンズは象徴がファルスという「具体的な観念」に由来し、あらゆる象徴はファルス的な象徴であるとしている。これはかれの男根期についての見解に照らして評価し得る。しかしジョーンズは現実的なファルスとシニフィアンとしてのファルスをはっきり区別できていない。アンナ・Oにとって蛇は男根そのものの象徴ではなく男根が欠如している場の象徴である。ジョーンズは抑圧されるのが表象代表(シニフィアン)であり情動ではないというメタサイコロジー諸論文におけるフロイトの主張を理解していない。ジョーンズは言語学的な探求によって象徴にアプローチしようとしたが、如何せんそこにシニフィアンの理論を発見することはなかった。『エクリ』刊行時に加筆された補遺において、ラカンはむしろジョーンズの論争相手でありユングと親近性のあるジルベラーが象徴を「マテリアルな現象」とみなしていることのうちにシニフィアン理論への洞察を見出している。

 

マシーンとしての構造:「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」

*「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」(1961年)

 

 1958年のロワイヨーモン・コロックにおける発言に加筆のうえ、ラガーシュのテクストとともに1961年に雑誌「精神分析」第6号に掲載された(同号にはロワイヨーモンで発表された「治療の方向づけ」も収録されている)。のち『エクリ』所収。

 

 セミネール6巻および7巻の成果が盛り込まれた最初の書かれたテクストとして意義がある。

 

 ラガーシュは1953年にフランス精神分析協会をともにたちあげた盟友。ラカンはラガーシュの主張を大筋で肯いつつ、その不徹底さを批判している。

 

 ラガーシュ報告はフロイトの第二局所論に基づくいっしゅの構造主義宣言の如きテクスト。ラガーシュにとって「人格」という構造は、静態的な観察可能な諸特徴の束ではなく、動態的な諸関係のシステムである。ラカンは「理論的モデル」たる構造を「自然的」な事象と対置させるラガーシュの二元論を退け、「純然たるシニフィアンの作用」が現実に及ぼす効果によって構造を定義する。構造は「主体を演出するひとつの独創的なマシーン」である。

 

 ハルトマンらによるフロイト自我概念の歪曲にたいするラガーシュの批判には賛意が表される。

 

 ラガーシュは個人意識の発達論(ピアジェ)を批判しつつも、その「属性」attributs という用語は出生以前の主体を実体化しかねず、主体の誕生にたいするシニフィアンの先行性と抵触する。

 

 ラガーシュは相互主観性を想像的な分身とのそれと理解しているが、ラカンによればそれは<他者>という超越的な場所との関係である。

 

 ラガーシュがエスを構造としてとらえようとしている点は評価される。組織化されていないというエスの特性をラガーシュは無意識には否定がないというフロイトの説に帰す。しかし「無意識にはいかなる否定も疑惑も確実性の度合いもない」というフロイトの一節を引くとき、ラガーシュは確実性と肯定とを混同している。フロイトの意図は、確実性がもっぱら行為から生まれるということである(「論理的時間」)。ラガーシュによればエスに否定はなく、否定という判断は自我に由来する。しかし、「心理学草稿」によれば判断は自我以前に遡る。ゆえに判断は自我の特権ではない。

 

 いまだに適切な区別がなされていなかった理想自我と自我理想の区別についても評価される。persona とは存在の統一性を指す以前に仮面のことである。報告時のラガーシュがまだ知らなかった倒立した花束の図が提示される。

 

 最後のパートは「ある倫理のために」と題され、『倫理』のセミネールを踏まえて超自我がコメントされる。モーセの石板には「パロールの諸法いがいにはなにも書かれていない」。personne は仮面とともに(per-sona 声によって)はじまる。

 

 『倫理』で言及された[辛子]壺の話はもともとロワイヨーモンでの発言でお披露目されていたらしいが、本論では削除された。

 

 

純粋欲望批判:セミネール第7巻『精神分析の倫理』

 

 *Le Séminaire Livre VII :  L'Ethique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986. 

