lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

トポロジー宣言:「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」

*「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」(D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 前回とりあげたのは『無意識の形成物』の1957年12月までの講義である。クリスマス休暇中にラカンは二年前のセミネール『精神病』を回顧する内容の論文を執筆し、SFPの機関誌「精神分析」に掲載した。

 精神分析の精神病への応用が旧態依然(in statu quo ante)にとどまっているという一文からはじまる本論文においては、精神病の分析的治療が「転移の操作」にあるととりあえず前提されている。「人間の存在は狂気なしには理解され得ないだけではなく、みずからの自由の限界として狂気をそのうちに抱えていなければそれはもはや人間の存在ではない」という「心的因果性について」の一節が引かれ、精神病においては転移もエディプス複合も関与していないとする観点にラカンが与しないことが確認される。タイトルが告げるように本論文で扱われるのは精神病の治療そのものではなく、その前提となるひとつの問題、すなわち<父の名>という問題である。

 小笠原晋也氏によれば、『精神病』における「<他者>の排除」が本論文において「<父の名>の排除」と定式化しなおされている。<父の名>は「シニフィアンの場としての<他者>における法の場としての<他者>のシニフィアン」と定義され、<他者>そのものと区別されている。本論文が執筆された直後、年明け一発目の講義もまさに「<父の名>の排除」と題されており(ミレールによる)、<父の名>が「<他者>のなかの<他者>」「<他者>の内部にある本質的なシニフィアン」と定義されているのが確認できる。

 

 分析家たちの誤りは幻覚を現実的知覚のレベルでとらえ、精神病の主体にあっては自我が現実世界にないものを知覚していると考えていることである。これは[自我による]投影という機制を退けたフロイト以前への後退である。ラカンによれば、幻覚を「聴覚的な」ものとみなすことは誤りであり、問題になっているのはシニフィアンの聴取としての「聞く行為(acte d’ouïr)」である。じぶんが話すのを聞くという聴覚的な事実は、「主体のじぶんじしんのパロールに対する関係」すなわち両者の分裂を覆い隠す。

 

 『精神病』における所論が、開講中の『無意識の形成物』において導入された「欲望のグラフ」上に位置づけ直される。シュレーバーにおいては「基本語」が「コード」である(ただし誰とも共有されることのない「妄想のコード」である)。「コード」を通過したディスクールの線がふたたびシニフィアン連鎖と交わることなく「メッセージ」が完成されないのが「中断された文」である。「豚肉屋」の例がふたたび引かれ、転換子(shifter)概念が援用される。

 

 『精神病』で言及されなかったくだりをもふくめ、シュレーバー『回想録』の数多くの細部が該当頁数つきで参照される。アイダ・マカルピンによる『回想録』の解説付き英訳書へのおしみない讃辞が捧げられると同時にその所論の限界が指摘される。マカルピンシュレーバーのケースをとおして同性愛的欲動の制圧というクリシェの無効性を立証している。同性愛はパラノイアの病因ではなくぎゃくにパラノイアの症状の一部である。とはいえマカルピンは、フロイトシュレーバーの「同性愛」のうちに「他性」つまり妄想性「転移」の現れをみてとっていたことを見逃し、妊娠幻想を心気症に帰している。つまりエディプス複合の関与を無視している。

 

 本論文はトポロジー的な問題意識が明確にされた最初のテクストである。L図とその変形であるR図が提示される。すでにトポロジー的探究にのりだしていた1966年の注ではR図の台形(現実界)がメビウスの環をなすと注がある。じっさいに切れ目を入れて捻り、環を結ばせた状態がI図で示される。図を眺めているかぎりではよくわからないが、二つの三角形(想像界および象徴界)が同じ一つの穴をなしているらしい。「欲望のグラフ」の練り上げに着手した同時期の『無意識の形成物』においてもトポロジー的関心が何度も口にされる。セミネールのタイトルじたい『無意識のトポロジー』としてもよかったと述べられているくらいである。本論文では「グラフ」のトポロジーが並行論(心的現象の大脳皮質への局所化)とは別の次元にあるとされている。

 

 「ファルス中心主義」が確認され、『対象関係』における父性隠喩の公式が提示される。本論文を要約する一節。「狂気のドラマを認めようとするとき理性が活躍する。というのはこのドラマが位置するのはシニフィアンにたいする人間の関係においてであるからだ」。

 

シニフィアンの全般的経済論へ:セミネール第5巻『無意識の形成物』第1講〜第7講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 フロイトによれば機知は「滑稽」とはちがい、話し手と聞き手以外の第三者を必要とする。ラカン的<他者>はこの第三者に送り返される。<他者>とは「シニフィアンのさまざまな用法の束」(「シニフィアンの宝庫」とも言い換えられる)すなわち「コード」である。欲望のグラフの祖型が導入され、「シニフィアンの連鎖」と「合理的なディスクール」の交点に「コード」と「メッセージ」(ないし「意味」)が位置づけられる。機知という「メッセージ」は「コード」に違反している。機知において「メッセージはコードとの差異のうちにある」。機知というシニフィアン的生産物をコードのうちに位置づけるのが<他者>である。<他者>による認定(sanction)なしに機知は存在しない(そのばあい、たんなる言い間違い、言葉の誤用でしかない)。機知の「本質」(『機知』書でフロイトが探究していたのはまさにそれであった)は、「真理の不在証明の次元」と関係がある。「文字の審級」論文において、「真理の不在証明」とは主体(コギト)における「思考」と「存在」のズレのこととされていた。機知において問題になるのは「コード」と「メッセージ」のズレ(「心的二重視 diplopie mentale 」)である。いわく、「機知は、別の場所を眺める(regarder)ことによってしか見えない(voir)ものを指し示す。ただし、あいかわらずズレた所に(à côté)」。機知は「コード」をはみだす「シニフィアンの全般的経済」(バタイユ的ないみにおける économie générale)に照らしてはじめて理解し得る生産物である。

 

