lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

コレクターとしての人間:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その4)

 

第五講(10/12/1958)

 

 否定(Verneinung)の Je ne dis pas は言わないと言いつつ言っていることにおいて「シニフィアンのもっとも根源的な特徴(propriété)」を体現している。フライデーの足跡はそれじたいでは痕跡にすぎず、それが消されるとき(十字が刻印されるとき)シニフィアンとなる。ピションは否定にかんして排除的(forclusif)と不調和的(discordanciel)を区別している。後者は ne 単独での用法に対応し(「虚辞」と言うべきではない)、それは言表行為と言表のはざまに位置する。言表行為のレベルでは否定はシニフィアンの分節そのものに向けられる(「私は私があなたの妻であると言わない」)。言表のレベルでは「私はあなたの妻ではない」となる。これはフランス語に特有の現象ではない。

 

 主体と<他者>の弁証法言表行為と言表弁証法に帰される。主体は思考が<他者>のディスクールであるがゆえにみずからの思考を<他者>がすべて知っていると想定するが、実は「何も知らない」ことを発見する。そして思考の「言われざるもの」(無意識)のうちにみずからの「存在」を見出す。哲学的伝統は主体を対象(客体)の影と捉えてきたが、精神分析は「語る主体」をそれに対置する。精神分析は対象との関係を欲望によって捉え直す。精神分析における対象は欲求の対象ではなくすぐれて欲望の対象である。「対象は主体がみずからの実存に対峙する際の支えになるものである」。この実存とは「もっとも根源的ないみでの実存」つまり言語のなかに実存しているということだ。つまり対象は主体の外部に在り、主体が対象をつかまえられるのは、主体がシニフィアンの背後に消失するときだけである。この「パニックの地点」において主体は欲望の対象としての対象にしがみつく。それは端的に「宝石箱を盗まれたときに守銭奴が失うもの」(ヴェイユ重力と恩寵』)である。あるいはより「高貴な」例を挙げるとすれば、蒐集家のコレクションである。ルノワールの『ゲームの規則』におけるオルゴール蒐集家が最新のコレクションを披露する際の「恥じらい」。対象にたいする主体の「情熱」において見出される「揺らぎの地点」。それは「欲望の対象」がまとうひとつのかたちである。「かれが見せるのはかれじしんのもっとも親密な核心であろうか。否。というのはこの欲望によって支えられているものは主体がじぶんじしんにたいして明かすことのできないものだから。それはもっとも大きな秘密というべきものである」。主体はみずからの願いを「秘密」として言い表す。

 ここで、接続法ではなく不定法を用いた願望の表現としてリーズ・ドゥアルムの詩(「密かな願い」)が引用される。Etre une belle fille / blonde et populaire / qui mette de la joie dans l’air…ここでは願望の主語(主体)が完全に省略されているわけではない。ここで願望は主体の前に(devant)表現(分節)され、遡及的に主体を定義する。ここで表現(分節)されているのは単なる願望ではなく、あるしゅの「存在」のなかで遡及的に主体を定義するものとして主体の前に位置するなにものかである。これはまったく en l’air な状態にある。願望されたものが表現されるのはすべからくこのようにしてである。ここで、『夢解釈』の結びの一節が引用される「破壊できない欲望が現在[原語はZukunft]を過去に似せてかたどる」。ここには反復や事後性といったこと以上のなにかがかかわっている。ロバの鼻先につり下げられた人参のようにそれは永久に主体の「前に」ある。

 「密かな願い」は願望を詩によって表現しているが、そもそも隠されたものをいかに他人に伝達し得るのか。なんらかの嘘によってである。詩では「わたしがブロンドで人気者の女の子であるという嘘と同じくらい本当」というかたちで願望が表現されている。「くうきのなかによろこびをおく」ことは換喩的な幻想の対象である。

 

 グラフにおいて欲望は、シニフィアンの連鎖において疎外される主体と、言われざるものの次元が導入される彼岸とのはざまに位置する。「死んでいる父の夢」における「彼は知らない」「彼は死んでいる」がそれぞれグラフの下段、上段に位置づけられる。みずからの正体を知らない主体は「彼は知らない」という意味不明な(inutile)言表のうちにみずからを位置づける。この言表は上段の「彼は死んでいた」によって支えられている。「彼は死んでいた」は話さない存在にとっては意味をもたない。動物は同類の遺骸に無関心である(犬には超自我はあるが無意識はない)。「彼は死んでいる」はすでに実存の秩序に導入されている主体を前提している。つまりシニフィアンの連鎖に組み入れられているかぎりで破壊不可能な主体を……。