 

 

 フロイトアリストテレスどうよう、人間的行為の原動力を快にみいだすが、快原則と現実原則のパラドクシカルな「倫理的葛藤」は、「君主(maître)の道徳」としてのアリストテレス倫理学が前提していた<至高善>のシステムを破綻させる。

 

 精神分析的経験は「悲劇的次元」をもつ。精神分析と悲劇とを結びつけるのは「カタルシス」である。カタルシスとは欲望の平穏化ではなくその「純粋化」を意味する。「純粋な欲望」、死の欲望の具現であるアンティゴネのうちに「欲望については譲らない」という精神分析の倫理が見てとられる。パトローギシュ(カント)という相対的な要素はけつぜんと退けられ、カタリ派の「純粋さ」が讃えられる。

 

 いうまでもなく欲望とはその定義からしていわば妥協の産物であり、すぐれて〝不純〟なものとしてある。したがって「純粋な欲望」とはひとつのパラドクスでしかあり得ない。そしてこのパラドクスこそ欲望なるものの本質である。

 

 主体の形成と引き換えに内部へと排斥された「もの」(こうした「主体のトポロジー」が「疎内」extimité と名づけられる)。それとの一体化は死をいみする。神経症はそれを症状に置き換えることで回避し、昇華は対象を接近不可能な領域へと敬して遠ざけ、対象を「もの」(das DIng)の尊厳(dignité)に昇格させる。

 

 たとえば騎士道的恋愛はありったけの言葉で貴婦人を讃え、かくして編み上げられたシニフィアンの鎖を対象へのいわば防壁とする。前年のセミネールで確認されていた如く、昇華は社会的価値を実現するものではない。

 

 芸術とは「もの」という無の周囲をなぞることである。建築しかり、絵画しかり。壺の本質とはそれが孕む空であり、それゆえに壺はシニフィアン中のシニフィアンである。壺は無を生み出す。無を素材(「質料」)とする創造、すなわち「無からの創造」。この無の創出によって、空虚と充実という対立的観念が一挙にもたらされる。

 

 シニフィアンの形成とは連続的な現実界に裂け目を導入することだ。サドは人間の「罪」が自然の連続性を破壊し、自然を生まれ変わらせるとする。死の欲動とはたんなる無生物への回帰を意味しない。それは機械的な傾向性ではなく、破壊への完膚なき「意志」である。そこに主体性が宿る。逆説的なことながら、ひとり創造説のみが神の観念を根底から否定する。たいして進化論は宗教的理想に支えられている。

 

  父の名への同一化もまた昇華である。それは父性という不確実なものの機能を受け入れることであり、そこには精神性における進歩がある(『モーセ一神教』)。

 

 『心理学草稿』は「もの」を「隣人」とも呼んでいる。それゆえ『文化におけるいごこちのわるさ』のフロイトは「汝の隣人を汝の如くに愛せよ」に残酷な死への至上命令を見てとるのだ。

 

 倒錯者サドはその幻想においてこの至上命令を文字どおりに実行する。サドの幻想において「主体は自己から分身を切り離し、この分身を無化の手から救い、苦痛の作用に耐えさせる」。苦痛とは生死の境界で「石化」されるいっしゅの限界状況である(バロック建築からにじみだす「苦痛」)。

 

 サディズムは苦痛を美となし、マゾヒズムは善となす。カントは昇華も倒錯も知らず、定言命令という生身の人間には実現不可能なことを「記載」する場として魂の不滅性という「幻想」に訴える。じっさいには定言命令とはサド的な享楽の至上命令と同一物である。

 

 享楽が可能なのはもっぱら他者の享楽としてだけである。Lebensneid というドイツ語は人間存在のそうした「裂け目」を絶妙に言い表す。「わたしを満足させるあなたの身体の一部を貸してください。そしてあなたの気に入るわたしの一部を享受してください……」。サドは部分欲動を発見した。

 

 サドの犠牲者はその永遠の責め苦において第二の死を具現する。

 

 第二の死とはいわば偶然の死ではなく真に死ぬことである。それはオイディプスの最期の言葉に読みとれるような「人間的残存(subsistance)、世界の秩序からみずからを抹消した残存という呪われた運命の受諾」である。

 

 キリストの磔刑図はサディズムの先駆にしてその神格化(=絶頂 apothéose)である。昇華はその代償として享楽という一片の肉を支払い、宗教はその肉を回収する。

 

 先行するセミネール群においてあれほどしつこく参照された欲望のグラフへの言及はほぼまったくなし。たぶんにハイデガーを意識してのことであろう、時事ネタを織り混ぜつつ(「もの」としての核兵器etc.)黙示録的な荘重さを演出し、諸文脈を自在に出会わせるラカン的レトリックが冴えわたる。ヴァカンスのお供にオススメしたい好読み物。

 

 

スピノザは正しかった:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(了)

 

 第XXVII講(01/07/1959)

 

