lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

衆生に語りかけるラカン:「レクスプレス」誌によるインタビュー

*「精神分析への鍵」(Clefs pour la psychanalyse, in l’Express, 31 mai 1957)

 

 老舗週刊誌に掲載された Madeleine Chapsal によるインタビュー。ラカンが平易な言葉で一般読者向けに自説を述べている点で貴重なテクストと言えよう。後年の「ラジオフォニー」「テレヴィジオン」にならって通称をつけるなら、さながら Hébdomadaire か?「文字の審級」とほぼ同時期のテクストだが、以下のランダムな抜粋に読まれるとおり内容的には「ローマ講演」のおさらいといった感が強い。

 

 精神分析は、宇宙の秩序においてコペルニクスが世界を脱中心化したのと同じ「壊乱」(subversion)および「スキャンダル」を人間の秩序にもたらした。「あなたはもはやあなたの中心ではない。なぜならあなたのなかにもうひとつの主体、無意識があるからだ」。

 

 フロイトに非合理主義を帰すのは当たらない。「フロイトはそれまで合理化に抵抗していたものを合理化しただけではなく、理性をはたらかせる理性(une raison raisonnante)それじたいのうごき、つまりその理性が主体の知らないところで理性をはたらかせ、論理として機能しているところを示しさえした。しかもそれを伝統的に非理性に帰されてきた領域、いわば情念の領域において示したのだ」。

 

 「セクシュアリティパロールの場(lieu)である」。「フロイトが扱う(traiter)のは生の状態での(à leur puissance première)本能的なものの諸効果ではない。分析可能なものは主体の歴史の特異性をなすもののなかですでに分節化されたものだけである。主体がそこにみずからを認めることができるのは、精神分析がこの分節の“転移”を可能にしてくれるかぎりにおいてである」。「たとえば同性愛というかたちであらわれようとする性本能のばあい、主体はみずからの同性愛を抑圧するのではなく、この同性愛がシニフィアンの役目を果たしているパロールを抑圧するのだ」。

 

 「分析家を“魂のエンジニア”とみなすべからず。分析家は物理学者ではない。分析家は因果関係を打ち立てるのではない。分析家の技能(science)は読みとること、意味を読みとることだ」。フロイトコロンブスというよりシャンポリオンである。「精神分析家は未知の大陸を探検する人ではなく、言語学者だ。分析家は万人の目のまえにさしだされ、じっさいに眼下にある書き物の解読を学ぶ」。「でもフロイトの発見は、患者は抑圧によってじぶんじしんの一部を隠すことで病気になるということではないのですか?――フロイトは抑圧が“抑圧されたものの回帰”とよばれる現象と不可分であるとも言っていることをお忘れなく」。

 「精神分析において、抑圧はものの抑圧ではなく真実(vérité)の抑圧である。真実を抑圧しようとするとどうなるか。連綿たる圧制の歴史がそれへの答えだ。真実はほかの場所で、ほかの音階(registre)で自己を表現する。暗号化された、非合法の言語によって。意識にとっても同じだ。抑圧された真実は生き延びているが(persister)、別の言語、神経症の言語に移し替えられている。ただしこの場合もはや話している主体がなにであるかは言うことができない。“それ”が話している、話しつづけているのであり、それは失われた文字が解読可能であるようにすっかり解読することができるのだ。[……]真実を抑圧した主体はもはや支配力をもたず、みずからの言説の中心には位置していない。ものごとがひとりでに機能しつづけ、言説が分節化されつづける。ただし主体の外で。こうした場所(lieu)、こうした主体の外部、これこそが無意識とよばれているものだ」。

 

 「フロイトにとってもわたしにとっても、人間の言語は泉の水が湧き出るように人間存在において湧き出てくる(surgir)ものではない」。子供による事物の習得が例に引かれる。子供はやけどをすることで温度についての知識をおのずから得るのではなく、やけどをしたことを周囲の人に教えられて、やけどということばを理解しようと努力する。「生まれてきた人間は言語をこととする。[……]生まれ落ちてくる子供はすでにして言語のハンモックでその全身を受け止められるのであり、そこに閉じこめられる」。

 

 「患者は真実をもとめて分析家のところにやってくるわけではなく、苦しみをやわらげてほしいのではないでしょうか?――道具を使うときにはその道具がなにであり、どのようにつくられているかを知る必要がある。……精神分析の効果は言語のレベルにある。……分析の諸効果は抑圧された言説の回帰のレベルにある。患者を寝椅子に横たわらせ、分析のルールをかいつまんで説明したその時点で、患者はすでに真実の探究の次元に導き入れられている。……患者は苦しんでいるが、おのれの苦しみを乗り越え、やわらげるために向かわなければならない道が真実のレベルにあることを理解している。その真実をもっと知ること、よりよく知ることに」。

 

 「わたしは“誰が話すか”と自問しない。別の(autrement)、より明確な(formulable)問いの立て方をする。“それ(ça)はどこから話すか”と。言い換えれば、わたしが打ち立てようとしてきたのは形而上学ではなく間主観性の理論だ」。

 

 「発話と打ち明け話によってみずからの真理をもとめるのが重要であるのなら、分析は告解にとって代わるものなのでしょうか?――告解は秘蹟であって、打ち明け話の欲求を満たすものではない。聖職者の答えは赦免の効果をもつとはされていない。――とはいえある時期から告解はいわゆる霊的指導と結びついています。――霊的指導は真実を明るみに出すことを目的とする技術を気にかけることがない。……分析的真理は霊的指導に秀でた人にしたがうことでその真理のなんたるかがおのずからわかるというような秘密めいたものでも神秘的なものでもない」

 「精神分析は主体の“適応”――外的環境へのそれであれ、じぶんの人生、じぶんの真の欲求へのそれであれ――を目的とするものではない」。

 

 「人々は精神分析によってじぶんの一部が失われ、変わってしまうことを恐れているのではないでしょうか?――分析をうけたあとで人格の変化がないと考えるのはおかしい。分析の成果があったのにそれがなかった、つまり人格がもとのままだなどということは考えがたい。人格という観念をはっきり定義すべきだ」。

 