 夢の「四つの要素」が二人の登場人物(主体、父)に振り分けられる。主体の側において「彼は死んでいた」は苦痛の対象である。父の側において「彼は死んでいた」は「彼は知らなかった」の内容である。「かれの望みによって」がこれに加わる。フロイトによれば夢の意味は「かれの望みによって」のなかにある。「彼は彼の望みによって死んでいた」が『コロノスのオイディプス』における「むしろ生まれなかったほうが」へ送り返される。

 オイディプスが「むしろ生まれなかったほうが」と言うのは欲望そのものへの罰としてである。夢見の主体の「苦しみ」は「実存の苦しみ」である。この苦しみを主体は知っていた。父がこの苦しみを知っていたかどうかはわからないが、息子がその苦しみを継承する。夢ではこの苦しみがシニカルで不条理に表現されている。『夢解釈』に言われるごとく「不条理な夢」はときとしてことのほか激しい「苦しみ」の表現である。

 主体は父が死んでほしいという願いがかつて父にではなくじぶんじしんに向けられた願いであったことを理解している。とはいえ、父の苦しみをじぶんがそれと知らずに引き受けていることは理解していない。「彼は知らなかった」というかたちで主体が父という対象の人格に帰している無知を、主体はじぶんが「生まれないほうがよかった」ことを知らずにいるために必要とする。実存の果てにあるのが実存の苦しみでしかないのであれば、他人の実存の苦しみとしてそれを引き受けたい。この願いのもっとも秘められた内容である最終的な謎を知るよりは……。この密かな内容とは父の去勢である。この究極的な願いは、父の死によってみずからに跳ね返ってくる。みずからの去勢にはなんとしても目を塞がなければならない。父を去勢する欲望は、欲望の構造のもっとも基底にある“シニフィアンによる去勢”という必然を隠蔽することに役立っている。この必然を表すのは「彼の望み」ではなく「によって」のほうの本質的な機能である。抑圧とは主体が無知という救いのうちに消失することである。抑圧の原動力は完全なかたちで現れるものでも完全なかたちで理解されるものではなく、「によって」という一個の純然たるシニフィアンの省略である。この「によって」が言表行為と言表の関係(一致ないし不一致)を規定する。かくして単独では意味作用をなさない「彼は知らなかった」のいみが夢の欲望において明らかにされる。

 

 次回はガリバルディの恰好をした父に会った夢における「フロイトの欲望」が明らかにされるだろう。「死んでいる父の夢」は死への主体の対峙を表す典型的な夢である。夢における死の出現は主体が死ぬ代わりに苦しんでいることをいみしている。この苦しみの背後に父殺しへの想像的固着(幻想)という罠が潜む(S barré ◇ a)。

 この公式の意味するところは以下のとおり。シニフィアンの行為によって抹消された(斜線を引かれた)主体は、他者(l’autre)の中にその支えを見出す。この他者は語る主体にとって対象そのものとなる。この他者は人間のエロスを支配する対象である。この他者はみずからの身体のイマージュである。ひとつの影にすぎないこの幻想のなかに人間の実存は支えを見出し、語る主体でありつづけることを可能にするヴェールを維持する。

 

 

タンタン・マニアとしてのラカン:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その3)

 

第4講(03/12/1958)

 

 快と欲望の区別についてのグラノフの発表を踏まえて快の定義が確認される。一次過程においては欲望が「細分化」されている。幻覚(局所論的退行)とは<興奮→運動>という回路(反射弓)が塞がれたとき、行き場を失った興奮が幻覚的表象に満足を見出すこと。幻覚をホメオスタシス的な電気回路(電流による「点灯」)としてイメージしたことはフロイトの独創である。フロイトは表象を「タイポロジー的空間」における刻印の連続として定義している(「シニフィアントポロジー」)。二次過程は動物における本能に対応するが、満足をもたらす対象はあってもそこへ至る道筋はあたえられていない。一次過程において召喚されたシニフィアンの「批判」は批判の対象となるものを除去せず、それじたいシニフィアン的次元にある現実指標によって複雑化する。表象は一挙に欲求を満足させるものではなく、スロットマシンのように正しい穴に球が入ると電球が点灯するのだが、正しい穴とは以前に球が入った穴のことである(一次過程において求められるのは新しい対象ではなく、再発見すべき対象である)。一次過程の目的が電球を点灯させることであるのにたいし、二次過程の目的は電球の点灯によってあらかじめマシーン内にストックされていたコイン(つまり現実)をじっさいに出すことである。