 『機知』書の<<famillionnaire>>が導きの糸となる。機知は「技法」として存り(manière d’être)、機知の生産物は言語というかたちで「存在」する(manière d’être)。familionnaire という人物は幽霊のような「言語上のいきもの」(être verbal)なのであり(“シニフィアンの物質性”!)、これをラカンは『鎖を離れたプロメテウス』の主人公である金満家(Miglionnaire)へと送り返す。すぐれて「無償の行為」を為すひとであるこの人物は、金銭のもつ「純粋なシニフィアン」という一面、その「絶対的権能」に同一化しており、「いっさいの“意味のある”交換を問いに付す」。ところで<< familial >> という語は、家族が主体とのあいだに結んでいた複雑なディスクールの布置のなかから政治的事象として抽出され得るようになってはじめて生まれた言葉である(『リトレ』)。これを以てラカンはハイネの機知が歴史的に文脈づけられていることを暗示する。

 「言うことの現在[プレゼント] 」(le présent du dire)という機知の一面を例証するものとして、ジュディット・ミレールにパテントがあるらしい「At!」なる事例が引かれる。ラカンは「コードの侵犯」という事実ゆえにこれが「機知」だと言い張っている(みずから認定者としての<他者>を演じようとする親バカぶり)。

 「簡潔さが機知の“魂”であるとすれば、饒舌さは機知の“身体にして装身具”である」。「At!」が前者の、そしてレイモン・クノーラカンに語った機知(”Arrière, cocotte!”)が後者の典型ということになる。この事例における馬というシニフィアンの「恐怖症的」価値をラカンはハンス症例に送り返す。

 <<famillionnaire>>は圧縮にもとづく隠喩的な機知であるのにたいし、換喩的な機知の事例として同じ『機知』書から「金の子牛」が引かれる。この事例をフロイトが「分析不可能」としているのをいいことに、ラカンのコメントは悪ふざけの極みである。この事例における偶像崇拝という主題は、想像界象徴界による「置き換え」に関わっているがゆえに隠喩に関係している。偶像崇拝という「想像的退行」は“フェティシズム”に帰される。しかるにフェティシズムは換喩である……。ラカンは換喩と隠喩の連動性を説明したがっているようだ。換喩は隠喩の条件であるとされる。「換喩がなければ隠喩もない」。『ベラミ』が引かれ、意味のたえざる横滑りによって意味への到達をひつようとしない換喩の構造が確認される。現実を描写しようとするディスクールが当の現実にもたらす破壊的 désorganisant で裏目の pervers 効果ゆえに「文学的なリアリズムは存在しない」。

 <<Signorelli>>の度忘れのコメントも、悪名高い独自の隠喩/換喩概念の濫用ゆえにわかりづらい。『精神病』の回で確認しておいたように、ヤコブソンが換喩に帰した「置き換え」(substitution)をラカンが隠喩の機能に振り当てているのが混乱のはじまりだ(その代わりに換喩には「結合」combinaison が割り振られる)。とりあえずこの事例には<<famillionnaire>>のような意味の産出はないので換喩が関係しているわけだが、ラカンは Signor の Herr への「置き換え」を指摘し、そこに「隠喩」の働きを見てとっている。とはいえ、「置き換えが隠喩というわけではない」とすぐさま前言が翻される。つづけて「どうように、換喩と結合も別々のことがらである」とされ、「こうした区別がないといわゆるランガージュの濫用が生じてしまうので、この際はっきり言っておく」とくる。ラカンの隠喩-換喩概念を文字どおりにとろうとすると、『ラカン読解入門』におけるジョエル・ドールのような醜態を演じるはめになる。アラン・コストの『ラカン言語学的錯綜』(PUF)はもっぱらこの対概念を標的にしている。

 フロイトは機知について「無意味のなかの意味」という言い方をしているが、ラカンは「無意味」という曖昧な言葉遣いを厳密化しようとする。ラカンによれば、換喩は「脱-意味(dé-sens)」もしくは「意味のわずかさ(peu-de-sens)」によってシニフィアンを意味論的に平準化し、代わりに「価値」の次元を導入する。「鏡像段階論の先駆者」たるマルクスは、『資本論』の価値形態論のパートにおいて、服と布地がその「意味」を捨象して「等価」としている。「欲求の二つの対象を、一方が他方の価値の尺度となるようにすることで、欲求の次元にあるものが対象から消去され、この事実によって対象は価値の次元に引き入れられる」(ラカン)。一方、隠喩は欲求の対象を別のものに置き換えることで「意味の隘路=意味のなさ(pas de sens)」を導入する(たとえば<<famillionnaire>> といった“ナンセンス”な造語)。

 

 「欲求」「要求」「欲望」の弁証法的関係が導入されたのは本セミネールにおいてである。要求とは欲求がシニフィアンによって伝えられたものである。シニフィアンは欲求の認可者としての<他者>を宛先とする(ドン・ジュアンは「人類愛ゆえ」と断ったうえで乞食に施しをあたえる)。要求に内在するメカニズムゆえに<他者>は欲求の全面的な満足に逆らう。その例として『機知』書の「マヨネーズをかけた鮭」が引かれる。フロイトはこの機知のポイントを「アクセントの置き換え(Verschiebung)」のうちにみているが、ラカンはあらゆる機知は一般化不可能なその特殊性をつうじて「シニフィアンと欲望の関係」を問題にしているとし、この例のうちに「欲望はシニフィアンという通路を経由することによってアクセントを大きく変更され、転覆され(subverti)、曖昧になる」ことを読みとっている。「欲望は要求が象徴的な次元へと導く欲求の想像的な方向性とのズレによって定義される」。

 

 「客観化(対象化)可能性」を重視する風潮に抗い、主体性こそが問われねばならないとされる。主体性はシニフィアンの連鎖の導入する異質性(hétérogénéité)によって定義される。それと同時に「間主観性」という術語にはじめて留保が置かれる。動物間の関係において内部適合がはたらくのとはちがって、シニフィアンの連鎖を介しての二主体の関係においては欲望という「残余」が残る。それが「真理の場」としてのもうひとつの主体性を要請する。主体の誠実さは主体の「意図」によってではなく<他者>によって保障される。<他者>とは「象徴的な場所」であり、「シニフィアンの宝庫」である。それは『機知』書の「赤い糸」(der rote Fadian)の事例が前提している「文化的文脈」のごときものである。ぎゃくにいえば、<他者>はこれこれの「教区」(ベルクソン)に属しており、機知は本質的にローカルなものである。