 現時点での精神分析パラダイムが対象関係論であることが確認され、対象にたいする道徳主義的な正常化(「よい」対象)という観点に釘が刺される。対象への原初的同一化の観念は「唯一の」現実を前提しているが、実は「一つの」現実でしかない。分析家自身の道徳的基準への誘導という暗示の危険がある。欲望の位置という問題が忘れられている。欲望は主体性という観念において位置づけられる。欲望は主体性であると同時に、主体性への抵抗、パラドクス、そこから棄却されたものでもある。かくしてあらゆる倫理的経験は「欲望は人間の本質そのものである」とするスピノザの謎めいた言い回しを出発点とする。それが謎めいているのは、われわれが欲望するものが好ましい(désirable)ものと一致するかどうかという問いを開いたままにしているからだ。分析的経験もそこを出発点とすべきである。欲望はたんなる生の迸りではない。欲望は調和的な関係からは身を引き離す。転移は対象への道を切り開く唯一の方途である。しかし転移を退行的な反復とみなすと、要求の不充足という側面が見落とされる。現在、分析家らは患者を対象へと誘導すべく要求にみずから応えようとしている。そこから対象への「距離の調整」といったおかしな観念が出てくる。そこではあらゆる関係なるものに距離が想定されている。これは鏡像段階論の曲解である。転移関係と真正な「現実」を対置すべきではない。それは精神分析以前の心理療法への逆行だ。治療者自身の判断基準に患者の経験を合わせることになるからだ。分析の独自性は患者を[能動的な]話す主体とみなすことだ。欲望は不明瞭で根源的な衝迫の感情ではなく、彼方に位置する。このような欲動や衝迫をフロイトシニフィアン連鎖という時間的区切り(séquence)によって定義した。この衝迫はその源泉や対象や傾向から切り離し得る。衝迫それじたいからも切り離し得る(その傾向性が逆転し得るから)。衝迫は解体し得る。それはシニフィアン的な解体である。欲望はこのような区切りではない。欲望はこのような区切りにたいして主体を位置づける。それゆえ欲望は<他者>の欲望において反省される(se refléter)。家族の新たな一員への関係を例にとろう。新参者にたいして死の願望(いわゆる攻撃性)が向けられる。それは「死んでしまえ」というシニフィアン的分節である。動物であれば攻撃的な「動作」に訴えるところである。原初的な競合関係はシニフィアンに訴えるかぎりで無意識的である。シニフィアンであるからこそこの言明は「かわいいね」「こいつがすき」といった言明の背後に隠れる。このふたつの言説の間隙に欲望が関与する。クライン的な悪い対象が制定されるのもこの間隙においてである。

 ラカンにおいて欲望はファロス中心主義的であるとする声がある。クラインは玩具をファルス的な象徴と解釈する。この解釈を正当化し得るのは、子供にとって玩具がもっぱらシニフィアンであるかぎりにおいてだ。ファルスが欲望のシニフィアンとして最良のものであることにクラインが気づいているかはともかくとして。ファルスがシニフィアンとしてしるしざすものは、<他者>の欲望への欲望である。ファルスが特権的な対象となるのはそれゆえである。欲望において重要なのはファルス中心主義的ということではなく、欲望の対象が本能的な満足をもたらす対象ではないことだ。欲望の対象は欲望への欲望のシニフィアンであることだ。

 欲望の対象はそれじたい<他者>の欲望である。もしそれが無意識的な主体の「知る」ところとなるのであれば。<他者>の欲望が無意識の主体にたいして承認したいという願いとして、承認のシニフィアンとしてもたらされるかぎりでこの言い方は矛盾しない。欲望は承認のシニフィアンいがいの対象をもたない。

 欲望の対象のパラドクスを典型的に示すのはフェティッシュである。人間の交換する対象にはフェティッシュ的側面が内在するが、これは交換の規則的な性質によって隠されている。欲望の対象はシニフィアン的素材から借り入れられる。フェティッシュはなにかを隠す縁飾りであり、<他者>の欲望のシニフィアンの機能をこのうえなく表すものである。

 子供は母親の欲望に関わる。要求の主体は要求の外にいる。母親の欲望を子供はシニフィアンをとおしてしか解読することができない。このシニフィアンを分析家はファルスという基準によって量る。欲望のレベルにおける交換では、主体はaとなり、欲望の承認のシニフィアン、欲望への欲望のシニフィアンとなる。抹消された主体において、主体はもっとも根源的ないみにおいて想像的な主体である。分離(déconnextion)の純粋な主体、話された切断の純粋な主体である。切断こそパロールの設立される本質的なスカンションであるから。この主体は存在(それじたいがシニフィアンの刻印を受けている)のシニフィアンと組みになる。aは話す主体が対峙する存在の残余であり、いっさいの要求の残余である。