 

 『夢解釈』「願望成就としての夢」の章におけるアンナの夢(「アンナ・フオイト、苺、野苺……」)にフロイトは「裸形の欲望」を見てとっているが、この文における一連の命名はシニフィアン連鎖であり、それゆえ欲求(besoin)の対象をちょくせつ指し示すものではない。出だしの「アンナ・フオイト」はいわば電話における名乗りである。アンナの夢はグラフの上段、下段のいずれに位置しているのか。グラフの下段は連続的であり、普遍的ディスクール、要求(demande)をあらわす。これは完結した文(holophrase)に対応する。その典型は間投詞である。とはいえ「パンを!」という要求はその主体に送り返される。これがグラフの上段に対応する。この主体(言表行為の主体)はみずから名乗る(s’annoncer)ことなく、文がおのずから主体の名を告げる。対してランガージュ(言表)において人間主体はみずからをそのうちに算入する(se compter)。ビネが引く「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」という文は言表の主体と言表行為の主体の混同を表している。幼児の発達におけるこの区別の獲得は、ピアジェの言う人称代名詞の使い分けについての諸段階よりも重要である。

 アンナは禁じられている(inter-dit)ものを言葉にすることで満足を得ている。抑圧の関与している大人の夢においては事態はより複雑である。「国王がばかだという人は誰であれ斬首される」という無意識的な検閲が斬首される懲罰夢を見させるというセミネール第2巻の例が想起させられる。ついでにタンタン・マニアぶりを発揮しつつ、検閲をかいくぐる別の仕方として「タピオカ将軍はアルカザール将軍ほどの人物ではないと言う者は誰であれ私が許さない」という文言が提示される。これはいずれの将軍の支持者をも満足させず、両将軍の支持者をそれ以上に満足させない(タピオカを擁護しているように読めるけれども、実際に「タピオカはアルカザールほどの人物ではない」と言っているからだろう)。アンナは「だめと言われている」シニフィアンが実際には言われ得るものであることを知っていた。「欲望の真理はそれだけで法の権威にたいする攻撃である」。「言われざること(non-dit)が言われざるままであるためにはそれを言表行為のレベルで言わなければならない」。言うことができるから言わずにおくこともできるということであろう。文法は接続法や「虚辞」によって言表行為と言表のレベルを分節している。子供はこの二つのレベルの区別を知らないので大人は何でも知っており、じぶんの考えも見透かされていると思っているが、やがてそうではないと知る。ここで話題は「死んでいる父の夢」(「父は知らなかった……」)とクロスする。知と死の関係という観点からこの夢が解釈されることが予告される。

 

 

主知主義的精神分析宣言:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その2)

 

 第2講(19/11/1958)

 

 「抑圧されたもの」「欲望」「無意識」――この三者の区別が問われ、グラフ上に位置づけられねばならない。グラフの上階と下階との関係は建築学的(architectonique)なモデルに則ってはいない。グラフはディスクールなので、すべてを一度に言うことはできない。ディスクールはすべからく<他者>のディスクールであり、それゆえ上階と下階の区別は恣意的であり、両者は相似的である。グラフの目的は「語る主体」とシニフィアンの諸関係を見せることである。言表行為(「パロールの行為」)の主体もしくは語る主体もしくは「真の主体」がグラフの上段に、言表の主体もしくは「語られた主体」もしくは shifter としての je がグラフの下段にそれぞれ位置づけられる。デカルト的「われ思う」(「自我の超越」のサルトルが援用される)、命令法における主体、”Tu es celui qui me suivras.” における je は shifter としての je ではない。フロイトによれば、主体は語りつつみずからの為していることを知らない。グラフ上段の Che vuoi? は「主体の話す行為にたいする<他者>の答え」であり、それは問いいぜんにあたえられている答えである。主体はこの答えを手にいれることができない。これは去勢に関わり、したがって分析の終了に関わる。

 

 『夢解釈』における Wunsch とは欲望そのものではない。Wunsch とは「言語化された欲望」「分節された欲望」である。性的欲望は Wunsch の逸脱した形態である。『夢解釈』第7版以後、フロイトは欲望は性的欲望に帰されないと明言している。

 「私はあなたを欲望する(Je vous désire.)」は「汝の意志が果たされんことを(Que votre volonté soit faite! )」の逆であろうか。否。「わたしはあなたを欲望する」と言うとき、欲望の対象とみなされている「あなた」は主体の「さまざまな欲望の共通項」にすぎない。この文は「あなたは美しい」と述べているにひとしく、相手の美が醸し出す曖昧な神秘に欲望が帰されているのであり、「わたしはあなたをわたしの根源的なファンタスムのなかに関与させる」と言い換えることができる。そのかぎりで欲望はファンタスムの構造に規定されている。