 機知とは「スペインの宿屋(auberge espagnol)」のようなものである。<他者>という空の「器ないし聖杯」に注ぐべき「パロールのワイン」を自前で調達しなければならないから。この「ワイン」によって「意味のわずかさ」[隠喩]と「意味の隘路」[換喩]の「聖体拝領」が施される。空の器としての<他者>とはひとつの「型」(forme)であり、それは欲望を「満たす」のではなく、「制止」(inhibition)というかたちでその捌け口をつくりだす。

 「<他者>は機知において欲望の解消不可能性(insolubilité)が開く裂け目を補完する(compléter)」もしくは「満たす(combler)」。「機知は本質的に満足されることのない要求にたいして、驚きと快――驚きの快、快の驚き――というかたちで享楽を返す(restituer)」。無意識の形成物は「驚き」をもたらすとフロイトはくりかえし述べている。ラカンによれば機知はすぐれて「予期せぬ出来事」「未曾有のメッセージ」「言表行為のスキャンダル」として到来する。驚き(不意打ち)という主題については『対象関係』の回ですでに触れた。

 

 笑いは想像的なもの、すなわちイメージと密接な関係がある(鏡像段階にある乳児の笑いには言及されない)。もったいぶった人物が道で転ぶとき、そのイメージと実体の分離(de の二重のいみあいにおける << libération de l’image >>)が笑いを誘う。生命現象における機械的なものの出現に笑いの源泉をみてとるベルクソンは、[機械的な]反復が生命の本質に属していないという[非フロイト的な]前提において誤っている。

  機知と滑稽の区別が明確化される。機知は要求が<他者>によって部分的に却下されることを前提している。これを避けるには<他者>をじぶんだけのものにしてしまえばよい。これが「愛」である(「じぶんがもっていないものをあたえる」につづく新たな愛の定義)。「滑稽なものの中心には<他者>と愛の関係がある」。滑稽なものを理解するために「喜劇」が援用される。「喜劇の起源は ça の言語への関係と密接に結びついている」。ça とはランガージュのネットワークに取り込まれる“以前の”原初的欲求のことではなく、ランガージュのネットワークを突き抜けたところにあると想定されるかぎりでの(実現不可能な)欲求の実現のことである。喜劇の起源である饗宴およびアリストファネスの「旧喜劇」においてはこうした「もっとも基本的な(élémentaire)享楽」への“回帰”が目指され、いわば言語以前のありとあらゆる[性的]欲求が前景化している。メナンドロス以後の「新喜劇」においては、「愛」がその[性的]欲求にとって代わる。その頂点をなす『女房学校』においては、愛が ça の「換喩的対象」の追求であることが見事に示される。「愛は滑稽な感情である」。ところがロマン派に至って愛は笑うべき感情ではなくなる。

 

衆生に語りかけるラカン:「レクスプレス」誌によるインタビュー

*「精神分析への鍵」(Clefs pour la psychanalyse, in l’Express, 31 mai 1957)

 

 老舗週刊誌に掲載された Madeleine Chapsal によるインタビュー。ラカンが平易な言葉で一般読者向けに自説を述べている点で貴重なテクストと言えよう。後年の「ラジオフォニー」「テレヴィジオン」にならって通称をつけるなら、さながら Hébdomadaire か?「文字の審級」とほぼ同時期のテクストだが、以下のランダムな抜粋に読まれるとおり内容的には「ローマ講演」のおさらいといった感が強い。

 

 精神分析は、宇宙の秩序においてコペルニクスが世界を脱中心化したのと同じ「壊乱」(subversion)および「スキャンダル」を人間の秩序にもたらした。「あなたはもはやあなたの中心ではない。なぜならあなたのなかにもうひとつの主体、無意識があるからだ」。

 

 フロイトに非合理主義を帰すのは当たらない。「フロイトはそれまで合理化に抵抗していたものを合理化しただけではなく、理性をはたらかせる理性(une raison raisonnante)それじたいのうごき、つまりその理性が主体の知らないところで理性をはたらかせ、論理として機能しているところを示しさえした。しかもそれを伝統的に非理性に帰されてきた領域、いわば情念の領域において示したのだ」。

 

 「セクシュアリティパロールの場(lieu)である」。「フロイトが扱う(traiter)のは生の状態での(à leur puissance première)本能的なものの諸効果ではない。分析可能なものは主体の歴史の特異性をなすもののなかですでに分節化されたものだけである。主体がそこにみずからを認めることができるのは、精神分析がこの分節の“転移”を可能にしてくれるかぎりにおいてである」。「たとえば同性愛というかたちであらわれようとする性本能のばあい、主体はみずからの同性愛を抑圧するのではなく、この同性愛がシニフィアンの役目を果たしているパロールを抑圧するのだ」。

 

 「分析家を“魂のエンジニア”とみなすべからず。分析家は物理学者ではない。分析家は因果関係を打ち立てるのではない。分析家の技能(science)は読みとること、意味を読みとることだ」。フロイトコロンブスというよりシャンポリオンである。「精神分析家は未知の大陸を探検する人ではなく、言語学者だ。分析家は万人の目のまえにさしだされ、じっさいに眼下にある書き物の解読を学ぶ」。「でもフロイトの発見は、患者は抑圧によってじぶんじしんの一部を隠すことで病気になるということではないのですか?――フロイトは抑圧が“抑圧されたものの回帰”とよばれる現象と不可分であるとも言っていることをお忘れなく」。

 「精神分析において、抑圧はものの抑圧ではなく真実(vérité)の抑圧である。真実を抑圧しようとするとどうなるか。連綿たる圧制の歴史がそれへの答えだ。真実はほかの場所で、ほかの音階(registre)で自己を表現する。暗号化された、非合法の言語によって。意識にとっても同じだ。抑圧された真実は生き延びているが(persister)、別の言語、神経症の言語に移し替えられている。ただしこの場合もはや話している主体がなにであるかは言うことができない。“それ”が話している、話しつづけているのであり、それは失われた文字が解読可能であるようにすっかり解読することができるのだ。[……]真実を抑圧した主体はもはや支配力をもたず、みずからの言説の中心には位置していない。ものごとがひとりでに機能しつづけ、言説が分節化されつづける。ただし主体の外で。こうした場所(lieu)、こうした主体の外部、これこそが無意識とよばれているものだ」。

 

