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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

シミュラクルもしくは魚としてのファルス:「ファルスの意味作用」

*「ファルスの意味作用」(La signification du phallus / Die Bedeutung des Phallus, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 ミュンヘンのマックス・プランク研究所においてドイツ語で行われた講演を「変更を加えずに」筆記したものとされるが、ラカンのこういう但し書きはたいしてあてにならない。原稿を読み上げるかたちで講演したのだとしてもかならずあとで手を入れているのではないか。たとえばあくまで一例だが、688頁最終段落で調子がきゅうに書き言葉ふうに変わっているような気がする。あやしい。

 

 冒頭、去勢複合が nœud の機能(函数)によって定義される。

 第一に、「症状」として分析可能な「結び目」であるといういみにおいて(『無意識の形成物』で述べられていたように症状とは分析可能なものすべてをいみする。ラカンは症状という観念を神経症に限定せず、倒錯と精神病にも拡大している)。すこしあとのくだりでは、症状の構造の分析にはトポロジーが不可欠であるとされている。

 第二に、性の引き受けにおける「節目」であるといういみにおいて。

 

 ファルスの現れの四つの局面が整理される。(1)女児が奪われているものとして(2)母に具わっているものとして(3)母が奪われているものとして(4)クリトリスとして(男根期)。

 ついでに男根期を特殊事例に格下げし、ファルスの優位を否定するジョーンズらが批判される。とはいえジョーンズのアファニシス概念は、去勢と欲望の関係を問うていることにおいて意義がある。

 

 フロイトの発見の意義がシニフィアンの優位にあることが確認される。

 意味しうるもの(signifiable)は、シニフィアンの能動的な(actif)機能によって印(marque)を刻印され、この受難=受動(passion)によってシニフィエとなる。この「シニフィアンによる受難」が「人間の条件の新たな次元」(「人間のなかで ça が語る」という次元)を特徴づける。 

 

 そのうえでファルスがシニフィアンとして定義される。ファルス(La phallus)は機能である。ファルス(le phallus)は幻想でも現実的対象(クライン)でも器官でもなく、ルクレティウス的なシミュラクルである。690頁あたまの la については諸説あるようだ(ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』)。

 

 「分析の主体内のエコノミーにおいてファルスの機能は神秘劇(les mystères)においてかぶっていたヴェールをとる。というのはファルスはシニフィエの諸効果全体を指し示すためのシニフィアンであるから」(Ecrits, p. 690)。

 

 じつにわかりにくい。ヴェール(voile)は本論文のキーワードであり、このくだりでとつぜんでてくる。もっと先のくだりでは(692頁)、「ファルスはヴェールをかぶった状態においてしか機能しない」と言われているからややこしい。後者のくだりはファルスをレエルな男根のイマジネールな形態によって理解しようとする見方への警告であるが、とりあえずファルスはその「機能」に還元されていること、また去勢複合のなかでその現前によってではなく欠如において問題になる何かであることを確認しておこう。

 

 また、ラカンシニフィアンについてしか語らないという印象があるが、本論文および『無意識の形成物』ではけっこうシニフィエという言葉がでてくる。「シニフィアンの効果」ならまだしも「シニフィエの効果」というのははて如何に?

 とおもったら、案の定これより五日後のセミネールにつぎのようなくだりがみつかる。「ファルスはとくしゅなシニフィアンであり、それはシニフィアンの塊(corps)において、シニフィエにたいするシニフィアンの諸効果それじたいを全体として指し示すことに特化している(spécialisé)」。これならわかる。たとえ言い間違いでないとしても、とんでもなく圧縮された表現と言わざるを得ない。

 

  とりあえず、ファルスが“ヴェールをかぶっている”とは、欲求が要求によって歪められることに関係しているらしい。この事態が「原抑圧」と同一視されている。そしてそのあとに「蘖」(rejeton)として残るのが欲望(Begehren)である。「蘖」の原語はフロイト読者にはおなじみの Abkömmling であろうか。また désir に相当する語として Wunsch ではなく Begehren が使われているのはドイツ語話者の受講者からの示唆によるようだ(『無意識の形成物』参照)。

 かくして「純粋な喪失の権能」たる欲望は、要求の「無条件性(inconditionné)」を「『絶対的』条件」に変える。

 

 <他者>としての主体は「欲望の原因」の場を占める(tenir lieu=代理する)。「ジッドの青春」につづいて、ここにも対象(a)の観念の萌芽がみてとれる。

 

 「ファルスは[シニフィアンにたいする主体の関係が刻み込む]痕 marque の特権的なシニフィアンであり、そこにおいて理性(logos)の取り分(part)が欲望の到来と結びつく」。

 

 「ロゴス」は幕切れの一節にも登場する。「[フロイトは深遠な直観にしたがってリビドーにはひとつしかなく、それは男性的なリビドーであると述べたが、]ファルス的シニフィアンの機能[函数]はここでそのもっとも深遠な関係へと至りつく。古代人がそれによって Noυs と Λoγos を受肉化していた関係である」。

 シニフィアンとしてのファルスはまた「欲望の raison(比率)」をあたえるものであるとも定義されている。ラカンハイデガーに倣ってΛoγos をシニフィアンと理解していることはすでに確認した。Noυs はここでΛoγos と同一物と理解してよいのであろうか。

 

  「ファルスがその役割を果たすのはもっぱらヴェールをかぶってのことである」なるくだりを先に引いた。そのつづきはこうである。「つまり、どんな意味可能なもの signifiable もこうむっている潜在性のしるし signe そのものとして。ファルスがシニフィアンの機能へと高められる(aufgehoben)ときからそうなるのだ。ファルスはその消失によって切り開くことになる(inaugurer, 括弧して initier とも添えてある)Aufhebung そのもののシニフィアンなのだ」。