 かくして対象はレエルと合流する。現実(réalité)とは人間的な象徴(symbolisme)がレエル(réel)の首に繋ぐ有象無象の縄によってできている。

 対象において、レエルは要求に抵抗するものとして現れる。欲望の対象は「肯ぜない(要求を受け入れない)もの」(l’inexorable)そのものである。欲望の対象がレエル(シュレーバー参照)に合流するのは、レエルというかたちのもとにおいて欲望の対象が「肯ぜないもの」を最大限に体現するからである。肯ぜないものとしてのレエルは「レエルはつねに同じところに回帰する」というかたちで現れる。

 それゆえにレエルの祖型は天体に見出される。星々はおそよ現実なるもののうちでもっともレエルなものである。つねに同じところに回帰するものとしてのレエルを位置づけるのは裂け目という形態である。

 「ベルギー分析雑誌」における「過渡的倒錯」の事例、およびグローヴァーの類似の報告がふたたび俎上に載せられ、「ローマ講演」におけるエルンスト・クリスの剽窃恐怖症の事例に送付される。いずれにおいても分析家は患者の訴えが「現実」の中に存在しないと説得しようとする。かれらのいう客観性とは分析家の先入主にすぎない。

 欲望にたいする分析家の位置はどうあるべきか。文化とはロゴスへの関係における主体のひとつの歴史である。文化と社会とはエントロピーの関係にある。社会に移行する文化は解体の機能を孕む。それは欲望の機能である裂け目と同じものである。倒錯は諸機能の社会的安定化の規範への同一化への異議申し立てを反映している(フロイト神経症と精神病」参照)。ここでラカンはおもむろに昇華に言及し、昇華についてのグローヴァー論文を参照する。昇華は欲望が流し込まれる型(forme)である。フロイトによれば、昇華は性的欲動を空にする。むしろ欲動そのものが性的関係の実質ではなくてこの「型」であると言うべきなのだ。根本的には欲動は純粋なシニフィアンの作用に還元される。昇華において欲望と文字が等価となる。いっさいの「正常化」への異議申し立てとしての倒錯において、昇華は社会的な価値づけとは区別される。

 昇華はロゴスの秩序における創造的な仕事がなされる論理学的な主体(sujet logique)のレベルで起こる。

 欲望は「グラフ」のd, S barré ◇a, S(A barré), S barré ◇Dが形成する閉域に位置する。分析においては<他者>の欲望を分析家の欲望に引きつけてはならない。分析家は欲望の仲介者もしくは産婆という逆説的なポジションにいる。分析家はあらゆる要求の支えとして身を差し出しつつ、そのいずれにも応えない。分析家の現前のいっさいはこの拒否にあるのか? 切断はもっとも有効な解釈である。この切断のうちにファルス的対象が現前している。

 締めくくりとして謎かけめいたフレーズが投げ出される。「女性はその肌にきまぐれ(fantaisie)という肌理(ほんのすこしのきまぐれ)をもつ」(デジレ・ヴィアルド)。これは要求をさし向ける相手への主体の関係を表している。<すべて>をもちあわせる主体という観念もまた<母>という女性によってイメージされるが、精神分析パロールの切断によって新たなものへの裂け目を開ける。女性のきまぐれが精神分析のポエジーになぞらえられてセミネールは閉幕となる。

 

 

倒錯者のビー玉、あるいは<他者>の内奥の対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その21)

 

 第XXVI講(24/06/2107)

 

 欲動の部分的な性質ゆえ、対象への関係は部分欲動の組み合わせを以ってする。しかるに本能の観念は対象を求心的に捉える。

 倒錯的幻想は倒錯ではない。倒錯を「理解」しようとしてもその構造の再構成には至らない。『ロリータ』におけるi(a)のイマージュの象徴的機能は、作品の構成そのものに表れている。第一部と第二部の強烈なコントラストにおいて。主人公の旺盛な欲望が第二部では減退する。ここには神経症的な幻想にたいする主体の関係が読みとれる。倒錯的欲望は主人公ではなくその脅迫者に現れている。主人公の欲望が他人においてしか生きられないかのようだ。この置き換えは作品に明確に読みとられる。この他人は倒錯者である。対象との関係は主人公のこのようなネガ的人物に委ねられる。倒錯的構造を実現することができるのは外挿法によってだけである。欲望の倒錯的ポジションのうちもっとも根源的なのはマゾヒスムである。マゾヒスム的享楽はその責め苦において一定の限界を超えないことを要請する。この享楽の特徴のいくつかがこの享楽の媒体について明らかにする。そこに<他者>の言説への主体の関係がみとめられる。