 「フロイトにとってもわたしにとっても、人間の言語は泉の水が湧き出るように人間存在において湧き出てくる(surgir)ものではない」。子供による事物の習得が例に引かれる。子供はやけどをすることで温度についての知識をおのずから得るのではなく、やけどをしたことを周囲の人に教えられて、やけどということばを理解しようと努力する。「生まれてきた人間は言語をこととする。[……]生まれ落ちてくる子供はすでにして言語のハンモックでその全身を受け止められるのであり、そこに閉じこめられる」。

 

 「患者は真実をもとめて分析家のところにやってくるわけではなく、苦しみをやわらげてほしいのではないでしょうか?――道具を使うときにはその道具がなにであり、どのようにつくられているかを知る必要がある。……精神分析の効果は言語のレベルにある。……分析の諸効果は抑圧された言説の回帰のレベルにある。患者を寝椅子に横たわらせ、分析のルールをかいつまんで説明したその時点で、患者はすでに真実の探究の次元に導き入れられている。……患者は苦しんでいるが、おのれの苦しみを乗り越え、やわらげるために向かわなければならない道が真実のレベルにあることを理解している。その真実をもっと知ること、よりよく知ることに」。

 

 「わたしは“誰が話すか”と自問しない。別の(autrement)、より明確な(formulable)問いの立て方をする。“それ(ça)はどこから話すか”と。言い換えれば、わたしが打ち立てようとしてきたのは形而上学ではなく間主観性の理論だ」。

 

 「発話と打ち明け話によってみずからの真理をもとめるのが重要であるのなら、分析は告解にとって代わるものなのでしょうか?――告解は秘蹟であって、打ち明け話の欲求を満たすものではない。聖職者の答えは赦免の効果をもつとはされていない。――とはいえある時期から告解はいわゆる霊的指導と結びついています。――霊的指導は真実を明るみに出すことを目的とする技術を気にかけることがない。……分析的真理は霊的指導に秀でた人にしたがうことでその真理のなんたるかがおのずからわかるというような秘密めいたものでも神秘的なものでもない」

 「精神分析は主体の“適応”――外的環境へのそれであれ、じぶんの人生、じぶんの真の欲求へのそれであれ――を目的とするものではない」。

 

 「人々は精神分析によってじぶんの一部が失われ、変わってしまうことを恐れているのではないでしょうか?――分析をうけたあとで人格の変化がないと考えるのはおかしい。分析の成果があったのにそれがなかった、つまり人格がもとのままだなどということは考えがたい。人格という観念をはっきり定義すべきだ」。

 

 「芸術家にとっても分析は同じいみをもちますか?――主体の歴史の真理へ至るために分析という方法に訴えるのが得策なのか、もしくはゲーテのようにそれじたいがひとつのとてつもない精神分析である作品に委ねるのが得策なのか。ゲーテの作品はそのぜんたいが[人間主体のなかに寄生している]他の主体(l’autre sujet)のことば(parole)の顕現だ」。

 

 「権力者には分析を義務づけるべきでしょうか?――全人類が分析を受ければ戦争も階級闘争もなくなるなどと言うつもりはない。ぜったいにそうはならない。事態の混乱の度が弱まりはするだろうが」。

 現在、精神分析という「道具」の使い方を知らないのは当の分析家たちである。「精神分析の大部分の学派は réduction[縮小、省略、単純化、安売り]の試みに余念がない。フロイト理論のなかでも厄介な(gênant)ものだけを残している(mettre dans sa poche)。この堕落は年々加速している」。

 医学教育に特化した今日の分析教育は「本質的なものを欠如させている」。「こんにち精神分析はますます混乱した神話学に向かいつつある。エディプス複合が消去され、前エディプス的なメカニズムやフラストレーションが重要視され、“不安”という術語に“恐怖”がとって代わっているのはひとつの現れである。とはいえ、フロイディスムのもともとの煌めきが翳ってしまったわけではなく、現在あらゆる人文科学においてその明るい輝きをしかと確認できる」。  

 「ジグムント・フロイトというたった一人の男が、それまで一度たりとも分離されたことのなかった諸効果のうちからそのいくつかを抽出し、組織立ったネットワークのうちにそれらを位置づけなおしてひとつの科学とこの科学の応用分野とを同時に発明したことは驚くべきことであり、衝撃的なことである。とはいえ光芒のようにその時代を横切ったフロイトの天才的な仕事に比べて後続者の仕事が大幅に遅れているのを痛感する」。

 

 これにつづく結びの文は急に書き言葉っぽくなる。

 

 Et on ne reprendra de l’avance que lorsqu’il y aura suffisament de gens formés pour faire ce que nécessite tout travail scientifique, tout travail technique, tout travail où le génie peut ouvrir un sillon, mais où il faut ensuite une armée d’ouvriers pour moissonner. 

 

 ラカンのその他の会見類と同じく、全体的にあとからかなり手を入れた形跡がある。

 

再配達された手紙:「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」

*「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」(L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 先行する二つの論文どうよう、哲学研究者向けの講演を基にした論文であるのは偶々か?1968年版で若干の改稿がある。

 主要なトピックをなすフロイト的構造言語学、隠喩と換喩のメカニズム、コギト解釈は、それぞれ「ローマ講演」、『精神病』(および『対象関係』)、セミネール2巻のヴァージョンアップ版。「ローマ講演」以来の成果に一段落つけようとした論文という性格がつよく、本質的な新機軸はない。

 主なキーワードである「文字」とはまずフロイトの記したテクストのことであり(ラカンはそれを文字どおりに << à la lettre>> 読まねばならないと強調している)、再配達されてきた「盗まれた手紙」である。

 とりあえず文字はその「物質性」によって定義される。いわく「文字は具体的なディスクールがランガージュから借り入れる物質的な support[支持体、媒体] である」。さらに、この定義は「ランガージュは語る主体における身体的・心理的機能とは区別されることを前提する」とつづく。つまりナンシーとラクー=ラバルトがコメントするごとく、この「物質性」は、言語の起源を意味の観念性のうちにも身体的な実体性へも帰すことの拒否ということにアクセントがある。