 フロイトは「無意識」を「抑圧されたもの」に帰している(メタ心理学論文)。そして抑圧されるものはもっぱらシニフィアン的要素である。第二局所論に欠けているのは「ランガージュの根本的に隠喩的な機能」である。

 

 

 

 第3講(26/11/1958)

 

 夢の基底であるかぎりでの欲望が定義されねばならない。夢における欲望はまず眠りつづける欲望、現実をシャットアウトする欲望としてあり、また死の欲望としてある(両者は両立可能)。Wunsch の主体は死の欲望において充足を得る。何にたいする充足なのか? 充足されていることにたいする充足である(il se satisfait de l’être.)。Wunsch の充足は言語的充足である。上の文における être の実体は être という語以外のなにものでもない。

 

 現代心理学における原子論にたいし、イギリス起源の観念連合理論(associationnisme)が擁護される。観念連合理論はもともと現実界シニフィアンの連鎖によって断片化され、構造化されている場ととらえていたが、新心理学はこの現実界を適応すべき環境(Umwelt)と誤解した。観念連合理論は主体の精神において諸観念の連鎖をみてとる。その諸観念は近接性つまり換喩のメカニズムにしたがう。精神分析と心理学のベクトルはけして逆向きではない。

 

 フロイト「無意識」論文において Triebregung と区別されるかぎりでの Vorstellungsrepräsentanz の概念がシニフィアンのそれに帰される。これが無意識の実体であり、「無意識の主体」を規定する。無意識は情動に帰し得ない(ラカンは「主知主義精神分析」を以て任じる)。グローヴァーの唾棄すべき論文は多くの論者と異なり情動を前景化させていない点で正しい。無意識のうちに実体としての情動はない。情動は欲動という量的観念に還元されている。「無意識」論文のいくつかのくだりが引用され、このことが確認される。

 

 「精神現象についての二原則」における「死んでいる父の夢」がとりあげられる。無意識的欲望が明確に示されているこの夢においてフロイト的な表象代表の概念が理解され得る。一次過程における欲望の充足(幻覚)はイマージュでも知覚でもなくシニフィアンに関わる。夢は wishful thinking ではない。くだんの夢が呼び起こす「苦痛」はそのような観念にふさわしくない。この夢においてはあるしゅのシニフィアンがその欠如によって生み出されるものであることが示されている(抑圧とはシニフィアンの減法である)。そのシニフィアンを補うことによって「夢の知性 Verständnis」(フロイト)を復元(解釈)できる。省略されている「彼が望んだとおり」というフレーズは、それじたいでは意味を欠いた空のフォルム(表象代表)であり、後続する文に依存する。つまり抑圧されるのはシニフィアンであり、イマージュでも対象でもない(マールブルク派の「イメージなき思考」への脱線のあと、ブレンターノの表象概念の影響がほのめかされる)。抑圧(フレーズの欠損)は新たな意味をうみだす(「意味の効果」「シニフィエの効果」)。欠如した項を空白、零(「零は無ではない」)で「置き換える」ことであるかぎりでこの省略は「隠喩的」効果をもつ。「夢はひとつの隠喩である」。

 

 「死んでいる父の夢」については本講義ではとりあえずこのことだけが確認され、つづきは次回以降にもちこされる。以下、今後の課題と『ハムレット』読解の序曲めいた妄言。

 

 夢の隠喩においてうみだされる新たな意味はそれじたい謎めいたものである。この夢における死者という「存在」は降霊術師の呼び出す「影」にもひとしい。「影」の話す言葉の真理は降霊術師にも口にできない……。

 

 ところで、くだんの夢における父との出会いというシナリオはファンタスムであろうか? 夢のファンタスムは白日夢におけるそれとは別物である。

 

 「彼は死んでいる」「彼は知らない」「かれの望みどおり」という三つのシニフィアンを主体の連鎖とシニフィアンの連鎖の経路の上に(「トポロジー的」に)位置づけねばならない。これらは抑圧されているが、夢のレベルではそうではない。

 

 この夢における無知と精神病における méconnaissance(「それについて何も知りたくない」) との関係は?そして日常生活においてもわれわれは半死半生の存在(demi-mort)と共存している……。

 

 

スピノザの徴の下に:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その1)

*セミネール第6巻『欲望とその解釈』(Le Séminaire Livre VI : Le désir et son interprétation, Seuil, 2013)