 「芸術家にとっても分析は同じいみをもちますか?――主体の歴史の真理へ至るために分析という方法に訴えるのが得策なのか、もしくはゲーテのようにそれじたいがひとつのとてつもない精神分析である作品に委ねるのが得策なのか。ゲーテの作品はそのぜんたいが[人間主体のなかに寄生している]他の主体(l’autre sujet)のことば(parole)の顕現だ」。

 

 「権力者には分析を義務づけるべきでしょうか?――全人類が分析を受ければ戦争も階級闘争もなくなるなどと言うつもりはない。ぜったいにそうはならない。事態の混乱の度が弱まりはするだろうが」。

 現在、精神分析という「道具」の使い方を知らないのは当の分析家たちである。「精神分析の大部分の学派は réduction[縮小、省略、単純化、安売り]の試みに余念がない。フロイト理論のなかでも厄介な(gênant)ものだけを残している(mettre dans sa poche)。この堕落は年々加速している」。

 医学教育に特化した今日の分析教育は「本質的なものを欠如させている」。「こんにち精神分析はますます混乱した神話学に向かいつつある。エディプス複合が消去され、前エディプス的なメカニズムやフラストレーションが重要視され、“不安”という術語に“恐怖”がとって代わっているのはひとつの現れである。とはいえ、フロイディスムのもともとの煌めきが翳ってしまったわけではなく、現在あらゆる人文科学においてその明るい輝きをしかと確認できる」。  

 「ジグムント・フロイトというたった一人の男が、それまで一度たりとも分離されたことのなかった諸効果のうちからそのいくつかを抽出し、組織立ったネットワークのうちにそれらを位置づけなおしてひとつの科学とこの科学の応用分野とを同時に発明したことは驚くべきことであり、衝撃的なことである。とはいえ光芒のようにその時代を横切ったフロイトの天才的な仕事に比べて後続者の仕事が大幅に遅れているのを痛感する」。

 

 これにつづく結びの文は急に書き言葉っぽくなる。

 

 Et on ne reprendra de l’avance que lorsqu’il y aura suffisament de gens formés pour faire ce que nécessite tout travail scientifique, tout travail technique, tout travail où le génie peut ouvrir un sillon, mais où il faut ensuite une armée d’ouvriers pour moissonner. 

 

 ラカンのその他の会見類と同じく、全体的にあとからかなり手を入れた形跡がある。

 

再配達された手紙:「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」

*「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」(L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 先行する二つの論文どうよう、哲学研究者向けの講演を基にした論文であるのは偶々か?1968年版で若干の改稿がある。

 主要なトピックをなすフロイト的構造言語学、隠喩と換喩のメカニズム、コギト解釈は、それぞれ「ローマ講演」、『精神病』(および『対象関係』)、セミネール2巻のヴァージョンアップ版。「ローマ講演」以来の成果に一段落つけようとした論文という性格がつよく、本質的な新機軸はない。

 主なキーワードである「文字」とはまずフロイトの記したテクストのことであり(ラカンはそれを文字どおりに << à la lettre>> 読まねばならないと強調している)、再配達されてきた「盗まれた手紙」である。

 とりあえず文字はその「物質性」によって定義される。いわく「文字は具体的なディスクールがランガージュから借り入れる物質的な support[支持体、媒体] である」。さらに、この定義は「ランガージュは語る主体における身体的・心理的機能とは区別されることを前提する」とつづく。つまりナンシーとラクー=ラバルトがコメントするごとく、この「物質性」は、言語の起源を意味の観念性のうちにも身体的な実体性へも帰すことの拒否ということにアクセントがある。

 『盗まれた手紙』論においてはくだんの手紙[lettre]が純粋なシニフィアンとされ、「シニフィアンの物質性」が言われていた(さらに遡れば「ローマ講演」においてはパロールが「繊細な身体(corps subtil)」と形容されていた)。いわく「シニフィアンは死の審級を物質化する」。そしてそれは「さまざまな点で特異な物質性」である。実体性なき物質性という性質はその「特異」さのひとつに挙げられようが、これはソシュールに拠っている。ソシュールシニフィアンを聴覚的イメージと同一視しつつ、これが物理的な音響ではなく精神に刻まれた印象であるとしている。ソシュールにおいてはシニフィアンシニフィエの不可分性が強調される。たいしてラカンにおいては両者は結びつかず、シニフィアン相互の連鎖が強調される。シニフィアンは関係性において作用するのであるから、音素は非実体性である。それをあえて「物質性」と規定するのはあるいみで逆説的である。

 さらに文字はその“場所性”によっても定義されている。いわく文字とは「シニフィアンの局在化された構造」である。『盗まれた手紙』論においてはくだんの lettre が「場所とさまざまな関係」をもつとされ、さらにその諸関係はやはり「特異(odd)」 なものであるとされている。うえの定義を含む一文をそのまま引こう。「それゆえパロールそれじたいにおける本質的な一要素が、ディド体なりガラモン体なりで活字箱のなかで印刷される活字に流し込まれるべく運命づけられているのであり、これらの活字が文字とわれわれの呼ぶもの、すなわちシニフィアンの本質的に局在化された構造を現前化させるのだ」(Ecrits, p.501)。とりあえず物質性といい局在性というのは印刷されたものというイメージか。もしくは「盗まれた手紙」のように手書きされたもの(『盗まれた手紙』論においてシニフィアンの物質性の「特異」さの筆頭として挙げられているのは、分割不可能性である。手紙は破くことができるが、シニフィアンは破壊されることがない)。ソシュールシニフィアンの物質性を聴覚的にイメージしているとすれば、その局在性によって際立つ文字の物質性はむしろ視覚的なものなのか?「物質性」は「素材性」でもあるが、これより先のくだりには、夢において「意味する素材」(le matériel signifiant)に課される条件としての Rücksicht auf Darstellung というメカニズムへの言及があり、ラカンはこれを形象化(figuration)と解するのは曖昧であり、「演出(舞台化)の手段への配慮」と訳すべきだとしている。つまり視覚的な側面を強調しているわけであろうか?