 『盗まれた手紙』論においてはくだんの手紙[lettre]が純粋なシニフィアンとされ、「シニフィアンの物質性」が言われていた(さらに遡れば「ローマ講演」においてはパロールが「繊細な身体(corps subtil)」と形容されていた)。いわく「シニフィアンは死の審級を物質化する」。そしてそれは「さまざまな点で特異な物質性」である。実体性なき物質性という性質はその「特異」さのひとつに挙げられようが、これはソシュールに拠っている。ソシュールシニフィアンを聴覚的イメージと同一視しつつ、これが物理的な音響ではなく精神に刻まれた印象であるとしている。ソシュールにおいてはシニフィアンシニフィエの不可分性が強調される。たいしてラカンにおいては両者は結びつかず、シニフィアン相互の連鎖が強調される。シニフィアンは関係性において作用するのであるから、音素は非実体性である。それをあえて「物質性」と規定するのはあるいみで逆説的である。

 さらに文字はその“場所性”によっても定義されている。いわく文字とは「シニフィアンの局在化された構造」である。『盗まれた手紙』論においてはくだんの lettre が「場所とさまざまな関係」をもつとされ、さらにその諸関係はやはり「特異(odd)」 なものであるとされている。うえの定義を含む一文をそのまま引こう。「それゆえパロールそれじたいにおける本質的な一要素が、ディド体なりガラモン体なりで活字箱のなかで印刷される活字に流し込まれるべく運命づけられているのであり、これらの活字が文字とわれわれの呼ぶもの、すなわちシニフィアンの本質的に局在化された構造を現前化させるのだ」(Ecrits, p.501)。とりあえず物質性といい局在性というのは印刷されたものというイメージか。もしくは「盗まれた手紙」のように手書きされたもの(『盗まれた手紙』論においてシニフィアンの物質性の「特異」さの筆頭として挙げられているのは、分割不可能性である。手紙は破くことができるが、シニフィアンは破壊されることがない)。ソシュールシニフィアンの物質性を聴覚的にイメージしているとすれば、その局在性によって際立つ文字の物質性はむしろ視覚的なものなのか?「物質性」は「素材性」でもあるが、これより先のくだりには、夢において「意味する素材」(le matériel signifiant)に課される条件としての Rücksicht auf Darstellung というメカニズムへの言及があり、ラカンはこれを形象化(figuration)と解するのは曖昧であり、「演出(舞台化)の手段への配慮」と訳すべきだとしている。つまり視覚的な側面を強調しているわけであろうか?

 同じく本文で引かれている「文字は殺し、霊は生かす」という新約の一節もラカン的「文字」の理解の手がかりをあたえてくれそうだ。mot d’esprit (「語」と「精神」の結びつき)への言及につづいて引かれるこの一節について、ラカンは「人間において真理の諸効果を生み出す」文字なくしていかにして精神は生きるのかと問いかけている。ここで文字は聖書のそれを暗示している。この一節はまた先に引いた「シニフィアンは死の審級を物質化する」をも想起させる。ここで文字と霊の対立が退けられていることは文字の「物質性」の理解になにがしかのヒントとなろう。

 そして lettre は l’être の語呂合わせでもあるだろう。三部構成の本論文のさいごのパートのタイトルは、<< La lettre, l’être, l’autre >>である。「存在」は本論文のキーワードのひとつである。つぎのような一節がある。「神経症は存在が主体の代わりに(pour。ついで à la place de とも言い換えられる)問う問いである」。そしてこの問いは「主体がこの世に到来する以前に存在がいた場所から」(フロイト先生がハンスにくだしたれいのお告げの文句)問われるのだとされる。これは存在は主体「を使って」(avec)問うのだとも言い換えられる(ひとは魂「を使って」考えるとしたアリストテレスをふまえている)。「存在」と「主体」のズレは、コギトにおける「思考」と「存在」の乖離においても確認される(コギト命題は「私は私が存在しないところで考える、ゆえに私は私が考えないところに存在する」というお得意のキアスム的警句に翻訳される)。そう考えるとあらためて引かれることになる <<Kern unseres Wesen >>というフレーズの含蓄がわかってくる。さらに隠喩が「存在欠如」として再定義される(たいして換喩は「存在」である)。なによりもラカンが同時期にハイデガーの『ロゴス』を翻訳していることが忘れられてはならない(タイトルに含まれている「理性」という言葉は本文では「狂気」の別名として言及され、それが「ロゴス」へと送り返されている)。

 いまひとつのキーワードは sens であろうか。本論文の第一部は <<le sens de la lettre >>と題されている。すでに sens は「フロイトの sens への回帰」というれいの殺し文句において問題にされていた。とりあえず、sens に「方向」といういみあいが含意されていることはどんなバカにでも見当がつくが、本論文において重要なのは隠喩の再定義であろう。いわく「隠喩は sens が non-sens において[へと]生産されるまさにその点に位置している」。この一節はすでに引いた「文字は殺し……」についての議論の直前にある。

 そして「真理」という語があいかわらず湯水のように垂れ流される。「この欲望[un désir mort]が主体の歴史においてそれであったところのものの真理を主体はその症状によって叫ぶ。イスラエルの子等がおのれの声を委ねることなくば石そのものが叫ぶだろうとキリストが言ったごとくに」。「ひとは現実界には慣れてしまう。真理については、ひとはこれを抑圧する」。「ランガージュのあらわれ(apparition)とともに真理の次元が浮かび上がる(émerger)」……

 「文字」というキーワードに戻るならば、これはラカンじしんの「書きもの」(écrit)のことでもあろう。『エクリ』英訳者フィンクは、論文冒頭でラカンがその“難解さ”を難産になぞらえて正当化していることを見事に読み解いている(人文書院刊『「エクリ」を読む』)。

 

 

純粋なシニフィアンとしての基本概念:「精神分析とその教育」

*「精神分析とその教育」(La psychanalys et son enseignement, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 フランス哲学協会での講演を基にその紀要に発表された。前年の「1956年における精神分析の状況と分析家の養成」にひきつづき哲学屋さんに向けての一文。しかも分析家の養成というテーマも一緒である。

 

 冒頭、哲学協会という場で話をする必然性が明記される。

 

 「無意識、それは深層[profond]というよりも意識的な掘り下げ[approfondissement]が到達できないところにあるわけだが、その無意識において、それが話す:ひとつの主体が、主体のなかで、主体をこえたところで、『夢の科学』以来、哲学者に問いかけている」。

 

  「ローマ講演」以来のラカンの所論を圧縮した文体で通覧した散漫な構成の論文。かんじんの「教育」という主題についてはつぎのような問いが投げかけられる。

 