 

 精神分析は療法(thérapeutique)というよりも処置(traitement)であり、それが対象とするのはまず夢や機知などの「周縁的で残りものの」現象である。また広義の「症状」である。症状とはさまざまな「制止」のあらわれである。さらに traitement は構造を変容させるものである。とくに神経症という構造である。フロイトは当初これを防衛神経精神病として構造化した。精神分析はこれらの現象に欲望が作用しているかぎりで処置の対象とする。周縁的にして残りものである欲望はフロイトによってまずさまざまな症状のなかに発見された。症状を規定する重要な要素である「不安」は、症状にかかわる活動がエロス化されるというかたちで欲望のメカニズムにくみいれられる。神経症はまず防衛神経精神病と規定されたが、それは何からの防衛なのか。欲望からの防衛である。リビドーもまた「欲望の心的エネルギー」である。「エネルギー」は現実界象徴界の連結を導入するために不可避の概念である。精神分析理論がリビドー概念に立脚しているのはリビドーが「欲望のエネルギー」であるからにほかならない(こうしてセミネールの主題としての欲望に脚光があてられる。制止、症状、不安というフロイトの重要論文のタイトルを構成する各用語がここで出そろっていることにも注目しておこう)。

 

 ついでリビドーが[快ではなく]対象を指向するべくさだめられているとする対象関係論への疑義がなげかけられる(object-seeking / pleasure-seeking というフェアバーン的概念)。つづけて、詩における欲望の扱われ方が一瞥される。詩において欲望は「主体のシニフィアンへの諸関係」にかかわるとされ、「欲望との関係における詩作」という問題意識が提示される。詩において欲望がかかわるのは歌われる対象としてではないことが確認され、そのような「具象的」詩人の対極にある形而上学詩人ジョン・ダンにおいて「欲望の諸関係の構造」が探られねばならないとされる(この主題はじっさいには本セミネールのひとつのクライマックスをなす『ハムレット』の分析においてとりくまれることになるだろう)。

 

 ついで話題は哲学へ飛び、快楽主義的伝統における対象と快の一致がアリストテレス的な「主人の倫理」における快と善の一致を導いたとされ、それがカント的な実践理性と対置させられる。アリストテレスは欲望(エピテミア)という制御不能なものが自我の範疇からはみだすことをみてとり、これを獣性の範疇に組み入れた。アリストテレスにおける人間と主人の一致はこうして保証されている。獣性というかたちで倒錯という範疇を予見したことにアリストテレスのモダニティがある。そして、欲望を人間の本質として位置づけたスピノザ精神分析の先駆がみいだされる。このあとラランドの哲学事典の定義へのよりみちがあって、おもむろに欲望のグラフへとたちもどる。

 

 グラフの「構築」(≠「生成」)において主体がたどる諸段階は「発達」の諸段階ではなく、「論理[学]的」な世代交代である。第二段階までのおさらいは端折るとして、第三段階において本年度の主題である欲望がかかわってくる。欲望(グラフの第三段階における「d」)における言語の裂け目(béance)のなかに主体はみずからの「存在」を実現する。

 

 不透明な<他者>の欲望をまえにして主体は「よるべなさ」の状態に置かれている。これが外傷経験である。これは実存哲学における「不安の実存的経験」のような漠然とした性質のものではない。フロイトは不安を「信号」というコミュニケーション理論をおもわせる用語によって定義し、それを分節化され positif なものとみなした。欲望から不安が生まれるのではなく、[外傷体験における]不安から欲望が生まれるのだ。そして不安は自我における信号としてあらわれる。『制止、症状、不安』の読解が予告され、グラフの第三段階における理想我と自我理想の議論へと移行する。鏡像的な関係に亀裂を入れるのは象徴的な行為(action)である。自我が防衛の主体なのではなく主体が自我を用いて(avec)「よるべなさ」からみずからを防衛しているのだ。欲望が位置づけられるのは幻想(S barré ♢ a)においてである。「幻想の機能は主体の欲望にたいして適応(accomodation)、位置どり(situation)の水準をあたえることである」。かくして「人間の欲望は対象にではなく幻想に固着し、適応し、捕らわれて(coapté)いる」。

 