 

 つづけてこうある。「それゆえに古代の神秘劇(mystère)でファルスがヴェールをとられるまさにそのときに Aιδωs(羞恥) のダイモンが現れるのだ(cf. ポンペイの Villa の名画)」。つまり間一髪ファルスはヴェールをとらずにすむ。

 

 ファルスは「ある」と「もつ」の弁証法によって規定される。母親のファルスで「ある」ことで母親の欲望を満たそうとする。現実的なファルスを「もつ」に至っていないので、もっていないものをあたえようとする、云々。

 ここまではよいとして、「性関係」の「構造」においては、「ある」がファルスというシニフィアンにおいて主体に「現実」をもたらすのにたいし、「もつ」は relations à signifier を「非現実化」するという。これは「みせかけ paraître」が「もつ」にとって代わり、[男性において?]ファルスを保護すると同時に[女性において?]ファルスの欠如を隠すことに寄与するからであるらしい。これが男女両性における挙措の理想的・類型的発現を促す効果を生む。それは「喜劇」において確認される。この理想において欲望が愛にとって代わられている。

 『無意識の形成物』において愛は「新喜劇」(『女房学校』がその頂点)の領分であるとされていた。女性の仮装(mascarade)は、ファルスになることで女性性を放棄していることを隠すことにやくだっているのだろうか(『無意識の形成物』で扱われたジョアン・リヴィエール論文によればそうとれる)。このあと、フロイト「愛情生活のもっとも一般的な蔑視について」をふまえつつ、フェティッシュ、不感症、不能、同性愛といったトピックへの言及があり、男性は不実を本性とし、女性はみせかけを本性とするといったことが暗示される。

 

 ブルース・フィンクによる英訳書に、ラカンはよくファルスを魚に譬えるとの訳注あり(“Le poisson ne se laisse pas noyer...”)。

 

女性性の本質化に抗して:『無意識の形成物』第XV講〜第XXI講

 

 女児のエディプス複合にかんし、ペニス羨望は三つの局面について想定しうることが確認される。(1)クリトリスがペニスであってほしい。(2)父のペニス。(3)父の子供。(1)は「去勢」、(2)は「フラストレーション」、(3)は「剥奪」に相当する。ジョーンズ「女性のセクシュアリティの初期の発達」(1927年)が検討され、女性性は作られるのではなく生来のものであるとする本質主義および女性器官固有の満足がエディプスに関与しているとする「自然主義」が批判される。ジョーンズはペニス羨望を恐怖症のいっしゅに帰し、女性の「ファルス的態勢」は「迂回」にすぎず、女性はこれを通過した後、生来の口唇的態勢へと復帰し、ここから膣的態勢へと入るとする。ラカンによればジョーンズは男性性もまたエディプスの隘路をとおして「作られる」ことを理解していない。「女性にとって重要なのは始原的にあたえられた女性的態勢を現実化することではなく、ある一定の交換の弁証法のなかに入ることである」。「男性はエディプスの関係を構成するあらゆる禁止がシニフィアン的に存在するという事実によってその弁証法から遠ざけられているが、女性は交換の対象となるという資格において婚姻と親族関係の交換のサイクルのなかに書き込まれる」(第XV講)。

 同一化という主題への着手が予告される。ファルスはエディプス複合よりも広い範囲を包括することが確認される(クライン的な前エディプス期においてもファルスが機能している)。エディプスの出口となる自我理想の形成にかんして、自我理想が自我の同一化(理想自我)ではないことが確認される。フロイトは『ナルシシズムの導入にむけて』においてきわめてわかりにくいかたちでではあるが、これを指摘している。自我理想は主体にとって攻撃的であったり抑鬱的であったりするものへの同一化であり得る(『集団心理学と自我の分析』)。自我理想は亡命者にとっての祖国のようなものである。それは外的な対象ではなくて主体じしんのなかの余分な要素である。自我理想は超自我でもない。自我理想はシニフィアン的要素(insignes。“記章”)への同一化であるとされる。たとえば「父のような咳」への同一化である。四年後のセミネールで導入される「唯一の特徴」(trait unaire)の概念の祖型がここにある。

 ドイッチュの「The Significance of Masochism in the Mental Life of Women」(1930)およびホーナイの「On the Genesis of the Castration-Complex in Women」(1924)が参照される。ラカンがドイッチュによみとるのは「女性の態勢の重心や主要な満足の要素は、性器的関係それじたいの彼方にみいだされる」、ようするに女性の満足は性器的な満足に限定されないということである。女性は「クリトリスによる享楽の剥奪そのもののなかで確固たるものとなる享楽の態勢から満足をみいだす」。一方、ホーナイは「去勢複合と女性同性愛の連続性」というかたちで男根期を本質的なものとみなしている。ドイッチュもホーナイもジョーンズ的な本質主義を免れている(第XVI講)。

 『トーテムとタブー』が参照され、「父殺しが隠しているのは死とシニフィアンの出現とのあいだにある密接な絆(lien)」であることが確認される。「一つの死が記憶されるためにはある絆がシニフィアンとされており、その死が現実のなかで、生の充溢のなかで別な仕方で存在するようになっているのでなければならない。死の実存というのはない。あるのは死者たちであり、それがすべて」。「欲望とシニフィアンを[有機的に]結びつける(conjuguer)」ことで、フロイトは「[有機的な]結びつき(conjugaison)というカテゴリー」そのものを導入した。