 マゾヒストはかれの頭を通り越したところで周囲の人たちがかれの思惑にかかわりなくかれの運命をきめるという受動的な状況をおもいえがくことで享楽する。かれを主題(sujet)とする言説は幻想において明らかになる。この言説においてマゾヒストは無に帰される。これを第一歩として、いっぽうで死の本能、他方で切断(coupure)という支え、その両者の関係が描き出される。このうちの後者は非-存在の支えであり、あらゆる象徴化の根源そのものである。象徴化にとくゆうの機能は切断である。切断は原初的なエネルギーの流れが一連の選択肢に捉えられる「基礎的マシーン」を導入する。このマシーンはスキゾフレニーの原則にしたがって、切り離されたものとして(détaché)、じゃまものをとりはらわれたものとして(dégagé)現れる。そこにおいて主体は生の流れにたいするこのマシーンの不調和そのものに同一化する。

 ここには排除(Verwerfung)の典型的な現れがみられる。切断は言説の一部であると同時に言説の外部にもあるので、主体は切断に同一化するかぎりで排除されている(verworfen)。この切断を主体は恐れ、レエルなものとして知覚する。 

 これはデカルトとは別ヴァージョンの「われおもう、ゆえにわれあり」である。とはいえ、デカルトとまったく切れてはいない。デカルトを越えている点は、主体がかかわる言説が主体を逃れ、主体がそれと知ることなく二者であることだ。主体はこの言説の切断であるかぎりで至上の「われあり」である。この「われあり」の特異性は、言説に区切りを入れる可能性のうちに主体はみずからをとらえるという点にある。主体の本質的な存在はこの特性に宿る。「というのも、主体が世界のなかに根源的に導き入れる唯一のレエルなものの闖入(intrusion)は主体を主体としてはそこから排除するから」。

 神経症は父の隠喩、つまり対象を独占的に(paisible)享楽する父というフィクションを経由する。それゆえに倒錯的なものを犠牲にする。父の隠喩はある換喩の仮面である。法の主体としての、享楽の独占的な保持者としての父の隠喩の背後に去勢の換喩が隠れている。

 息子の去勢は父の去勢の継続であり等価物にすぎない。フロイト的な父の神話の背後に控えるあらゆる原始的な神話がそれを示す。天上の王国に到達するまえに、クロノスはウラノスを去勢し、ゼウスはクロノスを去勢する。

 くだんの換喩のいみは、ただひとつのファルスしか問題でないということだ。神経症的構造においてこれは知られてはならないことだ。神経症者は<他者>の名においてしかファルスたりえない。神経症者はファルスをもたない。これが去勢複合の謂である。それゆえファルスをもっているだれかがいるのだ。神経症者の存在はそのだれかに依存している。

 神経症者の欲望はシニフィアンの善意(bonne foi)に依存している。神経症者はこの神話的な保証人に繋ぎとめられることで平常心をたもって生きていられる。神経症者の欲望は神がいない時代において生まれる。

 神経症者は発つことのない旅の荷造りに没頭している。

 倒錯者においても亀裂が問題になっている。倒錯者の主体も切断においてみずからの存在を表象する。ギレスピー論文「フェティシズム論」「性的倒錯の分析についての覚書」「倒錯の一般理論」の参照が促される。そのsplittingの観念は、亀裂あるいは切断への主体の同一化ということを視野に入れている。ふたつめの論文中のフェティシズムの症例においては、患者が犯した母親がけむくじゃらのゴリラのようないきものとなって歯で患者を二つに裂くという幻想が報告される。生き物の切っ先は患者のそなえている女性の乳首を切り取り、肛門と直腸を足蹴によって引き裂く。この幻想における解体と再構築にギレスピーは去勢不安をみる。母親の原初的な要請、および女性器と裂け目のクライン的同一視。ギレスピーはフロイトの遺稿にインスパイアされ、ここにsplit ego および split object に関係した幻想をみてとる。「女性器は典型的な split object ではないか? split ego の幻想はそれへの同一化に発していまいか」。

 自我の分裂に関してジイドが再召喚される。ジイドにおいて splitting はじぶんじしんの自己愛的イマージュi(a)への同一化と母親への同一化の対立として現れる。ジイドの幻想においては欲望と手紙(lettre)の関係が問題になる。昇華の過程を欲望の象徴において表出される生産物への転換として位置づけること。この生産物は現実をシニフィアン的諸部分へと解体することからなる。「昇華は欲望の袋小路をシニフィアンの物質性へと転換することに存する」。ジイドの同性愛は分裂した対象への主体の関係に発している。一方では自己愛的な対象。これへの関係においてはファルス的属性の現前が重要である。他方で女性への極度に理想化された愛。ここでは母親への関係が関わっている。現実的な母親のみならず、ひとつの構造を隠しもつ母。そこにおいては悪い対象が重要である。