 ここでダーウィンが紹介している機知(?)で使われている overlooked という多義的な語への脱線。病気の老婆を「大目に見た」主体としての「悪魔」は名指されていないが、英語の話者には見当がつく。これはシニフィアンの置き換えというメカニズムそのものではないがそのヴァリエーションであるということらしい(この台詞が「なにくわぬ顔で」発されたこととダーウィンの「表情」論とのなんらかの繋がりをラカンは暗示したがっているようだが……)。もともとラカンがこの話を振ったのは『恋する悪魔』(グラフの Che vuoi? )があたまにあってのことらしく、とうぜんのようにグラフへの参照が促される。シェマ(グラフ)の効用は「現実界において起こっていることを示す」ことだ。[「感情」のように]おのずから伝達される何ごとかを表出するという仕方によってではなしに。そこにおいては主体が純粋なかたちであらわれる。ここでシニフィアンそのものの到来の条件であり、言語によって覆い隠されている最終的な項としての「死」が導入される。無意識という「知」を担う<他者>において主体とその「存在」のあいだに「距離」を導入するのが「存在の換喩」としての欲望である。かくして「主体とシニフィアンの関係」を指し示す欠如したシニフィアンとしてのファルスがつぎのようなアフォリズムによって召喚される。「欲望は主体における存在の換喩であり、ファルスは存在における主体の換喩である」。

 

 以上、第一講(12/11/1958)。

 

 

バルセロナにおける十の提言:「真の精神分析と偽の精神分析」

*「真の精神分析、そして偽の精神分析」(La psychanalyse vraie, et la fausse, in Autres écrits, Seuil, 2001 )

 

 1958年9月、バルセロナで行われた第四回国際精神療法会議における発表の要旨。『続エクリ』所収。向井雅明氏による試訳がある。

 「真の(vrai)精神分析を偽ものから区別するために真正な(authentique)精神分析という観念、および精神分析の経験において明らかにされた真理(vérité)に適う精神分析という観念を参照しよう」。「真の精神分析パロールにたいする人間の関係にその基盤(fondement)をもつ」。

 「主体の生物学的実体(substrat)」は分析においてその基底(fonds)にいたるまで関与しているが、このことは「多元的決定」によって説明可能。ここでは「多元的決定」という術語が『ヒステリー研究』において使用された[相補系列といった]いみあいで使われているが、後続のくだりではシニフィアンの多義性をあらわすために使用されている。まぎらわしい。

 一方で「文化主義」的立場も退けられる。フロイトの発見した秩序は社会的なものにも還元できない。圧縮と移動は、「生物のなかの、言語のためにある器官の生理学的はたらきそのものから不可分でさえある構造のなかにシニフィアン固有の作用を摂取」する。聴衆の精神療法家たちを意識した慎重な言葉遣い。

 「一般心理主義」には「人間中心主義」の残滓を捨て去っていない。これは「魂」の自律性という「霊的動物主義」(zoologisme spirituel)への後退である。フロイトは構造言語学を予言し、「発信にたいする受信の先行性」という現代情報理論の盲点を指摘した。重要なのは認識の主体ではなくパロールの主体、すなわち「ディスクールのなかでメッセージの発信者としてのみずからの場所を示す主体」である。フロイトの第二局所論はディスクールの抵抗と主体の抵抗との混同への解決策として提示されたが、自我の導入が混乱を増強するはめに。

 情熱(愛、憎悪、無知)とは「対象をもたない要求」である。ロゴスとファロスの関係。暗示と転移の区別(「欲望が実存的問いにおけるシニフィアンとして分節化されるべきなのは、無意識に由来する暗示の効果がみずからの幻影を追い払うのと同時である。この実存的問いが転移の領域である」?)。

 主体が<他者>の場に位置することが Wo Es war, soll Ich werden. のいみであるとされ、さらにこの倫理的命題が「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」および「梵我一如」(Tât twam asi )に送付される。この「奇妙な」命題のいみするところが「汝じしんは汝が知らないがゆえに憎むこれである」であると解釈される……。

 欲望の倒錯性が指摘され、十八世紀における欲望の裸形化(dénudation)(「カントとサド」)を推進した啓蒙主義者の自然主義が現実適応を説くメインストリームの分析家の立場に帰される。啓蒙主義者は教会を批判したが、国際精神分析協会はひとつの教会となっている(フロイトによるナチズムの予言)。実践としては「外面的な非理性の深部に潜む理性に入り込むこと」が「~の精神分析」であると万人に認知されているのにもかかわらず、科学としては村八分(quarantaine)にされている精神分析の矛盾は精神分析家そのひとに原因がある……。

 