 主体は欲望するということにあずかる(jouir de désirer)。これが享楽の本質的次元である。こうした認識はサルトル実存主義によって部分的に先駆けられている。

 ジョーンズは去勢複合をアファニシスというより包括的なカテゴリーのひとつのあらわれに帰そうとしている。

 「人間主体は切り離されたものとしてのみずからの存在そのものにたいする関係のうちにある」。問題は[現実的な]対象にたいする関係ではなく欲望にたいする関係である。対象(a) 概念を先駆けるような指摘だ(第XVII講)。

 「症状」とは「分析可能なもの」すべてを指す。

 「欲望が分節化可能ではないからといってそれが分節化されていないことの理由にはならない。欲望はそれじたい分節化されている。だからといってそのことは欲望が分節化可能であることをいみしてはいない」として欲望と要求の差異が確認される(第XVIII講)。両者の分裂(Spaltung)はつづく第XIX講において詳述される。

 「肉屋の女房の夢」が参照され、満たされない欲望にたいする欲望のうちに欲望と欲求の「裂け目」が確認される。患者は愛を要求し、キャヴィアをもらわないことを欲望している。かくして欲望は他のものの欲望である。このことがドラ症例において確認される(第XX講)。

 ファルスはその美によって魅了する形態ではない。ファルスは欲望のシニフィアンであり、重要なのはその「意味作用」である。「静かな水の夢」においては、欲望それじたいのシニフィアンであるファルスが現前している。そこではファルスがアスパラガスを「もたない」(Das ist nicht mehr zu haben.)というかたちで登場している。ファルスは欲望の対象ではなく欲望のシニフィアンである。すなわち「もう手に入らない」は現実的対象の「拒否」(frustration)として経験されるのではなく、ひとつの「意味作用」である。「対象欠如そのもののシニフィアン的分節」である。ファルスで問題になるのは[夢における言葉のように]ランガージュのレベルで分節化される。この同じ患者は「無邪気な夢」において、じぶんがそれであるもの(ファルス)であろうとしないと欲することによって、ヴェール(仮面)の向こう側にファルスというシニフィアンを欲望している(第XXI講)。

 そしてこの二日後の五月九日、ミュンヘンにおいて「ファルスの意味作用」と題された講演が行われる。

 

享楽の最初の一グラム:『無意識の形成物』第XIV講

 

 というわけで、セミネールは享楽と欲望の関係という問題の提起によって再開される(1958年3月5日)。

 クライン派ジョアン・リヴィエールの「仮装としてのフェミニティ」が俎上に載せられる。幻想における両親にたいする優位(父を去勢しそのペニスを奪ったこと)への[男性による]復讐をかわすために女性性(ペニスをもっていないこと)をひけらかす――みずからを性的に提供する――女性たちがいるとする興味深い論文。

 このケースにおいて、享楽は幻想における両親への優位にある。主体はこの享楽を承認させるべく<他者>へと訴え出る(procès)。これによって「存在はじぶんじしんの実存から引き裂かれる(se diviser)。人間主体の運命(sort)はじぶんの存在記号(signe d’être)との関係に由来している。この記号はあらゆるしゅるいの情念の対象であり、この訴訟において死を現前化させる。この記号との関係において、主体はじぶんじしんから引き離され、じぶんじしんの実存とのあいだに、創造行為において、みたところ唯一無二の関係をもつことができるようになる」。享楽(「存在」)をシニフィアンの篩にとおした結果できあがるのが欲望(「じぶんじしんの実存」)というふうに解釈すればよいのであろうか。つづきを引く。「この関係はマゾヒスムの最終的な形態である。マゾヒスムによって主体は実存することの苦痛を理解する(appréhender)」。享楽についての問いはとりあえずここでマゾヒスムという概念に至りつく(「カントとサド」への序曲)。

 このあと前号でとりあげたジッドのケースがコメントされ(グリブーユへの同一化に「実存の苦痛」のあらわれがみてとられる)、ジッドの「喜劇」が、刊行されたばかりのジャン・ジュネ『バルコン』の分析へと繋げられる。

 まず「悲劇の本質」が定義される。「古代ギリシャにおいて、悲劇はパロールにたいする人間の関係を表していた。この関係が人間を宿命のうちにとらえる。この宿命は人間をシニフィアンの法に結びつけている連鎖が、家族の水準と共同体の水準とで異なるために葛藤を生じさせる」。喜劇においては「主体のパロールにたいする関係」が別のあらわれ方をする。喜劇は悲劇という「聖体拝領」(その栄養 substance)のおこぼれにあずかる(jouir)。喜劇は「陪餐のあとの出し物」である(じっさい、喜劇はながらく悲劇のいっしゅの口直しとして演じられてきた)。つまり喜劇は悲劇[の残り物]を“享楽する”。喜劇は「主体の主体じしんのシニフィエへの関係を表に出す(manifester)」。主体のシニフィエとはつまりファルスである。

 『バルコン』を「喜劇の傑作群のきわめて特異で常軌を逸した(extraordinaire)再生」たらしめているのは、とりあえず舞台上にころがる革命の闘士の去勢された男根というかたちで現前するファルスである。『バルコン』においては、人間主体を疎外する象徴的な諸機能(教会、司法、軍事、警察)が「突如として喜劇の法[則]に身を委ねる」。問われているのは、こうした機能の「恩恵にあずかる=享楽する」(jouir)ことのいみである。かくしてジュネは司祭と裁判官と将軍と警視総監をすぐれて享楽の場たる娼館に集わせる。娼館の外では革命の嵐が渦巻いている。この騒乱(bordel)のさなかにあっては逆説的に娼館(bordel)のなかでだけ秩序が保たれている。また革命という状況は、治安維持を機能とする警視総監に権力を集中させる。笑いは、欲望の人であるロジェが享楽の人である警視総監の権力を(コスプレによって)奪取し損ねることから生まれる。ロジェは警視総監の「象徴」つまり機能と、警視総監の「制服」つまりとりはずし可能な「イメージ」とをとりちがえた。ようするに「シニフィアン」と「ファルス」をとりちがえた。

 時間が押していたこともあり、ラカンのコメントは圧縮的でわかりづらいが、一応このように要約しておく。ラカンの自負するごとく「欲望と享楽という重大な問題の手がかり」になりましたでしょうか?