 ジードの二つの幻想が参照される。ひとつはジョルジュ・サンドの短編小説で、木に変身したグリブーユの物語。いまひとつはセギュール夫人の「マドモワゼル・ジュスティーヌの晩餐」で主人の留守に乗じて使用人らがごちそうにありつくエピソード。後者においては切断への主体の関係は性的イニシエーションに関わる。前者の幻想においては、切り離されたものへの主体の関係がファルスへの主体の同一化をあきらかにする。ファルスは母親の内的対象の幻想化である。

 神経症者の換喩においては、主体はファルスをもたないかぎりでファルスである。このことは明らかにされてはならないのだ。それゆえ分析が進むにつれ、去勢不安が高まる。

 いっぽう倒錯においては、証明の過程の逆転がある。神経症者において証明すべきこと(つまり欲望の残存)が倒錯においては証明のベースとなる。いわば背理法の称揚である。

 倒錯者はただひとつの項において「かれはファルスである」と「かれはファルスをもつ」を結びつける。そのためには<他者>へのきわめて特殊な同一化が可能にするわずかな開口部がひつようである。つまり、「かれはファルスである」はこのばあい「かのじょはファルスである」なのだ。この「かのじょ」は原初的な同一化の対象である。かれのほうはファルスを相手のなかにもっている。フェティッシュとしてであろうと、偶像としてであろうと。

 その結びつきは自然的な支持体のなかにうちたてられる。倒錯は切断の自然的擬態(simulation)として現れる。じぶんがもっていないものを主体は対象のなかにもつ。主体がそうでないところのものに、かれの理想的対象がなる。つまり、ある自然的な関係がこの主体的亀裂の素材としてとらえられる。倒錯においても神経症においても問題になっているのはそれを象徴化することだ。主体は母の内的対象としてのファルスであり、かれはそれをみずからの欲望の対象のなかにもつ。これが男性同性愛者のケース。女性同性愛者のばあいはどうか? フロイトの「女性同性愛者」も母親の内的対象としてのファルスである。飛び降りることで患者はこの母親の属性に同一化する。じぶんのもたないファルスという崇敬の対象を同性愛の相手にあたえることでこの相手を最大限に理想化するのだ。

 神経症者は自我を相手のイマージュに置き換えることでじぶんがファルスであることを証明するひつようがない(Φ◇i(a))。同性愛者においては、原初的な象徴的同一化と鏡像的な自己愛的同一化の関係が問題になっている。同性愛者においては、母への原初的関係への象徴的な同一化と最初の諸々の排除(Verwerfungen)とのあいだにすでに分裂(schize)がある。これは鏡像i(a)への想像的な第二の同一化において分節される。これを主体は幻想的関係においてみずからを書き込む項(亀裂)を象徴化するために利用する。

 神経症者においては、<他者>の欲望が主体を恐れさせる。同性愛者においてはぎゃくに、この欲望は母親から生じたファルスのなかにみずからの象徴を見出し、これを核として倒錯の構築のいっさいが組織される。それゆえ<他者>の欲望はなによりも近づきがたいものである。 

 ジイドは母親の人格をこえてその核心(cœur)に同一化する。神経症者においては欲望は際限のない要求の彼方にある。倒錯者にとって欲望はあらゆる要求の核心にある。『一粒の麦もし死なずば』には、くり抜かれた木の節のなかのビー玉をほじくりだすために一年間かけて小指の爪を伸ばすが、いざ取り出して見るとつまらぬ物体に変貌してしまい羞恥に駆られるというエピソードが紹介されている。このビー玉はSublimierung において廃棄された対象の典型であり、内的対象にたいする倒錯的主体の関係を端的に示す。それは<他者>の内奥にある。ここで本質的なのは<他者>(母)の欲望の想像的次元である。欲望のレベルにおいては、倒錯者はファルスの想像的形態に同一化している。

 

倒錯者としての女性:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その20)

 第XXV講(17/06/1959

 

 誤りや迷いは啓発的であるとの言葉を枕に、「国際精神分析雑誌」に掲載された倒錯論が俎上に載せられる。著者らは倒錯的幻想と倒錯とを混同している。幻想のレベルでは神経症者と倒錯者の根本的な相違はない。著者らは倒錯をアブノーマルに性愛化された関係に還元している。

 フロイトは無意識には多形倒錯的な諸傾向があると書いている。多形倒錯の観念は古びたとはいえ、フロイトが無意識的幻想の構造を発見していることを見逃してはならない。フロイトによれば、それは倒錯において明るみに出される関係の様態に似ている。

 倒錯者がその幻想において演出するものは映画のシークェンスのように提示される。予告編映画のようにいくつかの映像が筋立ての文脈から切り離されて映し出される。倒錯者の幻想も同じである。分析がその映像を主体の歴史のなかに位置づけ直す。しかし脱落の仕方が欲望の位置を指し示す。つまり欲望は名付け得るものの彼方にあり、主体の彼方にある。幻想の告白にともなう(滑稽さゆえの)気まずさは欲望の位置と喜劇との関係によって説明される。倒錯者の幻想は根源的で自然的なものであろうか、もしくは神経症の症状のように複雑に加工されたものであろうか?