 同じく本文で引かれている「文字は殺し、霊は生かす」という新約の一節もラカン的「文字」の理解の手がかりをあたえてくれそうだ。mot d’esprit (「語」と「精神」の結びつき)への言及につづいて引かれるこの一節について、ラカンは「人間において真理の諸効果を生み出す」文字なくしていかにして精神は生きるのかと問いかけている。ここで文字は聖書のそれを暗示している。この一節はまた先に引いた「シニフィアンは死の審級を物質化する」をも想起させる。ここで文字と霊の対立が退けられていることは文字の「物質性」の理解になにがしかのヒントとなろう。

 そして lettre は l’être の語呂合わせでもあるだろう。三部構成の本論文のさいごのパートのタイトルは、<< La lettre, l’être, l’autre >>である。「存在」は本論文のキーワードのひとつである。つぎのような一節がある。「神経症は存在が主体の代わりに(pour。ついで à la place de とも言い換えられる)問う問いである」。そしてこの問いは「主体がこの世に到来する以前に存在がいた場所から」(フロイト先生がハンスにくだしたれいのお告げの文句)問われるのだとされる。これは存在は主体「を使って」(avec)問うのだとも言い換えられる(ひとは魂「を使って」考えるとしたアリストテレスをふまえている)。「存在」と「主体」のズレは、コギトにおける「思考」と「存在」の乖離においても確認される(コギト命題は「私は私が存在しないところで考える、ゆえに私は私が考えないところに存在する」というお得意のキアスム的警句に翻訳される)。そう考えるとあらためて引かれることになる <<Kern unseres Wesen >>というフレーズの含蓄がわかってくる。さらに隠喩が「存在欠如」として再定義される(たいして換喩は「存在」である)。なによりもラカンが同時期にハイデガーの『ロゴス』を翻訳していることが忘れられてはならない(タイトルに含まれている「理性」という言葉は本文では「狂気」の別名として言及され、それが「ロゴス」へと送り返されている)。

 いまひとつのキーワードは sens であろうか。本論文の第一部は <<le sens de la lettre >>と題されている。すでに sens は「フロイトの sens への回帰」というれいの殺し文句において問題にされていた。とりあえず、sens に「方向」といういみあいが含意されていることはどんなバカにでも見当がつくが、本論文において重要なのは隠喩の再定義であろう。いわく「隠喩は sens が non-sens において[へと]生産されるまさにその点に位置している」。この一節はすでに引いた「文字は殺し……」についての議論の直前にある。

 そして「真理」という語があいかわらず湯水のように垂れ流される。「この欲望[un désir mort]が主体の歴史においてそれであったところのものの真理を主体はその症状によって叫ぶ。イスラエルの子等がおのれの声を委ねることなくば石そのものが叫ぶだろうとキリストが言ったごとくに」。「ひとは現実界には慣れてしまう。真理については、ひとはこれを抑圧する」。「ランガージュのあらわれ(apparition)とともに真理の次元が浮かび上がる(émerger)」……

 「文字」というキーワードに戻るならば、これはラカンじしんの「書きもの」(écrit)のことでもあろう。『エクリ』英訳者フィンクは、論文冒頭でラカンがその“難解さ”を難産になぞらえて正当化していることを見事に読み解いている(人文書院刊『「エクリ」を読む』)。

 

 

純粋なシニフィアンとしての基本概念:「精神分析とその教育」

*「精神分析とその教育」(La psychanalys et son enseignement, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 フランス哲学協会での講演を基にその紀要に発表された。前年の「1956年における精神分析の状況と分析家の養成」にひきつづき哲学屋さんに向けての一文。しかも分析家の養成というテーマも一緒である。

 

 冒頭、哲学協会という場で話をする必然性が明記される。

 

 「無意識、それは深層[profond]というよりも意識的な掘り下げ[approfondissement]が到達できないところにあるわけだが、その無意識において、それが話す:ひとつの主体が、主体のなかで、主体をこえたところで、『夢の科学』以来、哲学者に問いかけている」。

 

  「ローマ講演」以来のラカンの所論を圧縮した文体で通覧した散漫な構成の論文。かんじんの「教育」という主題についてはつぎのような問いが投げかけられる。

 

 「精神分析がわれわれに教えることをいかに教えるか?」

 

 精神分析の教育は教育の主体への問いからはじまるというわけだ。

 

 さらに、聴衆の哲学徒らをおおいに意識しつつ、

 

 「分析がわれわれに教える、分析に固有な(propre)もの、もしくはもっとも固有なもの、真に(vraiment)固有なもの、もっとも真に固有なもの、もっとも真なるものはなんであろうか?」

 

 この問いにたいするひとつの回答。

 

 「実用的(fonctionnel)ひいては観念的(notionnel)な職業訓練において、視野の狭い教育学は個人(individu)のランガージュへの諸関係を端折ろうとしてきた」

 

 前年の論文に引き続き、国際精神分析協会が槍玉に挙がる。

 

 精神分析の逸脱(心理学化)が「フロイトがみずからの発見と方法の伝達を保持するために設立した」ほかならぬその協会によって「囲われ、守られ、餌をあたえられている」。協会はその権威主義(「<他者>の残酷な擬人化」)によってフロイトの精神的な(spirituel)後継者に道徳的矯正(direction spirituelle)を課している。

 

 フロイトの権威化は、逆説的なことに「みずからのメッセージの純粋に形式的な保存」というフロイトの願いを実現した(ただしそのメッセージのいみあいは著しく歪められている)。

 

 かくてフロイトの「基本概念」は揺らぎのないままである。理解されなかったことによって、ぎゃくにシニフィアンとして伝達されることに成功した。

 

 ここには「基本概念」という特異なフロイト的観念についてのラカンの鋭い洞察がある。

 

 「フロイトは、かれの諸概念、わたしはそれらが他の人文諸科学をはるかに先駆けていたことをすでに示したわけであるが、その諸概念が、柔軟な、とはいえそれらの結び目を解くことなしに損なうことが不可能な――三重否定!――配列[処方]において認知され得る日がくるまではこのよう[理解されないこと]であってほしいと願っていたとおもう」

 

 現在の無理解(「聞く耳もたぬどうしの言説」「不協和音」)は、フロイトの諸基本概念を「媒体」(vehicule)とする真理を抑圧してくれている。「抑圧されたものの回帰」としての真理の「はずかしげな顕現」をうちに隠している。

 

 そして結末の名高い一文がくる。

 

 「その名にあたいする教育に素材を提供するフロイトへの回帰はどんなものであろうと、もっとも隠された真理が文化の革命において顕現する道をとおって起こる。この道はわれわれにつづく者らに伝達するにあたいする唯一の教育(formation)である。それは style と呼ばれる」