 「精神分析がわれわれに教えることをいかに教えるか?」

 

 精神分析の教育は教育の主体への問いからはじまるというわけだ。

 

 さらに、聴衆の哲学徒らをおおいに意識しつつ、

 

 「分析がわれわれに教える、分析に固有な(propre)もの、もしくはもっとも固有なもの、真に(vraiment)固有なもの、もっとも真に固有なもの、もっとも真なるものはなんであろうか?」

 

 この問いにたいするひとつの回答。

 

 「実用的(fonctionnel)ひいては観念的(notionnel)な職業訓練において、視野の狭い教育学は個人(individu)のランガージュへの諸関係を端折ろうとしてきた」

 

 前年の論文に引き続き、国際精神分析協会が槍玉に挙がる。

 

 精神分析の逸脱(心理学化)が「フロイトがみずからの発見と方法の伝達を保持するために設立した」ほかならぬその協会によって「囲われ、守られ、餌をあたえられている」。協会はその権威主義(「<他者>の残酷な擬人化」)によってフロイトの精神的な(spirituel)後継者に道徳的矯正(direction spirituelle)を課している。

 

 フロイトの権威化は、逆説的なことに「みずからのメッセージの純粋に形式的な保存」というフロイトの願いを実現した(ただしそのメッセージのいみあいは著しく歪められている)。

 

 かくてフロイトの「基本概念」は揺らぎのないままである。理解されなかったことによって、ぎゃくにシニフィアンとして伝達されることに成功した。

 

 ここには「基本概念」という特異なフロイト的観念についてのラカンの鋭い洞察がある。

 

 「フロイトは、かれの諸概念、わたしはそれらが他の人文諸科学をはるかに先駆けていたことをすでに示したわけであるが、その諸概念が、柔軟な、とはいえそれらの結び目を解くことなしに損なうことが不可能な――三重否定!――配列[処方]において認知され得る日がくるまではこのよう[理解されないこと]であってほしいと願っていたとおもう」

 

 現在の無理解(「聞く耳もたぬどうしの言説」「不協和音」)は、フロイトの諸基本概念を「媒体」(vehicule)とする真理を抑圧してくれている。「抑圧されたものの回帰」としての真理の「はずかしげな顕現」をうちに隠している。

 

 そして結末の名高い一文がくる。

 

 「その名にあたいする教育に素材を提供するフロイトへの回帰はどんなものであろうと、もっとも隠された真理が文化の革命において顕現する道をとおって起こる。この道はわれわれにつづく者らに伝達するにあたいする唯一の教育(formation)である。それは style と呼ばれる」

 

 ラカンじしんの「文体」がここに根拠をもつ。

 

 「道」(voie)とはフロイトが好んだ比喩である。文中にはつぎのようにもよめる。

 

 「この道はフロイトによってわれわれのためにたんに切り開かれた(tracé)だけではない。この道は端から端までもっとも莫大でもっとも恒常的でもっともみまちがえようのない主張によって敷き詰められている。そのどの頁をでも開いて読んでみるがいい。この王道(route royale)のなりたち(appareil)がみつかるだろう」

 

 文中、真理という語が大盤振る舞いされる。「真理はそこ[想像的なものたち]においてみずからの虚構[として]の構造をあらわれさせる」「かくも真なる(véridique)虚構の構造」。『盗まれた手紙』論に遡るこうした言い回しはもちろん同時期のセミネール『対象関係』で分析されたハンスの「個人的神話」において問題になっていたことでもある。

 

 「真理がそこから現実界に入る間主観性の作用」。「現実界」の定義についてはやはり『対象関係』において着手されたが、いまだその用法には揺れがある。

 

 「真理によって描かれたこの場所は、描かれた場所の真理の序曲となる」。「フロイト的もの」以来すっかりおなじみのキアスム的警句。ここで言われている「場所」とは<他者>のことである。『対象関係』には<他者>を「パロールの場」と定義するくだりがみえる。

 

 『対象関係』における所論はここでもくりかえされる。フロイトは対象の運命を偶然性に委ねたが、今日の精神分析家たちはこの偶然性を環境による決定論に回収してしまう。もしくは発達段階論が「プレハブ式の対象選択」と揶揄される。クラインの「悪い対象」が聖書の「酸っぱいブドウ」になぞらえられているのはケッサクだ。

 

 「シニョレッリ」への言及は次年度のセミネールのかっこうの予告編。

 

ハンス、あるいは存在の自己忘却:セミネール第4巻『対象関係』

*『対象関係』(Le Séminaire Livre IV : La relation d'objet, Seuil, 1994)

 

 カール・アブラハム以来の発達段階論において掲げられ、当時なお幅を効かせていた“理想的対象”という観念が退けられ、フロイトにおいて「対象」は喪失され、再発見されるべきものであるかぎりで問題になることが確認される。対象の欠如には「フラストレーション」、「剥奪」、「去勢」の三つの様態があるとされ、そのそれぞれが想像界象徴界現実界相互の関係のうちに位置づけられる(ジョエル・ドール『ラカン読解入門』に紹介されているジャン・ウーリーの考案になるというダヴィデの星のダイアグラムの参照は不可欠だ)。「フラストレーション」はラカンにおいては過渡的な概念にとどまるが、フロイトの Versagung 概念の流用であり、当時の業界内では去勢概念を押し退けて前景化していた。

 

 欠如した対象とは端的にファルスである(ファルスは不在という形で所有するということがあり得る)。ラカンは構造人類学における「贈与」の象徴性によってファルスの機能を定義し(「ファルスの幻想は、性器的なレベルにおいて、贈与の象徴性の内部において価値をもつ」)、フロイトの二つの症例(「若い同性愛者」およびドラ)においてそれを例示する。フロイト神経症と倒錯がポジとネガの関係にあるとしているが、ラカンによれば、この二つの症例はまさにこの関係を典型的に示している。

 

 「同性愛者」においては父が母に「現実的子供」を授けたのを機に、かのじょがその「想像的子供」を授かることを欲していた「象徴的父」が「想像的父」のポジションに退行し、かのじょはこの「想像的父」に同一化して、ファルスをもたない者としての「婦人」を愛する(「愛とはじぶんがもっていないことをあたえることである」)。フロイトは患者の倒錯を父への当てつけとみなしているが、ラカンによればうえのようないみで患者の「婦人」にたいする情熱は真摯なものである。