 倒錯における対象関係はアブラハムフェレンツィ以来、進化論的・発生論的にとらえられてきた。部分対象と全体的対象との対立も、「対象への距離」も不十分な概念である。対象への無媒介的な関係という観念が神話にすぎないいじょう、欲望にかんして距離という観念は不可欠ではあるが。グローヴァーも発生論的な観点から周囲の現実への主体の関係を重視している。原初的なパラノイア的段階から強迫神経症的段階への移行が想定されている。前者は投射と取り込みのメカニズムに則る。クラインどうよう、幻想に現実を構成する機能が帰される。クライン論文「自我の象徴形成」によれば、幼児にとってまず対象は不安の源泉であり、その結果、周囲にたいしてサディズム的な攻撃性が向けられる。ついでもっと良性の対象に移行し、これがこんどは不安を催す。ここには反恐怖症的なメカニズムがある。反恐怖症的な対象が恐怖症的な対象にとって代わり、それじたいが恐怖症的になる。それゆえ反恐怖症的な弁証法によって諸対象の世界が拡張し、現実が克服される。グローヴァーはさまざまな倒錯を自我の規則的な発達という観念に統合しうるメカニズムのうちに位置づけようとしている。主体の構造化は現実の克服という観点からとらえられている。

 ラカンの恐怖症の観念は最近のフランスの分析家らの観点と相容れない。後者は恐怖症の発生を幼児的経験の構造的諸形態によって再構築しようとする。純粋に経験的(実験的)な発生を問題にしている。ラカンが問題にするのはシニフィアンであり、それは周囲の現実をふくめていかなる現実にも送り返されない。言語の現実いがいには。主体は言説のなかに身を持し、そこで存在として顕れる。

 グローヴァーは倒錯を発生論的に位置づけるにあたり、倒錯において歪められた現実に合わせて倒錯を細分化して序列化する。妄想期に対応する倒錯があり、抑鬱期、男根期、エディプス期、性器期のそれぞれに対応するそれがあるといったように。結果、倒錯は現実吟味の一形態と定義される。現実吟味が失敗すると倒錯がその穴を埋めに来る。

 それゆえ倒錯は主体にとって現実の保持という機能を保証する。現実の繕いにして要石である。それゆえグローヴァーにとって、倒錯は精神病の脅威にたいする救済である。

 クライン的弁証法は妄想段階と抑鬱段階を区別する。後者において主体は一者としての母親という優勢な対象に関係づけられる。クラインにとって、対象はよいかわるいかをこえて意味をもっている(significatif)。よい対象とわるい対象の対立において問題になっているのは、対象そのものからシニフィアン的対立への移行である。クラインはシニフィアンの機能の原初的な諸形態を記述している。主体が内部と外部をもつのはみずからを一者とみなす瞬間からである。その瞬間から投射と取り込みが起こる。これは鏡像段階に対応する。対象の世界を現実的に主体の存在に沿って秩序づける言説は主体が鏡像段階という試練においてみずからを認める言説をはみだす。理想自我i(a)ーー分身のイマージューーは主体の一部であると同時にそうではない。クラインはそれを「内的な悪い対象」と呼ぶ。これは逆説的な観念である。禁止の機能がそれにケリをつける。主体がこの悪い対象であるのなら、主体はそれをもたない。主体がそれに同一化している(il est identifié)かぎり、主体はそれを所有することを禁じられる(il est défendu qu’il ait。ダジャレらしい)。

 主体は悪い対象のレベルでコントロールmaîtrise)を発揮する。真の主人(maître)が主体に悪い対象の限定された使用を委ねる。それが「要求できない対象」であるかぎりで。論文「自我の発達における象徴形成の重要性」の幼児は「要求できないもの」という袋小路に置かれているが、はじめて手にしたハサミで紙を切り出し、汽車を繋げて遊ぶことで、シニフィアン連鎖から切り離した小さな一片という「残余」にみずからを位置づける。 