美人局と密輸品:「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」

*「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」(La direction de la cure et les principes de son  pouvoir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 これまでのラカンの治療論の概要を提示した論文と位置づけられる。「治療の方向づけ(direction)」という言い回しそのものはセミネール『無意識の形成物』の終盤にたびたび登場している。セミネール終了から一週間後にロワイヨーモンで行われたコロックでの発表がもとになっているが、論文のかたちで公にされたのは1961年。ブルース・フィンクは同年開講のセミネール『転移』との並行性を指摘している。

 

 自我心理学(発生論)、対象関係論(目的論)、フェレンツィ&Co.(分析的状況の双数性)がまとめて批判の対象になる。逆転移が鏡の比喩に帰され、転移の解釈、分析家への同一化(分析家を「現実」=規範とする立場)が退けられる(同一化とはシニフィアンへのそれである)。エルンスト・クリスが分析している剽窃衝動の患者(症例の発表者マーガレット・リトル本人)、長身コンプレックスの露出症患者、「肉屋の女房」(「われらが霊的なる spirituel ヒステリー者」)といった、これまでにとりあげられた症例が回顧されるのにくわえて、ラカン自身による強迫神経症の症例が紹介される。

 剽窃衝動について、クリスは幼児期の窃盗の反復というじゅうらいの解釈をしりぞけ、剽窃が事実でないことをつきとめたうえで衝動は欲動への防衛であるとしている。ラカンによれば、患者は何も盗んでいないのではなく、「無」を盗んでいるのであり、この着眼においてクリスは拒食症(無を食する)の認識を先駆けている。「肉屋の女房」(ファルス=魚)に即して夢は欲望の隠喩であり、キャビアへの欲望が「存在欠如の換喩」であることが確認され、分析家たちが欲望を要求に還元していることが批判される(分析家は患者の要求に応えてはならない。たとえ治療への要求であっても。分析家は要求を受けとめ、これを欲求不満の状態に置く。愛というもっていないものさえ分析家はあたえない。この無は分析家にたいして支払われねばならない。それもなるべく高値で)。

 ラカン強迫神経症患者(愛人に他の男と寝ることを要求する性的不能者)のケースにおいて、愛人の夢(夢のなかでかのじょはファルスをそなえている)は患者の要求ではなくその彼方にある欲望に応えている。愛人が患者に[分析家にたいするように]夢を語るということが重要だ(「欲望を文字どおりに à la lettre とらなければならない」、つまり欲望は言語的に分節されている)。ブルース・フィンクによれば、欲望とは<他者>の欲望ゆえ、愛人の夢における欲望は患者の欲望と同じである。ラカンは言う。夢の中でファルスをもっていることが愛人に性的魅力をあたえるのではない。患者の欲望はファルスをもつことではなく、ファルスであることだから。愛人の欲望は、じぶんがもっていないものを患者に見せることで患者の欲望に一歩を譲る[ファルスを譲る](le céder)。愛人は夢の中でファルスをもっていても依然としてファルスを欲望している。このことが患者の存在欠如を照らし出す。欲望の困難?否、むしろ「欲望というものが困難そのものに由来している」。夢の中で愛人がファルスをもっているので患者はファルスをとりあげられる心配がないとするのは的外れな見方である(そのことは完全に保障されているので何の保障にもならない)。強迫症者の欲望の条件はその対象が密輸品(contrebande。フィンクによれば bander にひっかけてある)であることだ。密輸とは「その本性(nature)の否認によってしか思い描かれることのない特異な恩恵の様態」である。つねに面会待ちの状態であり、それにあずかるのはその恩恵を厄介払いすることによってでしかない。

 

 分析においては分析家もまた支払いをする。言葉(mots)[解釈]によって。その人格(personne)によって。そしてなによりもその「存在」によって。つまり「最深部の判断におけるもっとも本質的なもの」としての(Kern unseres Wesens)。「分析家が介入すべきなのは(prendre son niveau opératoire)存在への関係においてである」。「分析家の存在」についての問いはフェレンツィに遡る。フェレンツィが取り込みの対象とみなした分析家のひとがら(personne)とは、幻想としての人格ではなく、分析家の「現前」ぜんたいをカバーしている。分析家の存在への同一化(「存在への情熱」)は存在欠如を隠蔽し、「存在の不幸」を招く。もっとも、精神分析によって患者に幸福をもたらそうと考えることはそれじたい間違ってはいない。現代は幸福の定義そのものがむずかしい時代だから。

 「抵抗とは分析家の抵抗である」ことが想起させられ、分析家の情熱(愛、憎悪、無知)が語られ、「分析家の欲望」概念が提示され、さらに欲望の「倫理」の必要性が説かれる(これは、欲望の不合理性が現実界の特性に送付されているくだりどうよう『倫理』のセミネールを経て加筆された部分だろう)。