 

 ラカンじしんの「文体」がここに根拠をもつ。

 

 「道」(voie)とはフロイトが好んだ比喩である。文中にはつぎのようにもよめる。

 

 「この道はフロイトによってわれわれのためにたんに切り開かれた(tracé)だけではない。この道は端から端までもっとも莫大でもっとも恒常的でもっともみまちがえようのない主張によって敷き詰められている。そのどの頁をでも開いて読んでみるがいい。この王道(route royale)のなりたち(appareil)がみつかるだろう」

 

 文中、真理という語が大盤振る舞いされる。「真理はそこ[想像的なものたち]においてみずからの虚構[として]の構造をあらわれさせる」「かくも真なる(véridique)虚構の構造」。『盗まれた手紙』論に遡るこうした言い回しはもちろん同時期のセミネール『対象関係』で分析されたハンスの「個人的神話」において問題になっていたことでもある。

 

 「真理がそこから現実界に入る間主観性の作用」。「現実界」の定義についてはやはり『対象関係』において着手されたが、いまだその用法には揺れがある。

 

 「真理によって描かれたこの場所は、描かれた場所の真理の序曲となる」。「フロイト的もの」以来すっかりおなじみのキアスム的警句。ここで言われている「場所」とは<他者>のことである。『対象関係』には<他者>を「パロールの場」と定義するくだりがみえる。

 

 『対象関係』における所論はここでもくりかえされる。フロイトは対象の運命を偶然性に委ねたが、今日の精神分析家たちはこの偶然性を環境による決定論に回収してしまう。もしくは発達段階論が「プレハブ式の対象選択」と揶揄される。クラインの「悪い対象」が聖書の「酸っぱいブドウ」になぞらえられているのはケッサクだ。

 

 「シニョレッリ」への言及は次年度のセミネールのかっこうの予告編。

 

ハンス、あるいは存在の自己忘却:セミネール第4巻『対象関係』

*『対象関係』(Le Séminaire Livre IV : La relation d'objet, Seuil, 1994)

 

 カール・アブラハム以来の発達段階論において掲げられ、当時なお幅を効かせていた“理想的対象”という観念が退けられ、フロイトにおいて「対象」は喪失され、再発見されるべきものであるかぎりで問題になることが確認される。対象の欠如には「フラストレーション」、「剥奪」、「去勢」の三つの様態があるとされ、そのそれぞれが想像界象徴界現実界相互の関係のうちに位置づけられる(ジョエル・ドール『ラカン読解入門』に紹介されているジャン・ウーリーの考案になるというダヴィデの星のダイアグラムの参照は不可欠だ)。「フラストレーション」はラカンにおいては過渡的な概念にとどまるが、フロイトの Versagung 概念の流用であり、当時の業界内では去勢概念を押し退けて前景化していた。

 

 欠如した対象とは端的にファルスである(ファルスは不在という形で所有するということがあり得る)。ラカンは構造人類学における「贈与」の象徴性によってファルスの機能を定義し(「ファルスの幻想は、性器的なレベルにおいて、贈与の象徴性の内部において価値をもつ」)、フロイトの二つの症例(「若い同性愛者」およびドラ)においてそれを例示する。フロイト神経症と倒錯がポジとネガの関係にあるとしているが、ラカンによれば、この二つの症例はまさにこの関係を典型的に示している。

 

 「同性愛者」においては父が母に「現実的子供」を授けたのを機に、かのじょがその「想像的子供」を授かることを欲していた「象徴的父」が「想像的父」のポジションに退行し、かのじょはこの「想像的父」に同一化して、ファルスをもたない者としての「婦人」を愛する(「愛とはじぶんがもっていないことをあたえることである」)。フロイトは患者の倒錯を父への当てつけとみなしているが、ラカンによればうえのようないみで患者の「婦人」にたいする情熱は真摯なものである。

 一方、ドラにおいては父が不能であり、あたえるべきファルスをもたない。ドラは父があたえてくれないものゆえに父をあいしている。しかるに父はK夫人をあいしている。K夫人は女性の謎を体現するなにものか(それが何であるかをドラは知らない)を所有している。それゆえドラはK夫人において父があいしているこのなにものかゆえにじぶんが父にあいされたいとおもう。ドラがK氏の求愛を受け入れるのは、K夫人をあいするK氏がそのおなじ理由によってドラをあいするかぎりにおいてである。そのかぎりでK夫人が所有しているものをドラも所有しており、じぶんが父にあいされ得ることになるからである。

 

 二つの症例において「まったく同じ」関係で結ばれた四人の人物が「L図」上に配置される。「同性愛者」は当初じしんの「想像的ペニス」に同一化して父の「現実的な子供」を授かろうとするが、父が「現実的な子供」を母親に授けるという出来事ゆえに、「想像的父」に同一化して「現実的貴婦人」に宮廷風の愛(「非-満足を目指す愛」)を捧げるに至る。

 「同性愛者」の「婦人」にたいする熱愛は、真の愛がどういうものであるかを父親に見せつけるためである。そのかぎりでかのじょの同性愛は「行間に」言葉の字面とは別のメッセージを「暗示」している。このいみで倒錯は「換喩」である。あるシニフィアンが別のシニフィアンに結びつけられ、それを代理している。対してドラはひとつのシニフィエ(女の謎)と複数のシニフィアンを結びつけているかぎりで「隠喩」を事とする(「K氏はドラの隠喩である」「症状は隠喩である」)。

 

 「対象において愛されるものは対象に欠如するものである」および「ひとはもっていないものしかあたえることができない」という二つのテーゼから、典型的な倒錯としてのフェティシズムへと話題が繋げられる。フェティシズムにおいては「ヴェール」の向こうに対象を越えた次元が創出される。「ヴェールの上に不在が描かれる」かぎりで、ヴェールは「愛の基本状況の最良のイメージ」である。フェティシズムにおいては象徴的なドラマが想像的な「舞台装置」において演じられるのだ。ちなみに服装倒錯における衣服は“覆い”ではなく“包み”(遮断、保護)であるかぎりでフェティシズムと区別される。露出症も象徴的な次元が想像的な次元に退行するかぎりでフェティシズムとパラレルである。そもそも衣服は「もっていないものを隠す」機能をももつ。