 一方、ドラにおいては父が不能であり、あたえるべきファルスをもたない。ドラは父があたえてくれないものゆえに父をあいしている。しかるに父はK夫人をあいしている。K夫人は女性の謎を体現するなにものか(それが何であるかをドラは知らない)を所有している。それゆえドラはK夫人において父があいしているこのなにものかゆえにじぶんが父にあいされたいとおもう。ドラがK氏の求愛を受け入れるのは、K夫人をあいするK氏がそのおなじ理由によってドラをあいするかぎりにおいてである。そのかぎりでK夫人が所有しているものをドラも所有しており、じぶんが父にあいされ得ることになるからである。

 

 二つの症例において「まったく同じ」関係で結ばれた四人の人物が「L図」上に配置される。「同性愛者」は当初じしんの「想像的ペニス」に同一化して父の「現実的な子供」を授かろうとするが、父が「現実的な子供」を母親に授けるという出来事ゆえに、「想像的父」に同一化して「現実的貴婦人」に宮廷風の愛(「非-満足を目指す愛」)を捧げるに至る。

 「同性愛者」の「婦人」にたいする熱愛は、真の愛がどういうものであるかを父親に見せつけるためである。そのかぎりでかのじょの同性愛は「行間に」言葉の字面とは別のメッセージを「暗示」している。このいみで倒錯は「換喩」である。あるシニフィアンが別のシニフィアンに結びつけられ、それを代理している。対してドラはひとつのシニフィエ(女の謎)と複数のシニフィアンを結びつけているかぎりで「隠喩」を事とする(「K氏はドラの隠喩である」「症状は隠喩である」)。

 

 「対象において愛されるものは対象に欠如するものである」および「ひとはもっていないものしかあたえることができない」という二つのテーゼから、典型的な倒錯としてのフェティシズムへと話題が繋げられる。フェティシズムにおいては「ヴェール」の向こうに対象を越えた次元が創出される。「ヴェールの上に不在が描かれる」かぎりで、ヴェールは「愛の基本状況の最良のイメージ」である。フェティシズムにおいては象徴的なドラマが想像的な「舞台装置」において演じられるのだ。ちなみに服装倒錯における衣服は“覆い”ではなく“包み”(遮断、保護)であるかぎりでフェティシズムと区別される。露出症も象徴的な次元が想像的な次元に退行するかぎりでフェティシズムとパラレルである。そもそも衣服は「もっていないものを隠す」機能をももつ。

 倒錯は生来的な欲動に由来するものでエディプス複合は関与していないという見解にラカンは与しない。プログラム化という観点を退けあらゆるプロセスをを間主観性弁証法に帰すのがセミネールぜんたいを通じてのラカンの一貫した立場である。ラカンによれば去勢は人間という類( genre )に固有の機制であるが、このばあいの「類」とは生物学的な「種」( espèce )とは厳密に区別されなければならない。

 

 セミネール後半はハンス症例の詳細な「構造分析」にあてられる。ハンスにとっての問題は父の欠損(carence)、つまり現実的な父(マックス・グラフ)が去勢者としての象徴的な父の役割を担い得ていないことだ(このあたりの目的論的な立論は否定しようもないが……)。恐怖症はこの事態が生み出す「不安」にたいする“防衛”である。ハンスの発病のきっかけは自慰の開始にともなう「現実的なペニス」の介入である。「馬のような」ペニスにはおよびもつかないじぶんのペニスの非力さへの自覚が、それにたいする母親の侮蔑の言葉(「汚い」)を事後的に賦活したのだ。

 ハンスはその「個人的神話」における紋章学の一要素である馬という「トーテム」(シニフィアン)にありとあらゆる意味作用を経巡らせつつ(不安の対象をつきとめるべくあらゆるものがこのシニフィアンシニフィエとして召喚されるわけである)一連の幻想ないし夢として「結晶」させていき(「リメイク」)、去勢(性交)という状況を“神話的に”表象するに至る(神話とは、ある袋小路の状況にたいし解決を構築する試みと定義される)。最終的には神なきハンスにとって文字どおりの deus ex machina である工事夫という人物像に去勢を一部委託させ、かくて症状は消滅し、「めでたしめでたし」(フロイト)となる。ラカンは<フラストレーション+退行+攻撃性>という三点セットがこの症例において不在であることを指摘し、発達段階論に立脚する論者らを論破する(ハンスの関心は一貫して性器にしかない。本症例におけるスカトロジー的要素は「肛門期」とは無関係である。ついでにいえば母親が穿いていないときのパンツへの嫌悪はハンスがフェティシストではないことの証左である。「父とは何か」という問いをすぐれて問う主体であるハンスは倒錯者ではなく神経症者である)。ハンスの症状は発達段階ではなく「シニフィアンの結晶の発展」にしたがって進展する。とはいえハンスは自前の想像的な素材(「道具」)のブリコラージュによる構築をもって象徴的なものに代えただけであり、ハンスの物語はハッピーエンドとはかぎらない。そもそも工事夫が「よりよいペニス」をハンスの「前面」にあたえたなどとは分析記録のどこにも書かれていない。父の欠損への不安が払拭されたとしても、父の欠損という事実の効果をかれは担いつづけなければならないだろう。ハンスは生涯、女性をじぶんの想像的な子供としてしか愛せないだろう(ハンスのドンジュアニスム、“Phallus =Girl”)。後年、フロイトと再会したハンスは分析記録がじぶんのことであると認知できなかった。「存在には想像的自我における忘却という根本的可能性がある」。セミネールを締めくくるこの一文はなにがしか悲劇的な調子を帯びる。

 馬というシニフィアンに唯一のシニフィカシオンを帰すことで「了解」してしまわぬようラカンは度重ねて警告しているが、ラカンは馬がとくに“連結”および“運動”という主題に結びついていることを強調している(二つの主題は Verkehr という観念において合流する )。前者はペニスの「取り外し可能性」という主題系として変奏されていき、後者はアリストテレス的な等速運動をはみだす「不意打ち」「驚き」の効果(ディアナの水浴を想起せよ)によって「存在と生の乖離」を明るみに出すだろう。