 分析家たちはアクティング・アウトをネガティブにとらえ、「羞恥」の対象としているが、ラカンは幻想と連続的にとらえている(いずれも演技、演出に関わる)。『無意識の形成物』でも確認されたごとく、幻想は想像的な囚われのランガージュによる演出であり主体化であって、それゆえ幻想を想像力に帰すクライン的な観点は退けられる。言語的構築物であることについては症状についてもおなじである。フロイトは症状が重層決定されているとくりかえし述べているが、「重層決定とはランガージュの構造においてしか想定されない」のであってみれば、これはあるいみで同語反復であるといことになろう。

 本論文を締め括る語は”Rien”である。フロイトはその死(『終わりなき分析』)に際して「存在」の場にこの「無」を置いた。

 主体がロゴス(Logos)によって分節される分裂(Spaltung)に際しては、生が支払う血まみれの肉片がシニフィアンのなかのシニフィアンとなる。

 

強迫神経症あるいはファルスの言語的破壊:『無意識の形成物』(了)

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 第XXII講(14/05/1958)〜第XXVIII講(02/07/1958)

 

 セミネールの残りの四分の一においては、主として強迫神経症についてのモーリス・ブーヴェの諸論文にそくしてファルスが考察される。

 ヒステリー者が理想への同一化という「迂回」を経るのにたいし、強迫症者は要求の彼方の欲望それじたいを[ダイレクトに]めがける。ヒステリー者とどうよう、強迫症者は満足させられない欲望を必要とする。強迫症者は欲望を<他者>によって禁じられたものと位置づけることでこの<他者>に欲望を支えさせる。ヒステリー者は想像的な他者への同一化によって<他者>の欲望を維持しようとするが、強迫症者はじぶんの欲望を守るためにそれが基づいている<他者>の欲望を「否定」する。「<他者>の欲望は分節化され、象徴化されているが、Non という記号を付されている」。強迫症者において問題になのは欲望の維持ではなくその取り消し(annulation)である。想像的な他者のファルスを破壊することである。ところで「取り消しについて語ることができるためにはシニフィアンが問題になっているのでなければならない」。強迫症者が想像的な競争相手のうちに「破壊」しようとするのはシニフィアン=ファルスである。「おまえなんかナプキンだ……」という幼き鼠男の呪詛の言葉は、シニフィアンを無生物的な対象へと失墜させる(強迫症において問題になるのは[父という]卓越したシニフィアンの失墜である)。強迫症者の取り消す要求は[<他者>への]「死の要求」である。強迫症者の欲望は[対象に接近するにつれて]消尽する欲望という逆説的なものである。フロイトが強迫症者に帰した欲動分離(Entbindung)とは、<他者>の欲望の維持と破壊の配分のさじ加減を説明する概念であると考えてよいだろう。

 ブーヴェは強迫症者における「対象との距離」の取り方を問題にしているが、正しくは「みずからの欲望への距離」と言うべきである。「神経症は対象ではなく、主体の行為とふるまいのなかにある分析的な構造である」。神経症の構造によって主体の「人格」全体が規定される。「人格」とは「行動のなか、<他者>や他者たちとの関係のなかにつねに同じであるのが見出されるある種の運動、一つの区切り」であり、「強迫あるいはヒステリー的な行動の総体は一つのランガージュとして構造化されている」。

 ウィニコットは幼児にとっての問題が欲求不満から脱することではなく欲求の満足から脱することであることに気づいている(ようするに移行対象がシニフィアン・ファルスであることに)。

 

 アクティング・アウトの無動機性は非心理学的であり、そこにはシニフィアン的な要素がある。そのかぎりでアクティング・アウトは幻想に通じる。幻想とは「シニフィアンのある一定の使用のうちに捉え込まれた想像的なもの」である。

 

 症状はシニフィエである。「生命はみずからをおそるべき統覚のうちで、その全体的なよそよそしさ、その不透明な乱暴さにおいて受け止めるなかでじぶんじしんを、生命自身によってたえがたいようなある存在(existence)の純粋なシニフィアンとして把握する」。症状とは「純粋状態のシニフィアンとして生命にたいして生命から現れてくるもの」である。

 

 Wo Es war, soll Ich werden の意味が、「私はファルスである」ではなく「私はシニフィアン的分節においてファルスが占めている場所にいる」ということであると解釈される。

 

 最終回の講義の調子は翌々年の『精神分析の倫理』を先取りしている。「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」が「Tu es celui qui me … tu (tues) es celui qui me…」に送付される。