 倒錯は生来的な欲動に由来するものでエディプス複合は関与していないという見解にラカンは与しない。プログラム化という観点を退けあらゆるプロセスをを間主観性弁証法に帰すのがセミネールぜんたいを通じてのラカンの一貫した立場である。ラカンによれば去勢は人間という類( genre )に固有の機制であるが、このばあいの「類」とは生物学的な「種」( espèce )とは厳密に区別されなければならない。

 

 セミネール後半はハンス症例の詳細な「構造分析」にあてられる。ハンスにとっての問題は父の欠損(carence)、つまり現実的な父(マックス・グラフ)が去勢者としての象徴的な父の役割を担い得ていないことだ(このあたりの目的論的な立論は否定しようもないが……)。恐怖症はこの事態が生み出す「不安」にたいする“防衛”である。ハンスの発病のきっかけは自慰の開始にともなう「現実的なペニス」の介入である。「馬のような」ペニスにはおよびもつかないじぶんのペニスの非力さへの自覚が、それにたいする母親の侮蔑の言葉(「汚い」)を事後的に賦活したのだ。

 ハンスはその「個人的神話」における紋章学の一要素である馬という「トーテム」(シニフィアン)にありとあらゆる意味作用を経巡らせつつ(不安の対象をつきとめるべくあらゆるものがこのシニフィアンシニフィエとして召喚されるわけである)一連の幻想ないし夢として「結晶」させていき(「リメイク」)、去勢(性交)という状況を“神話的に”表象するに至る(神話とは、ある袋小路の状況にたいし解決を構築する試みと定義される)。最終的には神なきハンスにとって文字どおりの deus ex machina である工事夫という人物像に去勢を一部委託させ、かくて症状は消滅し、「めでたしめでたし」(フロイト)となる。ラカンは<フラストレーション+退行+攻撃性>という三点セットがこの症例において不在であることを指摘し、発達段階論に立脚する論者らを論破する(ハンスの関心は一貫して性器にしかない。本症例におけるスカトロジー的要素は「肛門期」とは無関係である。ついでにいえば母親が穿いていないときのパンツへの嫌悪はハンスがフェティシストではないことの証左である。「父とは何か」という問いをすぐれて問う主体であるハンスは倒錯者ではなく神経症者である)。ハンスの症状は発達段階ではなく「シニフィアンの結晶の発展」にしたがって進展する。とはいえハンスは自前の想像的な素材(「道具」)のブリコラージュによる構築をもって象徴的なものに代えただけであり、ハンスの物語はハッピーエンドとはかぎらない。そもそも工事夫が「よりよいペニス」をハンスの「前面」にあたえたなどとは分析記録のどこにも書かれていない。父の欠損への不安が払拭されたとしても、父の欠損という事実の効果をかれは担いつづけなければならないだろう。ハンスは生涯、女性をじぶんの想像的な子供としてしか愛せないだろう(ハンスのドンジュアニスム、“Phallus =Girl”)。後年、フロイトと再会したハンスは分析記録がじぶんのことであると認知できなかった。「存在には想像的自我における忘却という根本的可能性がある」。セミネールを締めくくるこの一文はなにがしか悲劇的な調子を帯びる。

 馬というシニフィアンに唯一のシニフィカシオンを帰すことで「了解」してしまわぬようラカンは度重ねて警告しているが、ラカンは馬がとくに“連結”および“運動”という主題に結びついていることを強調している(二つの主題は Verkehr という観念において合流する )。前者はペニスの「取り外し可能性」という主題系として変奏されていき、後者はアリストテレス的な等速運動をはみだす「不意打ち」「驚き」の効果(ディアナの水浴を想起せよ)によって「存在と生の乖離」を明るみに出すだろう。

 さて、セミネールのコーダにはハンス症例のコウノトリがレオナルド論の「禿鷲」へと回付されるアクロバティックな大ジャンプが待っている(小羊という動物学的紋章およびアンナという人物名もこのアナロジーへ通じる小径である)。現実界の数学化という科学的トレンドに乗り損ねたレオナルドがなぜあれほどの現代的な認識をもちえたのか? レオナルドは自然という他性を想像的同一化によって接近可能なものにしたというのがラカンの見立てだ。『聖アンナ』像における現実的母(マリア)と象徴的母(アンナ)の「融合」を見よ。前後するが、ラカンはハンスにおいても超自我的な祖母の介入による「母の二重化」という事態をみてとっている。この祖母がハンスにとっての「想像的父」となる(「象徴的父」の役柄を演じるのはフロイトである。“全知”のフロイト先生はハンスにとって文字どおり神である。ハンスはわれわれが神を漠然と信じるように漠然とフロイトの存在を仰いでいる。「象徴的父」とはいかなる人もそのポジションを担い得ない審級である)。

 ラカンはレオナルドにおける「昇華」という機制を「本質的な他性に蜃気楼の関係を住まわせること」と表現している。昇華についてのラカンの見解は三年後のセミネール『精神分析の倫理』に俟たれることになるわけだが、とりあえずここでは自我心理学派による「脱リビドー化」といった理解の仕方が退けられ、倒錯がそうであるとされたように、昇華もまたファルス、要するに去勢、したがってエディプス複合に関わっているという観点が打ち出されていることを確認しておこう。

 というわけで、精神病についての前年度のセミネールにおけるファルスの優位という問題提起が、本セミネールにおいては神経症、倒錯、昇華という機制を包含するものと位置づけられ、確認される。

 

 

ヴァルデマール氏ふたたび:「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」

*「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」(Situation de la psychanalyse et formation du psychanalyste en 1956, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 初出は Etudes philosophiques 誌(第4号、1956年)。部外者にパノラマを提示するという主旨にしては内輪向けに書かれているようなフシが強い(?)。一部大幅な改稿を経て『エクリ』に収録された。

 

 精神分析の現状と分析家の養成という二つのテーマをもつ論文。これらはフロイト的経験の伝承の困難という一つのテーマに帰されるだろう。

 

 前半ではフロイト以後の精神分析の潮流と諸概念が列挙され、そのことごとくが象徴的なものを無視していることが批判される。ラカンの見立てによれば、フロイト以後の分析運動史はまず想像的なものを現実的なものと同等に格上げすることにはじまり、ついで前者を後者の規範と位置づけるに至る。