 さて、セミネールのコーダにはハンス症例のコウノトリがレオナルド論の「禿鷲」へと回付されるアクロバティックな大ジャンプが待っている(小羊という動物学的紋章およびアンナという人物名もこのアナロジーへ通じる小径である)。現実界の数学化という科学的トレンドに乗り損ねたレオナルドがなぜあれほどの現代的な認識をもちえたのか? レオナルドは自然という他性を想像的同一化によって接近可能なものにしたというのがラカンの見立てだ。『聖アンナ』像における現実的母(マリア)と象徴的母(アンナ)の「融合」を見よ。前後するが、ラカンはハンスにおいても超自我的な祖母の介入による「母の二重化」という事態をみてとっている。この祖母がハンスにとっての「想像的父」となる(「象徴的父」の役柄を演じるのはフロイトである。“全知”のフロイト先生はハンスにとって文字どおり神である。ハンスはわれわれが神を漠然と信じるように漠然とフロイトの存在を仰いでいる。「象徴的父」とはいかなる人もそのポジションを担い得ない審級である)。

 ラカンはレオナルドにおける「昇華」という機制を「本質的な他性に蜃気楼の関係を住まわせること」と表現している。昇華についてのラカンの見解は三年後のセミネール『精神分析の倫理』に俟たれることになるわけだが、とりあえずここでは自我心理学派による「脱リビドー化」といった理解の仕方が退けられ、倒錯がそうであるとされたように、昇華もまたファルス、要するに去勢、したがってエディプス複合に関わっているという観点が打ち出されていることを確認しておこう。

 というわけで、精神病についての前年度のセミネールにおけるファルスの優位という問題提起が、本セミネールにおいては神経症、倒錯、昇華という機制を包含するものと位置づけられ、確認される。

 

 

ヴァルデマール氏ふたたび:「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」

*「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」(Situation de la psychanalyse et formation du psychanalyste en 1956, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 初出は Etudes philosophiques 誌(第4号、1956年)。部外者にパノラマを提示するという主旨にしては内輪向けに書かれているようなフシが強い(?)。一部大幅な改稿を経て『エクリ』に収録された。

 

 精神分析の現状と分析家の養成という二つのテーマをもつ論文。これらはフロイト的経験の伝承の困難という一つのテーマに帰されるだろう。

 

 前半ではフロイト以後の精神分析の潮流と諸概念が列挙され、そのことごとくが象徴的なものを無視していることが批判される。ラカンの見立てによれば、フロイト以後の分析運動史はまず想像的なものを現実的なものと同等に格上げすることにはじまり、ついで前者を後者の規範と位置づけるに至る。

 

 しかるにフロイトが目指したのは「想像的なものを象徴の連鎖のうちに保障すること」である。「人間は生まれる前から、そして死んだあとも、象徴の連鎖の囚われである」。無意識とは要するに「象徴的なものは人間の外にある」ということをいみし、自我の自律を唱えるトレンドが槍玉に挙がる。ついでにフロイト用語がそのほんらいの意味を無視して使われている事態が「純粋なシニフィアン」と揶揄される。

 

 フロイトがみずからの思想を完全な形で維持しようと設立した国際精神分析協会(IPA)は、フロイトが「大学で精神分析を教える必要があるか」(1919年)で思い描いた精神分析教育の理想に逆行している。それどころか、フロイトが『集団心理学と自我の分析』において軍隊および教会(“治外法権”)のうちに見てとり、ファシズムを予言することにもなった構造にはまりこんでしまっている。つまり、各々の自我を共通の理想像に同一化させるという事態である。

 

 『エクリ』刊行時に最後のパートが完全に改稿されている(初出時のヴァージョンでは全体の四分の一。改稿部分は初出時の倍以上の長さに膨らんでいる)。

 

 改稿部分では<自足><小さな靴[窮屈な思い]><至福><必要なもの>といったアレゴリーを用いてIPAの分析家養成制度が皮肉られている。<自足>は精神分析の階級制度における「唯一の階級」とされ、ほかの階級がないので精神分析の世界では民主主義が保たれているとされるが、いうまでもなくこのばあいの民主主義とは古代のポリスにおけるそれとどうよう、あくまで「主人」だけのそれである。この団体が自我心理学の土壌となったことは偶然ではない。

 

 どうやら<自足>とはIPAのメンバー、<きつい靴>とは外郭団体のメンバーを指すものであるようだ。<至福>とはIPA公認の分析家の栄誉にあずかる志願者であり、<必要なもの>とは教育分析を担当する分析家であるらしい。IPAの制度において四者の関係は、カントが『純粋理性批判』で使い、フロイトシュレーバー症例で引用した比喩における、別の男が搾る山羊の乳を篩で受けようとする男のように複雑怪奇な配置をなしており、とうぜんながらIPAの分析家教育において「真理」(カントがくだんの比喩を使ったとき問題になっていたもの)は篩からことごとくこぼれ落ちている。

 

 周知のとおり、この三年前にSPFを立ち上げたラカンIPAの公認を得ようと画策するも、IPAラカン(およびドルト)の教育分析家としての資格を認めなかった。SPPとSPFの分裂の背景には、非医師に教育分析を委ねるか否かという論争があった。ラカンによれば、非医師に教育分析の資格を認めないIPAの教育は医学教育の二番煎じに堕し、およそ実践的ならざる「フィクションのネタ」を提供するだけ終わっている。また、<自足>は口(parole)を挟まないことを旨とするので、「文盲」[非医師]であっても黙っていれば非合法的に<自足>の座にありつくこともできる。

 

 フロイトの立ち上げた協会はいわば「ヴァルドマール氏」のように死後の生を生き、[プラトンの]エロスのように腐敗に至るまでのつかの間の享楽を満喫しているだけである。師フロイトパロールを甦らせることがこの協会を安らかに眠らせることになる(この論文はフロイト生誕百年目に書かれている)。

 

 1966年版のこのような結論は初校ヴァージョンのそれに忠実である。いわく、「分析の共同体がフロイトの inspiration[ひらめき、影響力、息]が散逸するのをさらに許容するにつれて、フロイトの学説の文字(lettre)いがいの何がそれをひとつの corps のうちに保持しつづけることができるというのか」。

 

 ラカンは動物の心理と人間の心理の不連続性を唱えているという「誤解」が蔓延しているとの一節あり。晩年のデリダもこの一節を引いていた。