 

 前々号で引いた<他なるもの>(Autre Chose)についての“妄想的”なくだりはどうやら『バルコン』の読書中に生まれたものらしい。

 

 

燃やされた手紙:「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」

*「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」(Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 開講中のセミネール『無意識の形成物』の中休み期間(1958年2月)に執筆され、セミネールの後援者でもあったジャン・ドレによる浩瀚な精神医学的伝記の書評として「クリティック」誌に掲載された。媒体を意識したか、ラカンの文体はどこかよそゆきの美文調(la crique qui le craque… あるいは、courtoise / Courteline といった機知ゆたかな頭韻)。

 ジッドは十一歳で父を亡くし、母親の独占的な愛に閉じこめられた。母親は厳格で性的に潔癖な人であり、ジッドも母親にたいしていっしゅの昇華された愛(宮廷風恋愛にも似たそれ)を捧げていた。こうしたジッドにとって、伯母に「誘惑」された経験がトラウマとなった。母親にとっての「欲望された子供」(enfant désiré)であったことのなかったジッドは、伯母の「誘惑」によって遅まきに、かつ「非合法(clandestin)に」「欲望された子供」の位置を占めることになる。こうしたいわば“母”の二重化によって、ジッドは「愛の母」(実母)と「欲望の母」(伯母)とのはざまで引き裂かれる(”Spaltung”)。「欲望を人間化(humaniser)」してくれるはずの父の不在ゆえジッドはこのダブル・バインドの状況から抜け出せない(これまでのラカンの関心がもっぱら“父”の二重化にあったことを想起しよう)。十三歳のとき、年長の従姉マドレーヌ(「大人の侵入[immixtion de l'adulte]」)に泣きながら伯母の不倫について訴えられたジッドは、「愛と憐憫、感激、徳などの入り交じった感情に陶酔し」(『狭き門』)、マドレーヌを守るために自己を捧げんというあるしゅの宗教的な啓示を得る。愛とはじぶんがもっていないものをあたえることである。母親の性的抑圧のせいでオナニスト神経症になっていたジッドは、じぶんが女性にあたえることのできないファルスをマドレーヌにあたえようとする。ドレによれば、この純愛は母親にたいする昇華された愛の再生である(ジッドはマドレーヌが「モレラ」であるとヴァレリーに吐露している)。その根拠のひとつとして、ドレは『狭き門』におけるアリサとジェロームの母親との類似を指摘している。一方、『無意識の形成物』のラカンによれば、ジッドはじっさいに伯母の「欲望された子供」であったマドレーヌに「同一化」することで、じぶんが受け入れることができずにいた伯母の欲望と折り合いをつけようとしているのだ。一方、マドレーヌはマドレーヌで父への無条件の愛を保持するために「白い結婚」に同意する(マドレーヌとの結婚は、ジッドがマドレーヌ=アリアドネの手引きでその父=ミノタウロスを殺すテセウスになることをいみする)。ドレによれば、同性愛はマドレーヌへの「angélisme の裏面」ということになる。ラカンによれば、かくして引き受けられた伯母の欲望によって、ジッドはじぶんが伯母にとってそうであった「欲望された子供」としての少年たちを愛するようになる(ジッドがまさに新婚旅行中に少年愛にふけっていたという事実は象徴的である)。ジャック=アラン・ミレールによれば、ジッドは男性として愛し、女性として欲望(享楽)しているということになる。

 同じく『無意識の形成物』によれば、ジッドの倒錯は自我理想の裏面である。ジッドにとって自我理想はジッドの自我によっていわば主体的に求められたものではなく、かれの「主体をその存在において原初的に構成しているシニフィアン」である「欲望された子供」というポジションを保持する出来事の継起を通じて形成された(この受動性が重要なのであろう)。「ジッドの倒錯は、かれがそうであった少年(=自我理想)しか欲望することができないという点にあるのではなく、従姉によって占められている場所に居座る(se faire valoir)者になるべくみずからに命令することによってしかじぶんを構成することができないという点にある。じぶんのもっていないものをあたえることで、かのじょにおいて、かのじょによって、かのじょにたいしてしか人格として構成されない者に、ということだ」。ここでマドレーヌ宛書簡が重要性をおびる。「文学的人間(hommo litterarius)」たるジッドは、マドレーヌへの手紙というかたちでこの真理を「フィクションの構造において」実現しようとした。「ジッドの青春」の冒頭で言われる「lettre にたいする人間の関係」とはこのことだ。