 

 しかるにフロイトが目指したのは「想像的なものを象徴の連鎖のうちに保障すること」である。「人間は生まれる前から、そして死んだあとも、象徴の連鎖の囚われである」。無意識とは要するに「象徴的なものは人間の外にある」ということをいみし、自我の自律を唱えるトレンドが槍玉に挙がる。ついでにフロイト用語がそのほんらいの意味を無視して使われている事態が「純粋なシニフィアン」と揶揄される。

 

 フロイトがみずからの思想を完全な形で維持しようと設立した国際精神分析協会(IPA)は、フロイトが「大学で精神分析を教える必要があるか」(1919年)で思い描いた精神分析教育の理想に逆行している。それどころか、フロイトが『集団心理学と自我の分析』において軍隊および教会(“治外法権”)のうちに見てとり、ファシズムを予言することにもなった構造にはまりこんでしまっている。つまり、各々の自我を共通の理想像に同一化させるという事態である。

 

 『エクリ』刊行時に最後のパートが完全に改稿されている(初出時のヴァージョンでは全体の四分の一。改稿部分は初出時の倍以上の長さに膨らんでいる)。

 

 改稿部分では<自足><小さな靴[窮屈な思い]><至福><必要なもの>といったアレゴリーを用いてIPAの分析家養成制度が皮肉られている。<自足>は精神分析の階級制度における「唯一の階級」とされ、ほかの階級がないので精神分析の世界では民主主義が保たれているとされるが、いうまでもなくこのばあいの民主主義とは古代のポリスにおけるそれとどうよう、あくまで「主人」だけのそれである。この団体が自我心理学の土壌となったことは偶然ではない。

 

 どうやら<自足>とはIPAのメンバー、<きつい靴>とは外郭団体のメンバーを指すものであるようだ。<至福>とはIPA公認の分析家の栄誉にあずかる志願者であり、<必要なもの>とは教育分析を担当する分析家であるらしい。IPAの制度において四者の関係は、カントが『純粋理性批判』で使い、フロイトシュレーバー症例で引用した比喩における、別の男が搾る山羊の乳を篩で受けようとする男のように複雑怪奇な配置をなしており、とうぜんながらIPAの分析家教育において「真理」(カントがくだんの比喩を使ったとき問題になっていたもの)は篩からことごとくこぼれ落ちている。

 

 周知のとおり、この三年前にSPFを立ち上げたラカンIPAの公認を得ようと画策するも、IPAラカン(およびドルト)の教育分析家としての資格を認めなかった。SPPとSPFの分裂の背景には、非医師に教育分析を委ねるか否かという論争があった。ラカンによれば、非医師に教育分析の資格を認めないIPAの教育は医学教育の二番煎じに堕し、およそ実践的ならざる「フィクションのネタ」を提供するだけ終わっている。また、<自足>は口(parole)を挟まないことを旨とするので、「文盲」[非医師]であっても黙っていれば非合法的に<自足>の座にありつくこともできる。

 

 フロイトの立ち上げた協会はいわば「ヴァルドマール氏」のように死後の生を生き、[プラトンの]エロスのように腐敗に至るまでのつかの間の享楽を満喫しているだけである。師フロイトパロールを甦らせることがこの協会を安らかに眠らせることになる(この論文はフロイト生誕百年目に書かれている)。

 

 1966年版のこのような結論は初校ヴァージョンのそれに忠実である。いわく、「分析の共同体がフロイトの inspiration[ひらめき、影響力、息]が散逸するのをさらに許容するにつれて、フロイトの学説の文字(lettre)いがいの何がそれをひとつの corps のうちに保持しつづけることができるというのか」。

 

 ラカンは動物の心理と人間の心理の不連続性を唱えているという「誤解」が蔓延しているとの一節あり。晩年のデリダもこの一節を引いていた。

 

 

シュレーバー、あるいは無意識の殉教者:セミネール『精神病』

*『諸々の精神病』(Le Séminaire livre III ; Les psychoses, Seuil, 1981)

 

 ラカンによればフロイトシュレーバー症例は『夢解釈』よりも画期的である。『夢解釈』には先駆者がいたが、シュレーバー症例においてフロイトは未曾有の領域を切り開いた。

 

 とはいえ、フロイトは「精神病の構造」を解明せずに終わった。フロイトのテクストの価値は問いを開いたままにしていることだ。そのいみで精神病への問いはフロイト的である。(「フロイト的もの」以来、ラカンは格言的な言い回しにハマっている。)

 

 精神病においては無意識が意識されているという見解は正しくない。精神病者には無意識がないのではない。「精神病において無意識はそこにある。ただし機能していない」。

 

 そのいみで精神病者は「無意識の殉教者」であり、無意識の「開かれた証言者」である(神経症者の「証言」は閉じられ、解読を必要とする)。

 

 神経症の症状が隠された真理であるのにたいして、精神病における妄想は露になり、「理論化」されてさえいる真理である(シュレーバーの妄想はいわばメタ=シニフィアン理論である)。

 

 妄想は治癒の「努力」であるとか同性愛への「防衛」であるという見解も、「努力」「防衛」の主体が自我と想定されているかぎりで正しくない。

 

 そもそもシュレーバーに同性愛とか女性化を帰したのはフロイトの冒した「飛躍」である。じゅうらいのシュレーバー解釈が無視していたのは「去勢」ということである。シュレーバーにおいて問題なのは「同性愛」でも「女性化」でもなく「父」性である。

 

 フロイトがナルシシズム概念を導入したのはシュレーバー症例であるが、想像界の領域しかカバーしないナルシシズムという概念に依拠したことはフロイトの限界である。

 

 「象徴的次元において拒絶されたものが現実界にふたたび現れる」。この場合、拒絶されたものとは「父というシニフィアン」ということになるわけだが、神経症においては抑圧されたものが「その同じ場所に」(in loco)「仮面をつけて」現れる(「抑圧と抑圧されたものの回帰とは同じである」)のにたいし、精神病において「抑圧」(要するに「外部」に「排除」)されたものは「想像界」(要するに「現実界」)という「別の場所に」(in altero)「仮面をつけずに」現れる。

 