 一般的に満足とは充足感(bien-être)であるが、欲望は要求ではない。女性のエディプス複合が想起させられる。女性が要求するのは充足ではなくじぶんが持っていないもの、ファルスである。女性における欲望の成熟の弁証法は自然過程には還元されない。じぶんが男であったばあいに現実的に持っていたはずのファルスを要求する。それゆえそれはシニフィアンであり、女性は欠如(en moins)というかたちでそれを経験する。女性においては愛する存在との完璧な性器的融合の余地があるが、それはある限界点においてだけであり、女性はつねにファルス的対象から切り離されている。女性はシニフィアンとしてのファルスそのものに関わっているので、男性にとっては去勢の脅威をもたらす。女性は<他者>の欲望の対象であるかぎりでじぶんがファルスを持たず、象徴的にファルスであることにたいして無意識的である。無意識において、女性はファルスであると同時にファルスを持つ。女性は欲望においてしかそれを知らない。女性と倒錯者との間に親近性があるのはそのかぎりにおいてだ。女性はじぶんから切り離され得るあらゆる対象をファルスとみなす。学説によればその筆頭は幼児期の生産物であるとされる。じぶんから切り離された対象は欲望の対象の機能を持つことになる。女性に倒錯者が滅多にいないのはそのためである。文化的なコンテクストにおいては女性の満足は分離の弁証法に位置づけられる。欲望のシニフィアン的対象の弁証法である。男性に比べて女性に倒錯がすくないのは、女性は倒錯的関係を子供との関係において満たしているからだという説もある。

 女性の嫉妬の方が男性のそれよりも根源的である。第XX講の「要求の図表」が参照される。現実的<他者>がシニフィアンに失墜する(A barré)と同時に主体は抹消される(S barré)。その分割(除法)の残余がaという「要求し得ないもの」である。主体(女性)はこの残余のうちにみずからのうちのもっとも本質的なものをみてとり、みずからを愛の対象とする。女性がパートナーの欲望の顕われを重視するのはそのためだ。

 愛と欲望はべつものである。ある人を愛し、別の人を欲望することは可能である。あらゆる愛の昇華の彼方で、欲望は存在への関係をもつ。たとえどんなに限界づけられ、どんなにフェティシズム的であり、どんなに愚鈍であろうとも。幻想において、盲いた者としての主体は、もはやもじどおり一個の支え、一個のしるしでしかない。<他者>との諸関係のシニフィアン的残余としてのaというしるしである。aにこそ女性は最終的な証しという価値を結びつける。<他者>が愛をさしむけているのはかのじょであるという証しの。

 男性がある女性を全身全霊で愛し、他方で別の女性の靴とかドレスの裾とか白粉とかを欲望するとき、存在へのオマージュが捧げられているのは後者においてである。

 ファルスの機能に際してふたたび「内的な悪い対象」が想起させられる。父の名は対象のうちに解離(dissociation)をもたらす。それは禁止の形態である。ファルスであることないし持つことの禁止である。

 主体がファルスであるのであれば、ファルスを所有し、使用することはできない(インセストの禁止)。いっぽう、ファルスをもつのであれば、主体はファルスであることはできない。「要求不可能な対象」は「あれかこれか」の選択を強いる。

 神経症者はこの二者選択を換喩的に利用する。この換喩は退行的である。「かれはファルスではない」が「かのじょはファルスをもたない」にとって代わられる。

 神経症者はファルスをもたないことを、隠れた形で(無意識的に)ファルスであることの確証とする。前講の末尾における pour être がこれである。

 ファルス「をもつ」のはじぶん以外の他人である。たいして神経症者は無意識においてファルス「である」。欲望する者となる際に、主体は代理人(substitut)を立てる。これが神経症の根本である。強迫症者はじぶんで享楽しない。ヒステリー者のばあいにも、享楽の対象となるのはかのじょではない。

 主体が自我へと想像的に代替される。欲望の問いに要求が介入する。この置換が欲望の弁証法だ。 

 それゆえ神経症者は代理物(substitus)しか要求しない。神経症者の要求はつねに別のものの要求である。神経症者の退行的な換喩は終わりをもたないから。それゆえ欲望のレベルにおいて、主体はじぶんじしんに置き換えられる。欲望しているものを要求しているとおもいこんでもっぱら代替物を要求している。

 主体が何かを要求する人に自我が置き換えられている。誰よりも神経症者において、この切り離された自我は欲望の対象の原初的な形態である切り離された対象の代わりをする。

 神経症者の愛他主義は、「満足のために身を捧げる」ことである。他人に身を捧げつつ、神経症者はみずからの不満足にたいして盲目である。神経症者において、抹消された主体はファルスへの存在の同一化に変化する。つぎの式が提示される。Φ barré(=抹消されたファルス) i(a)