 マドレーヌは浮気なジッドへの復讐心からジッドからの書簡を焼却する。ジッドはマドレーヌへの手紙をまさに「じぶんの子供」と形容していた。マドレーヌは子供を殺すことで夫に復讐したメーディアのようにジッドに復讐するのである。これは「真の女性の行為」である。これによるジッドの落胆にひとは純愛のメロドラマを読みとってきたが、ラカンに言わせればこれは、じぶんが失いそうになっているのが娘ではなく金庫だと思いこむ「守銭奴」の叫び(「わたしの小箱!」)と同じくらいコミカルな光景である。マドレーヌとの人間関係は失われた手紙へと「物体化」されている(chosifié。岩波書店刊の邦訳では「具体化」というニュートラルな訳語があてられている)。「ジッドの青春」でジッドに「フェティシズム」が帰されているのはそれゆえである。ジッドによれば「同性愛者の愛がどういうものか理解できる者はいない」。それは「防腐処理を施された[時間に逆らって保存された]愛(amour embaumé contre le temps)」である。ここには死の臭いがする。そもそもジッドにとっての官能の目覚めは、三度にわたる “Shaudern” (ゲーテ)の経験に遡る。この存在論的な震撼においてジッドはすでに「死の声」(ラカン)を聞いている。

 マドレーヌへの自己犠牲的な純愛(ドレもラカンベアトリーチェへのダンテ的愛になぞらえている)は、[母による]「愛による包含(enveloppement)」から「享楽の放棄(abnégation)」を引き去る「象徴的減算」(soustraction symbolique)の「剰余」(résidu)であり、「欲望」が天使愛という否定的なかたちで現れたものだとラカンは言う。みられるとおり、当時のラカンにおいて愛と享楽と欲望の関係づけはいまだ厳密化されていない(とりあえずジッドの人生を決定づけているのは「最初の享楽のうちに口を開いた裂け目」である)。本論文執筆後のさいしょのセミネールにおいては欲望と享楽との区別をめぐる議論がなされている。

 ちなみにドレの伝記はマドレーヌとの結婚にいたるまでの時代を対象としており、燃やされた手紙についての言及はない。本論文はドレの伝記とほぼ同時期に刊行されたシュランベルジェの『ジッドとマドレーヌ』(ドレの伝記中に言及あり)を踏まえており、筆者は目を通していないが、このへんはほぼラカンのオリジナルな論点であろう。

 ながねんラカニアンたちに不当に軽視されてきた本論文の重要性を見抜いた(おそらくデリダについで)さいしょのひとりであるジャック=アラン・ミレールは、燃やされた手紙がくだんの「盗まれた手紙」どうよう、「ファルスの意味作用」において導入されることになる対象(a)の観念を先駆けていると指摘している。

 ラカンはドレの文章を讃えつつ、文体を主体(「人」homme)そのものに帰したビュフォン的警句をもじって「文体は対象である」と述べている。これは lettre にたいするジッドのポジションにこそあてはまる。

 ジッドはウージェニ・ソコルニスカの許で分析を受けはじめたがすぐに挫折した。ラカンによれば、ジッド著作になんらかの精神分析的認識が認められるとすれば、それは『コリドン』において直観的に提示されている「リビドー理論の驚くべき要約」を措いてない。

 

革命と退屈と引きこもりの哲学:『無意識の形成物』第Ⅷ〜第XIII講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 精神病についてのギゼラ・パンコフの談話中で紹介されたベイトソンダブル・バインド概念が、母子の想像的関係にみられる根本的ジレンマの認識に照らして評価される。ちなみに「精神病のあらゆる治療の前提となるひとつの問いについて」では、「パパがすき?それともママがすき?」と子供に問う子供っぽい親の話に触れられていた。

 パンコフは同じ談話においてパロールを主体の行為として基礎づける(ようするにパロールの真実性を保障する)パロールはないとし、この審級を「人格」に求めたが、ラカンはこのような「人格主義」を退け、この審級を「法」ようするにシニフィアンとしての「法律の文面」に帰す。法の文面を認可する(autoriser)するものはそれじたいシニフィアンである<父の名>である。<父の名>は「法の座であるかぎりでの<他者>のなかで<他者>を表象するシニフィアン」、つまり<他者>の<他者>、<他者>という「主体」(<他者>は「場」であるだけではない)にとっての<他者>である。

 精神病における Verwerfung がシニフィアン連鎖という「組み版」(typographie)において欠けている文字になぞらえられる。「シニフィアンの空間、無意識の空間は typographie の空間」であり、「トポロジーの諸法則」にしたがっている。

 欲望は他者(「コード」)によって屈折させられる。そのかぎりで欲望は cocu である。「とゆーか、欲望にシニフィアンと褥を共にされたといういみでは主体じしんが cocu なのだ」。

 歴史上のエディプス問題の変遷が回顧され、分類される。(1)エディプスに規範化の機能があるのならば、正常者にもエディプスはあるのか?また、エディプスなき神経症(「母性的超自我」)はあるか?(2)前エディプス期はあるか?(エディプス以前に遡れば遡るほどエディプスを再発見するクラインの逆説)。(3)エディプスは性器段階への到達をいみするか?(エディプスは性の引き受けの規範となるかぎりでの自我理想の形成にかかわる)。

 しかるのち、去勢/剥奪/欲求不満の三項図式および欲望のグラフに即してエディプスの三段階が示される。(1)母の欲望の対象で「有るべきか有らざるべきか?」(2)母の剥奪者としての父の介入(3)[母の欲望を満たす能力を]「持てる者」としての父の自我理想化。

 ここからの帰結。男性は「じぶんじしんの隠喩」であり、女性性は「不在証明」である。男性はすこし滑稽(ridicule)であり、女性はすこし迷子(égarée)である。 同性愛者においては母が父にたいする法となっている(“逆エディプス”)。「メッセージ」と「コード」を繋ぐ父が「排除」されている精神病においては「父が法として介入せず、母から子へのメッセージにたいする“否” というメッセージのなまの介入がある」。