 シュレーバーにあっては<他者>が「除名」(exclure)され(存在していないということではない)、他性が想像的次元に一元化される。シュレーバーの言う「魂の殺害」という事態をラカンは想像的な他者に向けられた殺意(攻撃性)に送付している。

 

 シュレーバーにとって「彼」は失われ、「唯一のパートナー」たる「汝」に吸収されている。

 

 この「汝」はシュレーバーにとっては「異物」として感じられるメッセージ(妄想)としてシュレーバーの「我」を占拠し、タルチュフのように主人たるかれを“我が家”から追い出す。

 

 「精神病のもっとも本質的な現象の一つ」は「ça が語る」ということである。つまり、主体が語るのではなく「ça」が語るということであり、精神病者にとって「ça」は[妄想という]パロールとして現れるということである。

 

 シュレーバーパラノイア患者がいっさいを自分に関係づけるとするクレペリンの指摘を取り上げ、じぶんはそのかぎりではないのでパラノイア患者ではないと主張する(『回想録』原書309頁)。そのかわりにシュレーバーはいっさいを“他者”に関係づける。

 

 フリース宛書簡においてフロイトはいみじくも書いている。精神病者は「自分自身を愛するように自分の妄想を愛している」と。ラカンはこの一節を「汝自身を愛するごとくに汝の隣人を愛せ」という聖書の一節に送り返す。

 

 とはいえシュレーバーの妄想に宗教的なところはない。シュレーバーの「神」は神秘主義的な熱狂の対象ではない。シュレーバーは一貫して客観的な証言者である。

 

 ちなみにラカンは上のフロイトの一節を中世の騎士道的恋愛に送付してもいる。

 

 パラノイアにとってそもそも「迫害者」は「迫害」(妄想)の影にすぎない(“父親に売り渡される”とのドラの“迫害”幻想との違い)。

 

 ラカンシュレーバー的な神を超自我になぞらえている。

 

 シュレーバーは意味作用をなさない「中断された文」を聞き、虫食いになっている「……」に適切な言葉を補填することを強いられる。言葉が際限なく浮かんでくるが、どれも適切な言葉ではありえない。

 

 ラカンシュレーバーの「中断された文」が相似性(共時態)の障害であるヴェルニケ失語を思わせると述べている。シュレーバー隠喩を使っていないこと、的なところがないことはそのひとつの証左である。

 

 正常者はこうした際限のない「内的ディスクール」に耳を傾けないが、精神病者にあってはシニフィアンシニフィエの「クッションの綴じ目」が外れており、「シニフィアンが独力で歌い語りはじめる」。「内的ディスクール」の際限のなさについてはシュレーバー『回想録』原書309頁以下のくだりが一度ならず引用される。

 

 「神経症の構造は問いであり、それゆえに神経症はわれわれにとって長らく純然たる問いでありつづけた」。

 

 主体はシニフィアンの連鎖をたどってみずからのアイデンティティを確認する。とはいえシニフィアンによっては表し得ないことがある。生殖(procréation)、言い換えれば生と死という事実である。ある個人が別の個人から個別化すること、言い換えれば、ある個人が誕生するためには別の個人が死ななければならないということは、シニフィアンによっては説明されない。そのかぎりでシニフィアンによっては「主体という奇妙な実在」を表すことはできない。

 

 神経症者の問いはこのような「主体」の「存在」への問いである。そしてヒステリー者の問いにおいて優位にあるのは「ファルスという中心」である。いわく「女である[=女性器をもつ]とはどういうことか?」(男性ヒステリーにおいても同じ問いが問われる。)

 

 一方、シュレーバーはこの神経症的な問いを「生きた状態で」(à l’état vivant)提示する。いわく「女になって性交されたらどんなにいいだろう?」

 

 「シュレーバーには父であるというシニフィアンが欠けている」。それによって、神経症者が象徴的行為(擬娩、父への同一化)によってこの問いを問おうとするのにたいし、精神病では生殖の現実的機能が問題になっている(「シュレーバーの身体は女への同一化というイマージュによって侵害される」)。 

 

 「『盗まれた手紙』についてのセミネール」「フロイト的もの」をつうじて主題となっていた「真理」は、本セミネールにおいてはフロイトが『モーセ一神教』で問うた「霊的」真理としての「父」へと送付される。

 

 「父の名」は、同時代の分析理論の潮流であった対象関係論(次年度のセミネールのテーマ)における母子関係の過度の重視を背景に導入された概念である。シュレーバーが神の実体とする「基本語」はこの「父の名」のいわばまがいものであるわけだ。

 

 妄想はシニフィアンであるが、意味作用を生じさせないシニフィアンである。「基本語」は原始語どうよう相矛盾することがらを同時に言い表すがこれはシニフィアンにおいてはあり得ない事態である。

 

 「男から男への子孫関係が語り始められるときにはじめて世代の差異という切れ目が導入される」。シュレーバーの発病は、早すぎる出世による「世代間の混乱」が「父であること」への問いを活性化したことの結果である。

 

 エディプス複合は<ファルス-母-子>という三項図式であり、父は「三者を一体として保持する輪」として位置づけられる。

 

 セミネール開講中ラカンハイデガーの論文「ロゴス」の翻訳を公にしている。<父の名>の概念が“集め置きとしてのロゴスがすべてを<一>に保持する”というヘラクレイトス的ヴィジョンと響き合うのは偶然ではない。さらにヘラクレイトスはこのことを“私にではなくロゴスそのものに”たずねよと述べている。

 

 翻訳者としてハイデガーの口調が伝染してしまったものか、講義ではハイデガー的な物言いがところどころで目につく。たとえばセミネール終盤の「街道」の比喩?