 母親的対象による原初的満足という対象関係論的観点が退けられる。「欲求の幻覚的な満足と、母が子にもたらすものとのあいだには根本的な不一致がある。この裂け目のおかげで子供は対象についての最初の認識を得る」。問題は対象ではなくその欠如であるということだろう。ウィニコット的な「主体の精神病的構築」がアングロサクソン的ユーモア(wishful thinking)に帰される。

 「男根期」論文のジョーンズにはファルスがシニフィアンであることがわかっていない。

 

 「父の隠喩」と題された講義の末尾でラカンはとつじょ妄想モードに入る。哲学者は <他のもの> Autre chose の次元を生み出してこなかった。<他のもの>の例として、ニーチェ的な「日の出前」、「引きこもり(claustration)」、「退屈(ennui)」が挙げられる。フロイトシュレーバー症例で言及した「日の出前」の章には理性と狂気の反転が述べられている。恐怖症は不安への防衛として恐怖という安心に閉じこもる。そして仕事はその規則性が完全に退屈になったときはじめて真剣なものになる。「ひとがどこかにたどりつくと監獄と娼館を建てる。つまり真に欲望がある場所を。そしてなにごとかを待つ。よりよい世界。来るべき世界。かれはそこにいて日の出を待ち望み、革命を待ち望む。とはいえゆめゆめ忘れるなかれ。ひとがどこかにたどりつくとあらゆる仕事から退屈が滲み出す……」。

 

 

 

 

トポロジー宣言:「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」

*「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」(D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 前回とりあげたのは『無意識の形成物』の1957年12月までの講義である。クリスマス休暇中にラカンは二年前のセミネール『精神病』を回顧する内容の論文を執筆し、SFPの機関誌「精神分析」に掲載した。

 精神分析の精神病への応用が旧態依然(in statu quo ante)にとどまっているという一文からはじまる本論文においては、精神病の分析的治療が「転移の操作」にあるととりあえず前提されている。「人間の存在は狂気なしには理解され得ないだけではなく、みずからの自由の限界として狂気をそのうちに抱えていなければそれはもはや人間の存在ではない」という「心的因果性について」の一節が引かれ、精神病においては転移もエディプス複合も関与していないとする観点にラカンが与しないことが確認される。タイトルが告げるように本論文で扱われるのは精神病の治療そのものではなく、その前提となるひとつの問題、すなわち<父の名>という問題である。

 小笠原晋也氏によれば、『精神病』における「<他者>の排除」が本論文において「<父の名>の排除」と定式化しなおされている。<父の名>は「シニフィアンの場としての<他者>における法の場としての<他者>のシニフィアン」と定義され、<他者>そのものと区別されている。本論文が執筆された直後、年明け一発目の講義もまさに「<父の名>の排除」と題されており(ミレールによる)、<父の名>が「<他者>のなかの<他者>」「<他者>の内部にある本質的なシニフィアン」と定義されているのが確認できる。

 

 分析家たちの誤りは幻覚を現実的知覚のレベルでとらえ、精神病の主体にあっては自我が現実世界にないものを知覚していると考えていることである。これは[自我による]投影という機制を退けたフロイト以前への後退である。ラカンによれば、幻覚を「聴覚的な」ものとみなすことは誤りであり、問題になっているのはシニフィアンの聴取としての「聞く行為(acte d’ouïr)」である。じぶんが話すのを聞くという聴覚的な事実は、「主体のじぶんじしんのパロールに対する関係」すなわち両者の分裂を覆い隠す。

 

 『精神病』における所論が、開講中の『無意識の形成物』において導入された「欲望のグラフ」上に位置づけ直される。シュレーバーにおいては「基本語」が「コード」である(ただし誰とも共有されることのない「妄想のコード」である)。「コード」を通過したディスクールの線がふたたびシニフィアン連鎖と交わることなく「メッセージ」が完成されないのが「中断された文」である。「豚肉屋」の例がふたたび引かれ、転換子(shifter)概念が援用される。

 

 『精神病』で言及されなかったくだりをもふくめ、シュレーバー『回想録』の数多くの細部が該当頁数つきで参照される。アイダ・マカルピンによる『回想録』の解説付き英訳書へのおしみない讃辞が捧げられると同時にその所論の限界が指摘される。マカルピンシュレーバーのケースをとおして同性愛的欲動の制圧というクリシェの無効性を立証している。同性愛はパラノイアの病因ではなくぎゃくにパラノイアの症状の一部である。とはいえマカルピンは、フロイトシュレーバーの「同性愛」のうちに「他性」つまり妄想性「転移」の現れをみてとっていたことを見逃し、妊娠幻想を心気症に帰している。つまりエディプス複合の関与を無視している。

 

 本論文はトポロジー的な問題意識が明確にされた最初のテクストである。L図とその変形であるR図が提示される。すでにトポロジー的探究にのりだしていた1966年の注ではR図の台形(現実界)がメビウスの環をなすと注がある。じっさいに切れ目を入れて捻り、環を結ばせた状態がI図で示される。図を眺めているかぎりではよくわからないが、二つの三角形(想像界および象徴界)が同じ一つの穴をなしているらしい。「欲望のグラフ」の練り上げに着手した同時期の『無意識の形成物』においてもトポロジー的関心が何度も口にされる。セミネールのタイトルじたい『無意識のトポロジー』としてもよかったと述べられているくらいである。本論文では「グラフ」のトポロジーが並行論(心的現象の大脳皮質への局所化)とは別の次元にあるとされている。

 

 「ファルス中心主義」が確認され、『対象関係』における父性隠喩の公式が提示される。本論文を要約する一節。「狂気のドラマを認めようとするとき理性が活躍する。というのはこのドラマが位置するのはシニフィアンにたいする人間の関係においてであるからだ」。

 

シニフィアンの全般的経済論へ:セミネール第5巻『無意識の形成物』第1講〜第7講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 フロイトによれば機知は「滑稽」とはちがい、話し手と聞き手以外の第三者を必要とする。ラカン的<他者>はこの第三者に送り返される。<他者>とは「シニフィアンのさまざまな用法の束」(「シニフィアンの宝庫」とも言い換えられる)すなわち「コード」である。欲望のグラフの祖型が導入され、「シニフィアンの連鎖」と「合理的なディスクール」の交点に「コード」と「メッセージ」(ないし「意味」)が位置づけられる。機知という「メッセージ」は「コード」に違反している。機知において「メッセージはコードとの差異のうちにある」。機知というシニフィアン的生産物をコードのうちに位置づけるのが<他者>である。<他者>による認定(sanction)なしに機知は存在しない(そのばあい、たんなる言い間違い、言葉の誤用でしかない)。機知の「本質」(『機知』書でフロイトが探究していたのはまさにそれであった)は、「真理の不在証明の次元」と関係がある。「文字の審級」論文において、「真理の不在証明」とは主体(コギト)における「思考」と「存在」のズレのこととされていた。機知において問題になるのは「コード」と「メッセージ」のズレ(「心的二重視 diplopie mentale 」)である。いわく、「機知は、別の場所を眺める(regarder)ことによってしか見えない(voir)ものを指し示す。ただし、あいかわらずズレた所に(à côté)」。機知は「コード」をはみだす「シニフィアンの全般的経済」(バタイユ的ないみにおける économie générale)に照らしてはじめて理解し得る生産物である。

 

 『機知』書の<<famillionnaire>>が導きの糸となる。機知は「技法」として存り(manière d’être)、機知の生産物は言語というかたちで「存在」する(manière d’être)。familionnaire という人物は幽霊のような「言語上のいきもの」(être verbal)なのであり(“シニフィアンの物質性”!)、これをラカンは『鎖を離れたプロメテウス』の主人公である金満家(Miglionnaire)へと送り返す。すぐれて「無償の行為」を為すひとであるこの人物は、金銭のもつ「純粋なシニフィアン」という一面、その「絶対的権能」に同一化しており、「いっさいの“意味のある”交換を問いに付す」。ところで<< familial >> という語は、家族が主体とのあいだに結んでいた複雑なディスクールの布置のなかから政治的事象として抽出され得るようになってはじめて生まれた言葉である(『リトレ』)。これを以てラカンはハイネの機知が歴史的に文脈づけられていることを暗示する。

 「言うことの現在[プレゼント] 」(le présent du dire)という機知の一面を例証するものとして、ジュディット・ミレールにパテントがあるらしい「At!」なる事例が引かれる。ラカンは「コードの侵犯」という事実ゆえにこれが「機知」だと言い張っている(みずから認定者としての<他者>を演じようとする親バカぶり)。

 「簡潔さが機知の“魂”であるとすれば、饒舌さは機知の“身体にして装身具”である」。「At!」が前者の、そしてレイモン・クノーラカンに語った機知(”Arrière, cocotte!”)が後者の典型ということになる。この事例における馬というシニフィアンの「恐怖症的」価値をラカンはハンス症例に送り返す。

 <<famillionnaire>>は圧縮にもとづく隠喩的な機知であるのにたいし、換喩的な機知の事例として同じ『機知』書から「金の子牛」が引かれる。この事例をフロイトが「分析不可能」としているのをいいことに、ラカンのコメントは悪ふざけの極みである。この事例における偶像崇拝という主題は、想像界象徴界による「置き換え」に関わっているがゆえに隠喩に関係している。偶像崇拝という「想像的退行」は“フェティシズム”に帰される。しかるにフェティシズムは換喩である……。ラカンは換喩と隠喩の連動性を説明したがっているようだ。換喩は隠喩の条件であるとされる。「換喩がなければ隠喩もない」。『ベラミ』が引かれ、意味のたえざる横滑りによって意味への到達をひつようとしない換喩の構造が確認される。現実を描写しようとするディスクールが当の現実にもたらす破壊的 désorganisant で裏目の pervers 効果ゆえに「文学的なリアリズムは存在しない」。

 <<Signorelli>>の度忘れのコメントも、悪名高い独自の隠喩/換喩概念の濫用ゆえにわかりづらい。『精神病』の回で確認しておいたように、ヤコブソンが換喩に帰した「置き換え」(substitution)をラカンが隠喩の機能に振り当てているのが混乱のはじまりだ(その代わりに換喩には「結合」combinaison が割り振られる)。とりあえずこの事例には<<famillionnaire>>のような意味の産出はないので換喩が関係しているわけだが、ラカンは Signor の Herr への「置き換え」を指摘し、そこに「隠喩」の働きを見てとっている。とはいえ、「置き換えが隠喩というわけではない」とすぐさま前言が翻される。つづけて「どうように、換喩と結合も別々のことがらである」とされ、「こうした区別がないといわゆるランガージュの濫用が生じてしまうので、この際はっきり言っておく」とくる。ラカンの隠喩-換喩概念を文字どおりにとろうとすると、『ラカン読解入門』におけるジョエル・ドールのような醜態を演じるはめになる。アラン・コストの『ラカン言語学的錯綜』(PUF)はもっぱらこの対概念を標的にしている。