 

 「クッションの縫い目」の事例として注釈される『アタリー』における「神への畏怖」は、他のあらゆるものへの恐怖を浄化するものであるかぎりで父の名につうじている。

 

 ユーゴーの「麦束」は換喩ではなく、文の主語に位置する語の「置き換え」であるかぎりで「隠喩」とされる。ヤコブソンフロイト的な「圧縮」を隠喩に、「置き換え」を隠喩に送付するが、ラカンによれば「圧縮」も「置き換え」も換喩ということになるようだ。

 

 ピションの問題意識を継承した“Tu es celui qui me suivra[s]. をめぐるバロック的な考察は、本セミネールでラカンがたびたびケチをつけているシュレーバー症例フロイト的方程式(「私は彼を愛する」の変奏)に刺激されてはじめたふしがある。

 

 suivre が二人称、三人称のいずれで活用されているかは耳で聞くかぎりでは区別できない。それゆえ文の完成は聞き手に委ねられている(言い換えると、「ユダヤ=キリスト教的伝統の精神的基盤」たる「 je は tu を支えきれない」)。ラカンはそれゆえに“Tu es celui qui me…”をシュレーバー的な「中断された文」の典型とみなしている。ラカンは suivras (「信頼」)の方が suivra (「確認」)よりも tu との結びつきが「緩く」、それゆえ従わない自由を許容するとしている。

 

 ラカンシュレーバーの妄想が17世紀のプレスューズたちの言葉遣いに似ていると述べている。たとえば「魂の殺害」という言い回しはプレスューズが恋愛を語る際に使ったとしても不思議ではない。プレスューズ的な言葉遣いは「ランガージュが現実的なものの直接の理解に基づいていない」ことを示している。

 

 ラカンによれば、現代において支配的な「自由のディスクール」(「個人的存在」の自律性を要求する言説。革命の言説)は妄想のディスクールの一つである。より正確に言えば、両者は「同じものではないが同じ場所に位置する」。そして精神分析ディスクールは「自由のディスクール」ではない。

 

 フロイトにおける自体愛の観念と母子関係における原初的対象の観念は矛盾するようにみえる。この矛盾は autre と Autre を区別することによって解消する。

 

 「前エディプス的」関係というクライン的概念は「正当で豊かな考え」である。

 

 クレランボー的な精神自動症がアリストテレス的なアウトマトン概念に送付される。

 

 フロイト的 Verwerfung の訳語 forclusion は、もったいぶったすえに最終回の講義でお告げのように厳かにお披露目となる。

 

 周知のとおりフロイトシュレーバー症例にたいしては父シュレーバー(ダニエル・ゴットリープ・モーリッツ)の影響を過小評価しているという批判が諸家によってなされている。父シュレーバーについてはラカンもほとんど言及していない。れいの体操教則本に性行為の体位の指南のくだりを探し当てようとしたが徒労だったなどととぼけたことを述べているくらい。

 

お喋りな演台:「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」

*「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」(1955年、『エクリ』所収)

 

 「鏡像段階」論、「ローマ講演」、「セミネール1巻」「同2巻」(L図、"Wo Es war...")、「『盗まれた手紙』論」(真理)のおさらいにして「セミネール3巻」(シュレーバー)「文字の審級」(ソシュール)を予告する論文。

 

 フロイトによるコペルニクス的「革命」が切り開いた道が、精神分析運動史のなかで逸脱してきたことが確認され、「フロイトへの回帰」が唱えられる。そして「フロイトへの回帰の意味はフロイトの意味への回帰」、つまりフロイト精神分析にあたえた第一義的な意味への回帰である。フロイトがかれの時代の問題にたいしてあたえた回答はなおアクチュアルである。

 

 本論文はこれに先立つ「『盗まれた手紙』についてのセミネール」から「真理」という主題を継承している。ポーの寓話におけるおのずから人物たちのあいだを循環する手紙は、顕現としての真理がおのずから明かされるがごとくである。そこにはあるしゅの「擬人法」(prosopopée)がある。「私は真理であり、私は語る」。

 

 「幕間」というセクションを挟む13のセクションからなる本論文は、いわば「真理」を主役とする劇ないし「寓話」仕立てになっている。『盗まれた手紙』におけるように「真理がフィクションの存在そのものを可能にする」?

 

 この劇はまずもって「演台」を狂言回しとする「喜劇」として開幕する。「話す演台」とは運動史を逸脱させた元凶である自我の「対象化=物体化」を揶揄したもの("chosisme")。そこでは自我は演台という「道具」であり、それを「製造」し、「操作」("opé-ra-tion-nel")するのは分析家であるとみなされている。話しているのは言うまでもなく講演者であって、演台そのものではない。

 

 返す刀で、自我は物ではなく物への意識であるとする現象学が退けられる。現象学者は「じぶんが言葉を話す演台であるという夢」を見ているのだ。演台の意識なるものは演台を製造したわれわれのそれにすぎない。「葦」に「思考」を帰したパスカルも同根。自我が物の反映であるとしても、自我は"directeur de conscience"(「魂の導き手」)を任ずるヤスパースの言うように、この反映についての意識などではない。

 

 「自我の健康な部分との同盟」を治療の原理とする見解は、自我を物体化の運命から部分的に免れさせているようにみえるが、患者の自我を分析家の自我のコピーに仕立てようとしているだけである。

 

 この「寓話」はアクタイオーンの悲劇の再演で幕を閉じる(クロソフスキーの『ディアーナの水浴』は同年)。光のなかに神々しく肢体をさらす美女という伝統的な真理の寓意とはちがい、フロイトにとって真理は現れる間もなく身を隠す女の謎である。ディアーナがアクタイオーンを誘う洞窟の「不潔で悪臭漂う」「湿った影」が真理の隠れ場所になぞらえられる(『盗まれた手紙』についてのセミネール」において女性の属性は「影」に帰されていた)。そこでアクタイオーンは切り刻まれ、コロノスのオイディプスのように「真理のとき」を見つけることになるのであるらしい。

 

 いずれにしても精神分析における真理が「大いなる欺き手」であり、「本質的にもっとも真実らしくないとみなされているもののなかを彷徨う(vagabonder)」ことはたしかである。失錯行為しかり夢しかり機知しかり。

 

 Adœquatio rei et intellectus.(ものの一致と判断)。これは真理のひとつの定義である。このうちの rei が reus (負債者)の属格と同型であることをもって、ラカンは「象徴的負債」についての議論へ大跳躍を試みている。

 

 本論文の脇役:「クレオパトラの話す鼻」「思考の犬」(?)「思考の鷲」(?)「心霊主義者の葦」「猟犬」「鳩」(?)「牛」「白子の黒人」「暗殺者」「屍体」「公証人」「鼠人間」「犬と狼のあいだ」「淫猥で獰猛な人物」「狡智をはたらかせる理性」その他。