 フロイトは機知について「無意味のなかの意味」という言い方をしているが、ラカンは「無意味」という曖昧な言葉遣いを厳密化しようとする。ラカンによれば、換喩は「脱-意味(dé-sens)」もしくは「意味のわずかさ(peu-de-sens)」によってシニフィアンを意味論的に平準化し、代わりに「価値」の次元を導入する。「鏡像段階論の先駆者」たるマルクスは、『資本論』の価値形態論のパートにおいて、服と布地がその「意味」を捨象して「等価」としている。「欲求の二つの対象を、一方が他方の価値の尺度となるようにすることで、欲求の次元にあるものが対象から消去され、この事実によって対象は価値の次元に引き入れられる」(ラカン)。一方、隠喩は欲求の対象を別のものに置き換えることで「意味の隘路=意味のなさ(pas de sens)」を導入する(たとえば<<famillionnaire>> といった“ナンセンス”な造語)。

 

 「欲求」「要求」「欲望」の弁証法的関係が導入されたのは本セミネールにおいてである。要求とは欲求がシニフィアンによって伝えられたものである。シニフィアンは欲求の認可者としての<他者>を宛先とする(ドン・ジュアンは「人類愛ゆえ」と断ったうえで乞食に施しをあたえる)。要求に内在するメカニズムゆえに<他者>は欲求の全面的な満足に逆らう。その例として『機知』書の「マヨネーズをかけた鮭」が引かれる。フロイトはこの機知のポイントを「アクセントの置き換え(Verschiebung)」のうちにみているが、ラカンはあらゆる機知は一般化不可能なその特殊性をつうじて「シニフィアンと欲望の関係」を問題にしているとし、この例のうちに「欲望はシニフィアンという通路を経由することによってアクセントを大きく変更され、転覆され(subverti)、曖昧になる」ことを読みとっている。「欲望は要求が象徴的な次元へと導く欲求の想像的な方向性とのズレによって定義される」。

 

 「客観化(対象化)可能性」を重視する風潮に抗い、主体性こそが問われねばならないとされる。主体性はシニフィアンの連鎖の導入する異質性(hétérogénéité)によって定義される。それと同時に「間主観性」という術語にはじめて留保が置かれる。動物間の関係において内部適合がはたらくのとはちがって、シニフィアンの連鎖を介しての二主体の関係においては欲望という「残余」が残る。それが「真理の場」としてのもうひとつの主体性を要請する。主体の誠実さは主体の「意図」によってではなく<他者>によって保障される。<他者>とは「象徴的な場所」であり、「シニフィアンの宝庫」である。それは『機知』書の「赤い糸」(der rote Fadian)の事例が前提している「文化的文脈」のごときものである。ぎゃくにいえば、<他者>はこれこれの「教区」(ベルクソン)に属しており、機知は本質的にローカルなものである。

 機知とは「スペインの宿屋(auberge espagnol)」のようなものである。<他者>という空の「器ないし聖杯」に注ぐべき「パロールのワイン」を自前で調達しなければならないから。この「ワイン」によって「意味のわずかさ」[隠喩]と「意味の隘路」[換喩]の「聖体拝領」が施される。空の器としての<他者>とはひとつの「型」(forme)であり、それは欲望を「満たす」のではなく、「制止」(inhibition)というかたちでその捌け口をつくりだす。

 「<他者>は機知において欲望の解消不可能性(insolubilité)が開く裂け目を補完する(compléter)」もしくは「満たす(combler)」。「機知は本質的に満足されることのない要求にたいして、驚きと快――驚きの快、快の驚き――というかたちで享楽を返す(restituer)」。無意識の形成物は「驚き」をもたらすとフロイトはくりかえし述べている。ラカンによれば機知はすぐれて「予期せぬ出来事」「未曾有のメッセージ」「言表行為のスキャンダル」として到来する。驚き(不意打ち)という主題については『対象関係』の回ですでに触れた。

 

 笑いは想像的なもの、すなわちイメージと密接な関係がある(鏡像段階にある乳児の笑いには言及されない)。もったいぶった人物が道で転ぶとき、そのイメージと実体の分離(de の二重のいみあいにおける << libération de l’image >>)が笑いを誘う。生命現象における機械的なものの出現に笑いの源泉をみてとるベルクソンは、[機械的な]反復が生命の本質に属していないという[非フロイト的な]前提において誤っている。

  機知と滑稽の区別が明確化される。機知は要求が<他者>によって部分的に却下されることを前提している。これを避けるには<他者>をじぶんだけのものにしてしまえばよい。これが「愛」である(「じぶんがもっていないものをあたえる」につづく新たな愛の定義)。「滑稽なものの中心には<他者>と愛の関係がある」。滑稽なものを理解するために「喜劇」が援用される。「喜劇の起源は ça の言語への関係と密接に結びついている」。ça とはランガージュのネットワークに取り込まれる“以前の”原初的欲求のことではなく、ランガージュのネットワークを突き抜けたところにあると想定されるかぎりでの(実現不可能な)欲求の実現のことである。喜劇の起源である饗宴およびアリストファネスの「旧喜劇」においてはこうした「もっとも基本的な(élémentaire)享楽」への“回帰”が目指され、いわば言語以前のありとあらゆる[性的]欲求が前景化している。メナンドロス以後の「新喜劇」においては、「愛」がその[性的]欲求にとって代わる。その頂点をなす『女房学校』においては、愛が ça の「換喩的対象」の追求であることが見事に示される。「愛は滑稽な感情である」。ところがロマン派に至って愛は笑うべき感情ではなくなる。